【教養のための世界史】イスラーム世界の繁栄

今日はイスラーム世界の繁栄。まだまだ複雑。地図と年代で整理するのは大事ですね。

世界史チャレンジ。大学受験や教養、旅行の前になど。毎日少しずつ知っていこう。

 

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青い文字をクリックすると関連した画像検索や記事に飛びます。絵や写真だったり、続きの話、前の話です。気になったらさっと見てみましょう。

 

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あらすじ

 

地図

 まずは今日やる範囲を地図で確認しましょう。だいたい赤で囲った部分のお話です。

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ティムール朝

 中央アジアティムールティムール朝を建てました。西チャガタイ=ハン国から独立したのです。都はサマルカンドです。

 

 彼は商業ルートをもう1度つなげたかったので、征服戦争を多く行っていきました。まず、イル=ハン国の領土を征服し、イラク・イランを支配します。さらに、キプチャク=ハン国を攻撃し、南ロシアへと進出しました。また、トゥグルク朝を征服し、西北インドを支配します。

 

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 そして、アンカラの戦いオスマン帝国を破り、皇帝を捕虜にしてしまいました。彼は商業ルートをもう一度つなげたかったのです。しかし途中で病死して志半ばで終わってしまいました。

 

 彼の死後、ウルグ=ベクの頃は、文学、天文、歴法、建築、細密画が発達しました。

 

 そして、遊牧ウズベクが侵入してきて、滅亡してしまいました。ウズベク人たちの国はブラハ=ハン国、ヒヴァ=ハン国、コーカンド=ハン国です。3つ合わせて、現在のウズベキスタンの母体になっています。

 

サファヴィー朝

 ティムール朝が滅亡した後、中央アジアを支配したのは、サファヴィー朝でした。イスマーイールという神秘主義教団の指導者が建国者です。タブリーズを都にしました。

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 彼は防衛力を高めるためにシーア派の国教化しました。さらにシャーという王号を使います。これで国民の団結心を作り出しました。

 

 全盛期はアッバース1世です。彼はイスファハーンへ遷都しました。ここは東西貿易の中継地点として栄えました。世界の半分と呼ばれるほどでした。さらに、イマームのモスクを建立します。そして、ホルムズ島の奪回しました。

 

オスマン帝国

 オスマン帝国にはティマール制がありました。シパーヒーに対し、分与地とその徴税権を与えるものです。シパーヒーは騎士です。給与をお金ではなく土地にしたのでした。そのため、領土を拡大し続けなければなりません。

 

 また、キリスト教徒の男子を改宗します。これはイヤイヤされたわけではありません。改宗すれば、教育や訓練を通じて高級官僚や軍人になって高い給料がもらえるからです。その軍人は皇帝直属の常備歩兵軍のイェニチェリと呼ばれました。

 

 オスマン帝国の建国者はオスマン1世です。アナトリア西部で自立しました。彼らは西のバルカン半島に攻めにいきます。それは異教徒の地という大義名分があったからです。さらにジズヤを課すこともできるのです。

 

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 ムラト1世のときには、アドリアノープルを奪い、そこをエディルネと名前を変えます。そして、コソヴォの戦いでスラヴ勢力を撃破しました。

 

 バヤジット1世のときには、ハンガリー王を破って、ドナウ川流域を支配します。しかし、アンカラの戦いでティムールに敗北しました。

 

転換

 メフメト2世の時に大きな転換期を迎えます。それは、ビザンツ帝国を征服し、コンスタンティノープルへ遷都したことです。現在はイスタンブルです。ここは東西交易の要所でお金が集まったのです。この後、オスマン帝国は交易中心の国家へと変わっていくのでした。

 

 セリム1世の時には、マムルーク朝を征服し、メッカ・メディナを支配し、スンナ派の盟主の地位を確立しました。商業ルートの獲得をしたかったためです。

 

 レイマン1世の時には、ハンガリー征服し、第1次ウィーン包囲で皇帝カール5世と衝突しました。しかし、突然の寒冷化で負けてしまいました。

 

 その後、プレヴェザの海戦がありました。スペイン・ヴェネツィアなどの連合艦隊を破り、地中海での制海権を獲得します。これでオスマン帝国は完全な商業国家になりました。

 

 1557年には、レイマン=モスクイスタンブルで完成しました。

 

ムガル帝国

 次はインドの話です。バーブがバーニーバットの戦いでローディー朝を破り、デリーを占領し、ムガル帝国を建国します。ムガルの由来は、北から入ってくる人をモンゴルと呼んだことらしいです。

 

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 アクバルマンサブダール制を整えます。そして、人頭税(ジズヤ)を廃止します。このようにして、多数派のヒンドゥー教徒を抱きこみました。さらにアグラへ遷都しました。

 

 シャ=ジャハーン頃から、混乱の時代になっていきます。彼はアグラタージ=マハルを造営しました。このため財政難になってしまいました。

 

 次の皇帝のアウラングゼーブ人頭税(ジズヤ)を復活させます。ジズヤの適応範囲を広げるために、デカン高原を征服しました。彼の死後、各地で反乱が起こってしまいました。

 

文化

インドはもともとヒンドゥー教の多い地域でした。そこにイスラーム国家が出来たことで2つは融合しました。

 

 細密画がインドに伝わり、ムガル絵画ラージプート絵画が登場します。

 

 公用語は、ペルシア語、ヒンディー語です。ペルシア語はサファヴィー朝の影響でした。そして、ペルシア語やアラビア語の影響を受けて、ウルドゥー語が出来ました。現在のパキスタン公用語です。

 

 ナーナクイスラーム神秘主義ヒンドゥー教改革に導入し、シク教という新しい宗教が出来ました。

 

略図

 

中央アジア

西チャガタイハン国

ティムール朝

 

○イラン

ティムール朝

サファヴィー朝ペルシア

アフシャール朝

サンド朝

カージャール朝

 

小アジア

セルジューク朝

オスマン帝国

 

という流れですね。複雑過ぎて

 

 今日はここまで!ではまた次回!

 

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