【教養のための世界史】ウィーン会議

今日はウィーン会議。「会議は踊る、されど進まず」。なぜか覚えているフレーズってありますよね。

世界史チャレンジ。大学受験や教養、旅行の前になど。毎日少しずつ知っていこう。

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ウィーン会議

  ヨーロッパは16~18世紀は絶対王政の時代でした。国王、貴族が中心となって、市民が抑圧されている時代です。そして、これを崩したのがフランス革命でした。市民は自由で平等という考え方は各地に広がっていきます。

 

 1814年から15年にかけてオーストリアの首都ウィーンでウィーン会議が開催されます。ナポレオンがいなくなった後、ヨーロッパをもう一度昔の体制に戻そうとしました。

 

 オーストリア外相メッテルニヒが主催者です。オスマン帝国を除く全ヨーロッパの君主らが参加し、大国の勢力均衡を協議しました。

 

 フランスの外相タレーラン正統主義を提唱します。革命前の状態に戻すものです。しかし、各国の利害がぶつかって一向に進みません。「会議は踊る!されど進まず」といわれていました。

 

 1815年、ウィーン会議の内容がようやくウィーン議定書としてまとめられました。これには、大きく2つ、領土の変更、国家体制の変更が見られました。

 

 最初は領土の話です。イギリスはセイロン島、ケープ植民地を獲得します。ロシアはポーランド立憲王国の国王を兼ねるようになりました。ポーランド分割でなくなって依頼ポーランドが復活しました。また、プロイセンは、ラインラントを獲得しました。さらに、オーストリアは、ロンバルディアヴェネツィア(北イタリア)を獲得、オランダはネーデルラント(現在のベルギー)を獲得しました。

 

 国家体制の話です。ドイツ連邦が成立しました。スイスは永世中立になります。さらに、フランスとスペインはブルボン朝が復活し、オランダ王国が成立しました。

 

 ウィーン議定書で決まったことをまとめてウィーン体制といいます。19世紀前半のヨーロッパの国際秩序を表しています。

 

 市民が反発してきたときのために、2つの組織があります。1つ目は神聖同盟です。ロシアの皇帝アレクサンドル1世が提唱しました。全ヨーロッパの君主が参加しました。しかし、イギリス、オスマン帝国ローマ教皇を除きます。ローマ皇帝プロテスタントと仲良くしないといけないので不参加。オスマン帝国イスラム教なので不参加。イギリスは自国にとってマイナスだと判断し、不参加になりました。

 

 もう1つは、四国同盟です。ヨーロッパの現状維持を目的としたもので、イギリス、ロシア、オーストリアプロイセンの4つの国で出来た軍事同盟です。途中でフランスが加盟し、五国同盟となりました。

 

反発

  ヨーロッパ各地でウィーン体制への反発が起きました。自由主義の動きです。ブルシェンシャフト(ドイツ)カルボナリ(イタリア)の2つです。しかし、どちらもオーストリア軍によって鎮圧されてしまいました。

 

 スペインでは、立憲革命、ロシアではデカブリストの乱が起きます。しかし、スペイン立憲革命はフランス軍に、デカブリストの乱はニコライ1世により鎮圧されました。

 

 国民主義(ナショナリズム) の運動もでてきました。ギリシア独立戦争です。当時、ギリシアオスマン帝国領土でした。これに立ち上がったのです。その後、ロンドン会議によって、ギリシアの独立を国際的に承認されました。

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 ラテンアメリカにもウィーン体制の反発が波及していきます。ハイチラテンアメリカで最初の独立を勝ち取りました。トゥサン=ルヴェルチュールの活躍もあり独立したのです。

 

 他の地域でも独立していきます。当時ラテンアメリカのほとんどはスペインの支配化だったので、ナポレオンがスペインを支配したことで、そのスペインからの支配が弱まったのです。クリオーリョシモン=ボリバルの活躍のおかげで、ベネズエラ、コロンビア、エクアドルボリビアが独立しました

 

 サン=マルティンも活躍し、アルゼンチン、チリ、ペルーも独立しました。

 

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 また、イダルゴ神父の独立宣言によりメキシコが独立、ポルトガル王子が皇帝に即位することによって、ブラジルも独立しました。

 

 これらのラテンアメリカの独立に関しては列強指導者によって対応が異なりました。イギリスのカニングは、ラテンアメリカをイギリスの製品市場とするために、独立に賛成しました。アメリカのモンローは、米・欧両大陸の相互不干渉を提唱しました。モンロー宣言といいます。オーストリアメッテルニヒは、独立運動を弾圧を企画しますが、失敗に終わりました。

 

革命

 次はフランスの話です。ナポレオンがいなくなった後、ブルボン朝が復活しました。ルイ18世が即位します。彼の後、シャルル10世は反動政治を強化しました。また、アルジェリア出兵をすることによって、注目を外にそらしました。この間に、未招集議会の解散、選挙資格の大幅制限、言論・出版の統制の強化をしました。絶対王政時代の復帰を急ごうとしました。

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 これに人々は立ち上がりました。七月革命です。学生・小市民・労働者が蜂起しました。シャルル10世は亡命してしまい、ルイ=フィリップが即位しました。

 

 七月革命の影響がヨーロッパ各地に広がります。オランダからベルギーが独立しました。さらに、ロシアから独立を目指してポーランドが蜂起します。しかし、鎮圧されてしまいました。また、ドイツで反乱が起きましたが、これもつぶされてしまいました。

 

 カルボナリを中心にイタリアでも反乱が起きますが、オーストリア軍により鎮圧されてしまいます。そして、カルボナリは解散してしまいました。しかし、カルボナリの主要メンバーが新しいグループの青年イタリアを作ります。リーダーはマッツィーニです。

 

二月革命

 フランスの話に戻ります。七月革命が起こって新しく始まった政治を七月王政といいます。王はルイ=フィリップです。彼は極端な制限選挙をして、少数の銀行家・大ブルジョワジーの利益中心の政治をしました。

 

 ちょうどこのころ、産業革命が進展していきます。これによって、中小産業資本家や労働者が登場しました。すると、彼らは男性普通選挙を求めて、選挙法改正運動を展開していきます。そこで発生するのが二月革命です。パリの労働者・学生・資本化による暴動でした。二月革命マルクスの影響を受けています。これにより、七月王政は崩れました。

 

 二月革命もヨーロッパ各地に広がります。この広がりのことを諸国民の春といいました。ドイツでは、ウィーン三月革命が起こります。ウィーン体制を支えようとしたメッテルニヒが失脚しました。これによりウィーン体制の崩壊したのです。さらに、ベルリンでは三月革命が起き、国王に憲法制定を約束させました。

 

 ハンガリーベーメンなどで民族運動が起こります。オーストリアはチェック人やマジャール人など様々な民族で出来た国でした。ハンガリーではコシュートが独立を宣言しますが、鎮圧されてしまいます。そして、ベーメンでは、プラハを中心に蜂起しました。

 

 さらに、ドイツ統一憲法制定を協議するためにフランクフルト国民議会が開かれます。ドイツを統一するにあたって、意見が分かれました。オーストリアを中心に統一する大ドイツ主義プロイセンを中心にオーストリアを除外する小ドイツ主義に分かれたのです。オーストリアはドイツ人以外が住んでるので、小ドイツ主義を主張したのです。最終的に小ドイツ主義が採用されました。しかし、プロイセンの王が拒んだので、国民議会は失敗に終わります。

 

 イタリアでも民族運動が起こります。サルデーニャ王国が統一運動が起こりました。また、マッツィーニローマ共和国と建設します。しかし、どちらも失敗に終わりました。

 

 また、チャーティスト運動も盛り上がりを見せました。労働者たちが議会請願、デモ運動、ストライキの実施などを行ったのです。

  

略図

ヨーロッパの秩序再建のためにウィーン会議が開催された。

 

○フランス

復古王政

ウィーン会議

七月王政

二月革命

第二共和政

 

○ロシア

ロマノフ朝

ウィーン会議

ニコライ1世

↓ デカブリストの乱

 

オーストリア

オーストリア大公国

ウィーン会議

オーストリア帝国

↓ ウィーン三月革命

 

○オランダ

ウィーン会議

オランダ立憲王国

 

○イギリス

ハノーヴァー朝

ウィーン会議

チャーティスト運動

イギリス(ウィンザー朝)

 

○スイス

ウィーン会議

永世中立国

 

プロイセン

ウィーン会議

↓ ベルリン三月革命

↓ (ドイツ連邦) フランクフルト国民議会

ドイツ帝国