今日は内陸アジア。覚えにくいところですね。いっしょにまとめられると整理がたいへん。まず内陸アジアの場所はいかに。
世界史チャレンジ。大学受験や教養、旅行の前になど。毎日少しずつ知っていこう。
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あらすじ
モンゴル高原には様々な騎馬民族が出てきます。どの民族も中国を苦しめました。
チベットはインドの文化に影響を受けて栄えていきました。
海の交易ルートを確保するため、東南アジアの入り口にある雲南地方は、モンゴル帝国が征服しにきました。
地図
まずは地図で確認していきましょう。赤いところがモンゴル高原です。青いところはチベットです。黒いところが雲南です。
モンゴル高原
匈奴は騎馬遊牧民と呼ばれます。機動性に富んだ軍事力を備えた遊牧民です。この戦術を考案したのは、スキタイという民族です。南ロシアの草原地帯にいました。後に出てくる民族はみな騎馬遊牧民です。
匈奴の全盛期は冒頓単于(ぼくとつぜんう)の頃です。単于は君主という意味です。前漢の高祖を破るくらいの強さです。彼の死後、匈奴は徐々に弱くなっていきます。最終的に、前漢の武帝の遠征軍に敗れて衰退してしまいました。
ついに、匈奴は東西に分裂してしまします。東匈奴と西匈奴です。東匈奴は漢に服属しますが、西匈奴は漢に敗れて滅亡してしまいます。
その後、東匈奴は南北分裂してしまいます。南匈奴と北匈奴です。南匈奴は後漢に服属しますが、北匈奴は後漢の攻撃を受け、ヨーロッパ方面に逃げました。そして、この北匈奴の末裔がゲルマン人の大移動につながるフン人になったと言われます。(後→ゲルマン人の大移動)
後漢から魏晋南北朝の時代の頃、まず、鮮卑(せんぴ)という民族が登場します。この民族は、拓跋氏(たくばつし)のときに北魏を建国します。また、カガン(可汗)という称号を使用したと言われます。モンゴル帝国のハンのもとになったとも言われます。
隋、唐の時代の頃、トルコ系の突厥という民族が出てきます。彼らは、ササン朝とともに、エフタルと滅ぼしました。また、北方遊牧民最古の文字である突厥文字を使用していました。最終的に彼らは東西に分裂してしまいました。
次は、トルコ系のウイグルが出てきます。彼らは、安史の乱では唐に援助しました。また、後にモンゴル文字や満州文字に影響を与えるウイグル文字を使用していました。さらに、マニ教を国教化します。のちにイスラームへ改宗しました。
ウイグルはこの後敗れて西に移動します。そこで出来たイスラーム王朝は彼らを軍人奴隷として採用しました。西アジアに各地に送られます。
チベット
7世紀にソンツェン=ガンポがラサを都にして吐蕃(とばん)という国が建国しました。インドや中国の仏教文化を導入し、チベット文字の創作をします。これは、インド文字をもとにしています。中国とも近いのですが、インドの影響を強く受けました。
大乗仏教がもともとチベットにあった民間宗教と融合してチベット仏教という新しい宗教ができました。そのリーダーのパスパはフビライに従事します。これがチベット仏教が中国に伝わるきっかけになりました。
フビライはチベット仏教を保護しますが、僧侶たちは豪遊するようになってしまいます。これを立て直そうとする動きが出てきます。
ツォンカパは戒律と修行を重んじ、衰えたチベット仏教を改革を行いました。この改革以降、チベット仏教は黄帽派と言うようになります。
現在もチベット仏教はチベット地域を中心に信仰されています。リーダーのことをダライ=ラマといいます。正教一致の最高権力者のことです。チベット仏教の中心はポタラ宮殿です。ダライ=ラマが生活しています。
雲南地方
唐王朝の頃に、南詔(なんしょう)という国がありました。中国、チベット、インドの要素を融合した文化をもっています。
南詔の次に出てくるのが大理(だいり)という国です。中国の宋の頃です。そして、モンゴル帝国は大理を征服し滅亡させました。この地域は東南アジアの入り口になります。海の交易地域も押さえたかったの領土に組み込んだということです。
略図
○南ロシア草原
スキタイ
↓
フン
↓
↓
↓
↓
↓
↓
遼
↓
モンゴル
↓
元
↓
アケメネス朝ペルシア
↓
アレクサンドロス帝国
↓
セレウコス朝シリア
↓
↓
ササン朝ペルシア
↓
イスラーム帝国
↓
↓
バクトリア王国
↓
大月氏
↓
↓
エフタル
↓
↓
唐領
↓
↓
サーマーン朝 / カラハン朝
↓
西遼
↓
モンゴル
↓
チャガタイハン国
今日はここまで!ではまた次回!