【教養のための世界史】西アジアへの列強進出

今日は、西アジア、南アジアへの列強の進出ですね。名前は知ってるけど、知ってるけどね、わからない。

世界史チャレンジ。大学受験や教養、旅行の前になど。毎日少しずつ知っていこう。

 

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エジプト

 最初に見ていくのは、オスマン帝国です。当時オスマン帝国は、ヨーロッパが侵略していく前に、すでにその大きな領土を統治できずにいました。そのため、オスマン帝国から次々と国が自立していきます。エジプトやアラビア半島の話です。

 

 アラビア半島ではイブン=アブドゥルーワッハーブムハンマド時代のイスラーム教への復帰を目指しました。これをワッハーブ運動といいます。

 

  当時のアラビア家の豪族サウード家ワッハーブ派と結んでワッハーブ王国を建国しました。都はリヤドです。しかし、エジプトのムハンマド=アリーの攻撃で滅亡してしまいました。

 

 ナポレオンはエジプトを占領するときにエジプト先住民に対してオスマン帝国に対する反抗を呼びかけました。エジプトに住んでるのはアラブ人です。一方オスマン帝国トルコ人です。その結果、自立の運動が展開されていきます。

 

 この運動の中心人物はムハンマド=アリーです。彼はナポレオンを追い出し、オスマン帝国から総督の地位を授かりました。オスマン皇帝に代わって、エジプトを統治する地位です。しかし、彼はオスマン帝国に対して忠誠心はありません。エジプトを自立する動きに導いていきました。

 

 第1次エジプト=トルコ戦争です。オスマン帝国にシリアの領有権を要求したことから、開戦します。この戦争ではエジプトが勝って、シリアを獲得しました。

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 さらにオスマン帝国にエジプトとシリアの世襲権を要求します。子供に自分の総督の地位を譲りたかったのです。これをきっかけに起こったのは、第2次エジプト=トルコ戦争です。結果はヨーロッパの干渉もあり、エジプトはシリアを返還することになります。しかし、代わりにエジプトとスーダン世襲権を獲得しました。

 

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 ムハンマド=アリーの死後、スエズ運河が開通します。フランス人技師レセップスが建設しました。このスエズ運河を通れば、地中海からインド洋に接続できます。インドを植民地化しているイギリスにとっては魅力的な場所でした。そのため、イギリスはディズレーリ内閣のときに、スエズ運河会社株を買収します。これでイギリスはスエズ運河を通ってインドへすぐにアクセスできるようになりました。そして、イギリスはエジプトに口を出すようになっていきます。

 

 これに反乱したのが、ウラービーの反乱です。エジプト人のためのエジプトをスローガンに掲げて抵抗しました。しかし、イギリスにより鎮圧されます。そして、エジプトはイギリスの保護国にされました。

 

オスマン帝国

 このように、アラビア半島やエジプトといった地域で自立する動きが見られてきました。これにオスマン帝国は焦ります。このまま行けば滅亡してしまうかもしれません。そこで対策が取られます。オスマン帝国は近代化を図ったのです。

 

 皇帝アブデュル=メジト1世タンジマート(恩恵改革)を行いました。司法・行政・財政・軍事・文化など様々な分野で西欧化を目指したのです。皇帝が中心となった「上からの改革」です。また、非イスラーム教徒に対して、税・法など平等に扱うことも目指しました。

 

 1853年には、クリミア戦争がありました。結果、オスマン帝国は勝利します。ロシアを敗れるくらいにオスマン帝国は成長したのでした。

 

 しかし、このクリミア戦争では、イギリス、フランスに多くの借金をしました。そのため、イギリスとフランスに財政権を管理されるようになります。皮肉なことにこの改革の結果、オスマン帝国は、ヨーロッパ勢力に従属していくことになりました。

 

 アブデュル=メジト1世の死後、アブデュル=ハミト2世が皇帝になります。彼の宰相はミドハト=バシャでした。クリミア戦争の失敗から、ミドハト=バシャは、皇帝1人で重要なことを決めるのでなく、みんなで話し合い決めたほうが良いと考えます。そこで、ミドハド憲法が発布されました。アジア初の憲法です。

 

 ミドハド憲法では、二院制議会、責任内閣制を採用しました。しかし、皇帝の力が弱まることを嫌ったアブデュル=ハミト2世がロシア=トルコ戦争を口実に、ミドハド憲法を停止してしまいました。そして、ミドハト=パシャは解任させられ、戦争の敗北の責任を押し付けられ島流しになってしまいます。

 

 イラン・アフガニスタン

 次は、イランやアフガニスタンの植民地化の話です。ヨーロッパと中国の間にあたる地域です。古来ここは多くの人が東西貿易で立ち寄った場所でした。そのため海上交通の重要地点としてヨーロッパ勢力は狙っていきます。

 

 18世紀の末からイランには、カージャール朝がありました。イランはペルシア湾に面しているので、ロシアが南下を狙っています。

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 そして、ロシアは、1828年にトルコマンチャーイ条約を結ばせました。ロシアへアルメニアの大半を割譲させ、治外法権を承認させます。

 

 これに対して、バーブ教徒の乱が起こりました。バーブ教イスラーム教のシーア派の一派で貧困農民に支持されていました。彼らが国内の封建勢力、イギリスやロシアなど海外勢力への屈従に反対して起こったのです。しかし、政府により鎮圧されました。

 

 1891年にはタバコ=ボイコット運動がありました。このとき、タバコの独占販売権がイギリス人業者に渡されました。これに対して起こったものです。イスラーム教徒はお酒を飲むことはできませんが、タバコは吸えるので、楽しみの1つでした。そのため、イランの民衆や商人、ウラマー(知識人)などが反対したのでした。しかし、イギリスとロシアの圧力は続いていくのでした。

 

 次はアフガニスタンの話です。イギリスはロシアが南下してインドを取られるのを懸念していました。そのため、インドの上にあるアフガニスタンを取りにいったのです。イギリスは2回のアフガン戦争を通じて、アフガニスタン侵略していきます。

 

 1回目はイギリスは負けてしまいました。イギリスはアフガニスタンと距離を置いていましたが、1878年のベルリン会議後に再び攻めていきます。会議では、ロシアのバルカン半島方面の南下を阻止したので、色んな地域に下りてくるかもしれないと考えたからです。2回目は成功して、アフガニスタン保護国化しました。

 

インドの植民地化

 話はインドになります。インドはイギリスが単独で植民地化しました。18世紀イギリスとフランスはインドをめぐって戦い、その戦いの中でイギリスが勝利したため、イギリスが単独で植民地化したのです。(前←プラッシーの戦い)

 

 イギリスのインド進出にあたって、中心となるのは本国ではなく、イギリス東インド会社でした。まず、彼らは、ベンガルなどの徴税権を獲得します。ベンガルはインドでもっとも肥沃な土地の豊かな場所です。

 

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 しかし、 予期しない事態に見舞われます。なんとイギリス東インド会社の商業活動が停止されてしまいました。そのため、貿易ではなく、インド統治機関へと変わったのです。税金を集めて、会社の運営費にしようとしました。この後、インド各地へ戦争をしに出掛けます。

 

 大きな戦争は3回ありました。マイソール戦争マラーター戦争シク戦争です。南インドにはマイソール王国がありました。そこに4回戦争を行います。マイソール戦争です。

 

 デカン高原には、インドの豪族たちがマラーター同盟で結束していました。そこに3回戦争をしかけます。マラーター戦争です。インダス川の辺りのパンジャーブ地方には、シク教が住んでるシク王国がありました。そこに2回戦争を行います。

 

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 これらの戦争を通して、ムガル帝国を残し、インドを征服していきました。そして、この征服した土地から税金を取っていきます。

 

 2つの税金制度を採用しました。旧来の地主・領主から直接地税を徴収するザミンダーリー制と耕作農民から直接地税を徴収するライヤットワーリー制です。地主・領主がいる地域からは彼らから、自作農民が多い地域からは彼らからと地域によって変えたのです。

 

 税金を集めるだけでなく、やがてプランテーション経営も行うようになりました。茶やアヘンなどを栽培して輸出したのです。

 

 1857年、イギリス東インド会社の支配に対抗し、ついにインドで大反乱が起こりました。シパーヒーの反乱といいます。シパーヒーとはイギリス東インド会社に雇われたインド人傭兵でした。彼らはヒンドゥー教イスラーム教で構成されています。

 

 反乱のきっかけはこうです。当時、ある噂がインドに流れました。シパーヒーたちが戦闘のときに使っている銃弾は水分に接触しないように、薄い油紙で包まれています。この油紙を破って装填していました。実は、この油紙に使われている油は牛と豚の油を使っているという噂が流れたのです。

 

 ヒンドゥー教徒にとって、牛は神聖な生き物です。一方、イスラーム教徒にとって、豚は汚い生き物です。

 

 これに対して、シパーヒーたちが反乱を起こしたのです。彼らはデリー城を占拠しました。そして、イギリス東インド会社を追い出してほしいとムガル皇帝にお願いをしたのです。ムガル皇帝は納得し、インド全体に呼びかけました。これに没落した農民、地主、商人が合流し、全インドを包み込む一大反乱になっていきます。

 

  イギリス東インド会社は鎮圧する手段を持っていないので、イギリス本国に助けを求めました。そして、イギリス本国軍がインドにやってきて、反乱を鎮圧させます。そのときにムガル帝国が滅亡しました。

 

 その後、インド大反乱の失政責任からイギリス東インド会社を解散させ、本国に統治権が移ることになりました。イギリス本国にとって都合が良すぎるこの結果に、本国が噂を流したのではないかという話もあります。

 

 1877年、インド帝国が成立します。初代インド皇帝にはヴィクトリア女王が就任しました。植民地なのに帝国という名前がついているのは、それだけ重要視していることの表れです。

 

 イギリスはインド帝国を分割統治という巧みな方法で統治しました。保守的な藩王国を懐柔し、民族運動の抑圧のために利用したのです。たとえば、イギリスは地主に税金を集めさせます。農民は地主に払うので、地主に怒りを覚えますが、イギリスに対しての怒りは発生しないのです。

 

 このようにして、イギリスのインド支配が完成しました。

 

略図

 

 

セルジューク朝

オスマン帝国

↓ 第2次ウィーン包囲

↓ カルロヴィッツ条約

アブデュルメジト1世

アブデュルハミト2世

 

○イラン

サンド朝ペルシア

カージャール朝

バーブ教徒の乱

パフレヴィー朝イラン

 

○インド

ローディー朝

↓   

ムガル帝国          南

↓       中     マイソール王国

↓     マラーター同盟

 

という流れ