【教養のための世界史】 西ヨーロッパ中世世界の成立

今日からヨーロッパです。ついに来ましたね。転生先が中世ヨーロッパに似ているのはなぜか。ロマンなのか。

 世界史チャレンジ。大学受験や教養、旅行の前になど。毎日少しずつ知っていこう。

 

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あらすじ

 西ヨーロッパにゲルマン人が入って来て各地に建国していきます。しかし、ほとんどは短命で終わりました。その中で唯一長かったのがフランク王国です。やがて、フランク王国は3つに分裂しました。さらにノルマン人が入ってきて混乱の時代に入ります。

 

地図

 まず、今日やるヨーロッパの場所を確認しましょう。赤で囲まれた場所が今日の舞台です。

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大移動

 当時ゲルマン人は、先住のケルトを圧迫しながら居住地域を拡大していました。主にバルト海沿岸に住んでいます。

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 彼らの社会の最高議決機関は民会でした。また、有力者に忠誠を誓って、その従者となる従士制がありました。そして、やがて、キリスト教を信奉していきます。宗派はローマでは異端のアリウス派です。

 

 ゲルマン人は4世紀から大移動(4~6世紀)を開始します。それは、匈奴の一派であるフン人が侵入してきたからです。ゲルマン人の中の西ゴート人は、西ローマに保護を求めて、南下します。

 

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 451年、カタラウヌムの戦いがありました。フン人が追いかけてきたのです。そこで、西ローマとゲルマンの連合軍がフン人のアッティラの侵入を食い止めました。

 

 その後、ゲルマン人がさらに西ローマに入っていきます。そのため、西ローマは混乱状態になり、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって、476年、西ローマ帝国は完全に滅亡してしまいました。

 

乱立

 西ローマ帝国の領土に様々な国が建国されます。イベリア半島西ゴート王国イタリア半島東ゴート王国が建国されました。東ゴート王国の王はテオドリック大王です。また、アフリカ北岸に、ヴァンダル王国ガリア東南部には、ブルグンド王国が建国されます。

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 さらに、ガリア北部にフランク王国、北イタリアにはランゴバルト王国が建国されました。

 

 最後に、アングロ=サクソン人が大ブリテン島にアングロ=サクソン七王国を建国しました。これをエグバートが統一してイングランドにしました。

 

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フランク王国

 フランク王国の前半はメロヴィング朝(481~751)で、建国者はクローヴィスです。彼はアタナシウス派へ改宗しました。支配している住民と同じ宗派にしたのです。これがクローヴィスの改宗です。

 

 クローヴィスの死後、宮宰(きゅうさい)が台頭していきます。行政、財政面の長で王をサポートする人です。トゥール=ポワティエ間の戦いでは、宮宰カール=マルテルが王に代わって、ウマイヤ朝(前←ウマイヤ朝の歴史)を倒しました。

 

 このカール=マルテルの子どもはピピンといいます。彼は自ら王様になって、カロリング朝(751~843→987)を建てました。ローマ教会はこれを支持しました。

 

 756年、ピピンの寄進がありました。ランゴバルド王国を攻撃して、ラヴェンナ地方(黄色の箇所)教皇へ献上したのです。これが教皇領の起源です。これでローマ教会と接近しました。

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 これらにより、フランク王国は長く続いたとされています。

 

カール大帝

 ピピンの子どもはカール大帝(768~814)です。彼は旧西ローマ帝国領土の回復を図ります。まず、北イタリアのランゴバルド王国を征服しました。そして、北ドイツのゲルマン人であるザクセンを征服します。さらに、アジア系遊牧民であるアヴァールを撃退しました。水色の箇所が領土になります。とても大きくなりましたね。

  

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 また彼は、広い領地を統治するために(はく)を任命しまして地方行政を任せていました。伯爵の語源です。さらに、巡察使を派遣して監督していました。

 

 カール大帝は、旧西ローマ帝国の領土を回復しただけでなく、カロリングルネサンスという古典文化の復興に力を尽くしました。イギリスからアルクインを招いてローマ文化を研究させました。

 

 800年にカールの戴冠がありました。教皇レオ3世カール大帝に冠を授けました。その冠がローマ皇帝の冠でした。これで名目上、西ローマ帝国の復活しました。

 

 そして、カールがローマ皇帝に即位したことで、ゲルマン、ローマ、キリスト教の3要素の結合しました

 

分裂

 カール大帝の死後、ヴェルダン条約が結ばれて、フランク王国は領土が3つに分かれます。中部フランク(ロタール王国)、東フランク、西フランクに分裂しました。

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 その後、870年、メルセン条約で中部フランクの一部を東西フランクへ割譲します。東フランクはドイツ、西フランクはフランス、中部フランクはイタリアの原形となりました。ではこの3つを見ていきましょう。

 

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 東フランクはカロリング朝が断絶して、新しくザクセンから王を選出しました。このザクセン家のオットー1世マジャール人を撃退します。これによって評判が上がっていきました。

 

 962年、教皇からローマ皇帝の地位を授与されます。カール大帝と同じ冠です。カール大帝の死後、3つに分裂したため、ローマ教皇は誰に冠を授けるか困っていました。その時にオットー1世が強さを見せてくれたため、冠を授けたというわけです。そして、962年、神聖ローマ帝国が成立しました。

 

 西フランク(843~987)では、カロリング家が断絶し、パリ伯ユーグ=カペーが国王に選出されました。

 

 中部フランクは、カロリング家が断絶した後、近代まで分裂状態でした。

 

略図

○ゲルマンの大移動

西ゴート王国 

ウマイヤ朝

後ウマイヤ朝

 

○ゲルマンの大移動

↓ イタリア半島

東ゴート王国

ランゴバルト族

教皇領 / レオ3世 / フランク王国

 

○ヴァンダル人

 

○ブルグンド

フランク王国

メロヴィング朝

カロリング朝

東、西、中部フランク王国

 

アングロサクソン

アングロサクソン七王国

イングランド王国

ノルマン朝

プランタジネット朝

 

○フランク人

フランク王国

メロヴィング朝

カロリング朝

東、        西、     中部フランク王国

↓           ↓

ドイツ王国    カペー朝

↓          ↓

神聖ローマ帝国   ヴァロワ朝

 

今日はここまで。ではまた次回!

 

 

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