大東亜帝国、日東駒専、成成明学獨國武、MARCH、関関同立のための世界史記事。
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こちらで軽く流れを確認すると覚えやすくなります。
はじまり
前8世紀頃にラテン人がイタリア中部のティベル川周辺に都市国家ローマを建国します。しかし、エトルリア人によって、ローマは一時支配されました。
※ラテン人かエトルリア人かの区別をしっかりつけよう。
政治
その後、ローマ人はエトルリア人を追放します。そして、最初に政治の権力を握ったのは、貴族でした。貴族政治からはじまるのです。
当時のローマは元老院が政治の実権を握り貴族が公職を独占していていました。
きちんと役職について整理しよう。
☆貴族(パトリキ)が独占
元老院・・・最高決定機関。任期は終身。
ディクタトル・・・臨時職で1名。任期は半年。
☆平民(プレブス)・・・中小農民が中心
元老院は、諮問権を有し、定員が300名。のちに600名になる。
そして、全男性市民で構成されている民会があります。しかし、元老院の承認を得ないと国法化できません。これに平民(プレブス)は不満にもっていました。
プレブスは、重装歩兵部隊を形成して、軍事の主力を担うようになったため、参政権を要求していきます。この平民が政治参加を実現させていく過程を身分闘争といいました。
ギリシアとの整理をきちんとしておこう。
○護民官の設置・・・2名で構成され、平民会を主宰する。元老院・コンスルに対して拒否権を持つ(前494)
○平民会の設置・・・平民のみで構成される議会(前5世紀初め)
○十二表法・・・習慣法を成文化(前450頃)
○リキニウス・セクスティウス法・・・コンスルのうち1名を平民から選出する。公有地の占有を制限する。(前367)
○ホルテンシウス法・・・元老院の承認を得ずに平民会の決定で国法にすることができる。(前287)
ギリシアの民主政発展の流れ
結果、平民と貴族は同等の政治的権利を得ることができた。しかし、実際は、貴族と富裕層が新貴族を形成し、元老院と政治を指導する体制は維持された。
+知識
護民官は前5世紀にパトリキに反抗したプレブスが、ローマ北東のモンス=サケル(聖山)に立てこもって、分離を宣言した聖山事件がきっかけとなり、設置された。
領土拡大
その後ローマは領土を拡大していき、前272年にギリシアの植民市タレントゥムを攻略しイタリア半島を統一しました。そして、軍道を整備します。アッピア街街道(ローマ~カプア間)です。
また、イタリア半島内の都市を植民市、自治市、同盟市に分ける分割統治をしました。
前264年~前146年にポエニ戦争を起こします。戦った相手は西地中海の制海権を持っていたフェニキア人の都市カルタゴです。3回にも渡る戦争は、最終的にローマが勝利し、西地中海の覇権を握りました。
ポエニ戦争の中身を整理しよう。
ローマ vs カルタゴ
①ローマ勝利。シチリア島を属州にする(前264)
②ハンニバル(カルタゴ)が象部隊を率いて、カンネーの戦いで勝利(前216)。
大スキピオ(ローマ)がザマの戦いで勝利(前202)
社会の変化
ローマの領土拡大は社会を大きく変えていきました。
ポエニ戦争後、中小農民は疲弊し没落していきます。さらに、属州からの安価な穀物が流入してその結果、無産市民となり、「パンと見世物」を求めて都市へ流入してきました。
また、富裕層は戦争で得た奴隷で大土地所有制(ラティフンディア)を行い成功する人もでてきます。さらに属州の徴税を任された騎士も大きな富を手に入れることになりました。このように格差が広がっていったのです。
ラティフンディアとコロナトゥスと区別しよう
ラティフンディア・・・奴隷を使用 / 共和政末期
コロナトゥス・・・コロヌス(小作人)を使用 / 帝政後期
内乱
ローマは内乱の1世紀(前2世紀後半~前30年)です。
ティベリウス=グラックスは護民官に就任したとき、自作農創設による軍の再建を目指すため、無産市民への土地を分配しようと(前133~前121)改革します。1人あたり500ユゲラに制限する法律を提案し、可決させました。彼の死後、弟のガイウスも護民官に就任し、改革を進めようとしますが、元老院に抵抗されて失敗します。
この後のローマは、代表者スラの閥族派と代表者マリウスの平民派が派閥闘争を起こしていきます。重装歩兵が解体したので、マリウスは傭兵制を導入しました。
ごっちゃにならないように整理しよう
閥族派・・・スラ 平民派・・・マリウス
さらに、同盟市戦争(前91~前88)が起こります。鎮圧後、イタリア半島内のすべての都市に市民権が与えられます。
さらに、剣闘士のスパルタクスが反乱(前73~前71)を起こしました。クラッススとポンペイウスが鎮圧します。また、ポンペイウスは前63年にセレウコス朝シリアを征服しています。
前60~前53にはポンペイウス、クラッスス、サエサルが第1回三頭政治を行います。閥族派出身のポンペイウス。平民派出身のカエサル。また、クラッススは騎士階級です。
まず、クラッススはパルティア遠征で戦死してしまいます。そして、残りの2人で争い、最終的にカエサルが勝ち、独裁をしていきました。
カエサルは自らをインペラトルを称して終身ディクタトルに就任します。しかし、共和主義者のブルートゥスらにより暗殺されてしまいました。
カエサルの死後、第2回三頭政治(前43~前36)が行われます。アントニウス、レピドゥス、オクタウィアヌスの3人です。
レピドゥスは早めに失脚し、アントニウスとクレオパトラvsオクタウィアヌスのアクティウムの海戦(前31)がはじまりました。結果、オクタウィアヌスが勝利します。そして、翌年30年にエジプトを征服しました。
略図
ローマ(王政)
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今日はここまで。ではまた次回!