今日はフランス革命です。マジシャンのナポレオンズは大好きです。
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地図
まずは、ヨーロッパの位置を確認しておきましょう。だいたいこの赤で囲まれた箇所がヨーロッパです。今日はそこのフランスの話。
革命前夜
当時のフランスの人は3つの身分に分かれていました。第1身分、第2身分、第3身分です。第1身分は聖職者、第2身分は貴族、第3身分が平民、農民、市民です。
第1身分と第2身分は特権身分と呼ばれていて、フランスの人口全体の0.2%でした。特権とは、免税特権のことです。そのため、課税対象になっている第3身分は、体制へ不満を持っていました。このようにフランスに残っている古い体制のことをアンシャン・レジーム(→画像)といいます。
第3身分は持っている財産額に応じてさらに3つに分かれます。富裕層、中産階級、下層階級です。下層階級は人口の90%でした。財産額が違うので政治に望むことも違ってきます。
富裕層は、生活ができているのであまり不満がありません。そのため、王様がルールに則った政治を望みます。これは立憲君主派です。
中産層は、王様を必要としていませんでした。また、必要としない代わりに自分たちの代表を議会に送って、政治をしてほしいと望みます。これは穏健共和派です。
もっとも不満がある下層は、すぐさま生活を良くしてほしいと望みます。これは急進共和派です。
90%の人がこの下層階級であるので、もちろん税金は集まりません。しかし、特権階級の人は免税されています。これが当時のフランスの問題点の1つです。
問題はさらにあります。当時、啓蒙思想が広がっていました。自由、平等、基本的人権を侵すことがあれば、抵抗していいという思想です。
さらに、当時アメリカの13植民地はイギリスに対して武器を取って戦い独立を勝ち取りました。王様がいなくても政治を運営できるという理想的な社会を作り上げたのです。アメリカの独立が成功したことで、フランスでも束縛から解放されたいという思想が広がっていったのです。(前←アメリカ独立戦争の流れ)
そのうえ、フランスはヨーロッパ内の戦争に積極的に参戦し、植民地戦争では、敗北します。また、アメリカ独立戦争を支援したことでお金がありませんでした。もちろんさきほど話したように税金は取れないのです。(前←アメリカ独立戦争の流れ)
なんとかしてお金を手に入れる方法をフランスは探ります。その結果、財政改革がなされました。
当時国王はルイ16世です。妻は、マリ=アントワネットです。このときに財政改革がなされたのです。テュルゴーは、国内を自由化するために穀物取引の自由化、ギルドの廃止をしますが、失敗に終わります。次のネッケルは、特権身分の免税特権の廃止を主張しました。もちろんこれに特権身分に猛反発しました。
これにより、三部会が再開します。聖職者代表、貴族、市民代表が集まりました。ここでは、特権身分への課税について審議されます。
しかし、市民の代表は、身分別議決法をめぐり紛糾しました。身分別議会法とは、1身分につき1票ということです。つまり、特権身分への課税について、聖職者は反対、貴族は反対、市民代表は賛成となり、絶対負けてしまうのです。
また、シェイエスは『第三身分とは何か』というパンフレットを発行し、特権身分を批判し、市民を応援しました。
このまま三部会にいては、市民は負けてしまいます。そのため、自分たちの意見を通すような議会を作ろうと思ったのです。三部会から離脱し、国民議会を開催しました。中心となったのは、立憲君主派でした。そして、憲法を作るまで解散しないという球戯場の誓い(テニスコートの誓い)をしたのです。
その後、国王の軍隊がヴェルサイユにどんどん集まっていきます。これに対して、武力で鎮圧されるのではないかと国民議会の人々は不安に思いました。
革命の初期
そこで国民議会は1789年7月14日バスティーユ牢獄の襲撃(→画像)を行いました。これがフランス革命の始まりです。バスティーユ牢獄には、武器がありました。そこから武器を手に入れて、国王と戦う準備をしていました。しかし予期しないことが起こってしまいます。これは農民反乱を誘発し、全国に広がってしまったのです。戦いには意義があり、好き勝手に暴れていいわけではありません。
ここで、国民議会は農民反乱を鎮めようとします。十分の一税や死亡税など封建的特権の廃止したのです。ただし、地代だけは払わなければいけません。国民議会には地主が多かったからです。
また、革命の理念を示すために、貴族のラ=ファイエット(→画像)らによって、人権宣言が発表されました。
革命の進み
次にヴェルサイユ行進が起こりました。これは、パリの穀物の値段が上がったことに対して怒った婦人らがパリからヴェルサイユまで行進しました。
これを鎮めるために国王一家はパリへ移ってきます。さらに、国王と国民議会の裏取引役のミラボーが死んでしましました。これらのことで国王は不安になります。
ついに、国王一家は妻であるマリー=アントワネットの実家オーストラリアへの逃亡を計画しますが、失敗に終わってしまいました。ヴァレンヌ逃亡事件です。オーストリアはフランス王を守るために、ピルニッツ宣言をプロイセンとともに発表しました。革命の非正当性を訴えましたが脅迫に近いですね。
オーストリアとの関係を保つため、国民議会は1791年憲法を制定しました。立憲君主政に基づいて、財産資格選挙を定めて、国民議会は解散しました。
立法議会
国民議会が解散した後、新たに選挙によって、立法議会が開かれました。この議会内では、フイヤン派とジロンド派で対立していました。フイヤン派は立憲王政派で旧国民議会でした。一方、ジロンド派は穏健的共和政派で国王不要派でした。
その後、ジロンド派内閣が成立しました。ジロンド派が主導権を握ります。しかし、共和政になるにはオーストリアを倒さなければいけません。そのため、対オーストリア宣戦を行ったのですが、フランスは劣勢になります。そこで各地から義勇軍がパリに集まってきました。ボランティア兵です。これもまた予期しない事態に発展していきます。
都市労働者を意味するサンキュロットや義勇兵が国王がいるパリのテュイルリー宮殿を襲撃しました。ここで彼らは国王を襲ってしまいました。これを8月10日事件といいます。財産選挙なのでお金を持っている人しか選挙にいけなかったのです。貧しい人の意見は通りません。直接国王を襲い、国王の口から選挙権を与えると約束してほしかったのです。
慌てた立法議会は王権の停止を宣言をして解散しました。次の選挙はお金関係なく男性ならみんな選挙に行けることを約束します。そこでヤル気出た人たちは、ヴァルミーの戦いで革命軍がプロイセン軍に勝利しました。
国民公会
フランスで初の男性普通選挙が開催されました。そして、国民公会が開催されました。そして、貧困市民・農民の利害を代表するジャコバン派が登場します。
ついに、ルイ16世を処刑し、第一共和政がはじまりました。周りの国は王政国家なので焦ります。これに対して、周りでは、英首相ピットによって提唱され第1回対仏大同盟が結成されました。
これと戦うために、国民公会は徴兵制を実施しましたが、ヴァンデーの農民反乱が起きました。このときに、山岳派が急速に台頭しました。彼らは力を得て、国民公会を牛耳ります。山岳派による恐怖政治が始まりました。公安委員会が次々と反対勢力を処刑していきました。指導者はロベスピエールです。
彼は貧しい人たちのための改革を行いました。封建地代の無償廃止、最高価格令、革命暦、メートル法などです。さらに、1793年には新しい憲法(ジャコバン憲法)が作られました。そこでは、主権在民、人民の生活権・労働権などが盛り込まれ、男性普通選挙制の内容も入りました。しかし、これは実施されませんでした。混乱が静まってから実施しようとしたのです。
ロベスピエールに反発した人がテルミドール9日のクーデタでロベスピエール派を逮捕し、処刑してしまいました。
総裁政府
この後に、1795年憲法が慌てて作られます。財産資格による制限選挙制の復活と5人の総裁による政府による独裁政治の防止を試みました。しかし、5人いることにより決断が遅くなってしまいます。これにより、王党派の反乱、バブーフの陰謀に直面してしまいました。
この混乱の中、人気が出た人物がいます。ナポレオン=ボナパルトです。彼はイタリア遠征で、オーストリアを倒し、第1回対仏大同盟を崩しました。
さらに、エジプト遠征で、イギリスと戦います。地中海を通って、エジプトを通過してインドに行くルートをつぶしたかったのです。しかし、英提督ネルソンに敗北してしまいた。そして、第2回対仏大同盟が結成されました。
この後、ナポレオンはフランスに帰ってきます。そして、ブリュメール18日のクーデターで総裁政府と打倒しました。これにより、フランス国内に平和をもたらしたことから、ここでフランス革命が終わったとされます。
略図
↓
↓ ルイ16世
↓ 国民議会の結成
↓ バスティーユ牢獄の襲撃
↓ 1791年憲法
↓ 立法議会招集
↓ 8月10日事件
↓ 国民公会招集
↓ イタリア遠征 / ナポレオン
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今日はここまで。ではまた次回!