【教養のための世界史】帝国主義

今日は帝国主義

世界史チャレンジ。大学受験や教養、旅行の前になど。毎日少しずつ知っていこう。

 

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帝国主義

 帝国主義とは、欧米の国々が植民地を求めて、外に出て行く時代のことです。

 

 イギリスの第一次産業革命は、機械を導入して、綿製品を作り、輸出するというやり方を迎えました。しかし、19世紀後半からヨーロッパやアメリカの国々がイギリスと違った形で産業革命を起こすことに成功します。それは、重化学工業を中心とする産業革命でした。重化学とは、鉄鋼、造船、機械を使ったり、石油を加工して物を作ったり、電力を主な動力源にしたものです。

 

 しかし、この形で産業革命を起こすには莫大なお金が必要となります。さらに、1870年代は世界的な不況の時代でした。これにより中小企業は次々とつぶれていきます。これで生き残った企業が独占資本を形成していきました。これらの企業が銀行と結びつき、第二次産業革命に必要な設備投資を行っていました。しかし、このようにして、物を作っても売れなければ意味がありません。

 

 そこで、外の市場を求めて、植民地を探しにいくのです。これが帝国主義です。植民地からは市場のほかに、原料供給したり、資本を植民地に輸出し安い労働力で生産をさせたりして、他の国が作るよりも安い物を作れるようになるのです。さらに、帝国主義時代には、つぶれた中小企業の人達が労働運動を起こすようになっていきました。

 

イギリス 

 イギリスは自由貿易を中心に考えていましたが、ディズレーリのときから帝国主義に変わりました。

 

 イギリスはインドが最重要なので、インドに最短で行くために、ディズレーリ内閣はスエズ運河会社株をエジプトから買収します。そして、インド帝国を完成させました。

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 さらに、スエズ運河に他の国が入らないように、ペルリン会議に参加します。ベルリン会議はロシアのバルカン半島への侵入を阻止するために開かれたものです。そこでイギリスは、キプロス島統治権を獲得しました。これでロシアの動きを把握できるようになります。

 

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  インドに行くにはもう1つのアフリカを通っていくルートがあります。そのため、アフリカの最南端を手に入れたいと考えていました。

 

 ディズレーリの後、保守党のときに植民地相のジョゼフ=チェンバレン南アフリカ戦争を引き起こし、アフリカの南側を征服します。

 

 対外戦争にお金を使うため、国内にはお金を使いたくありません。そのため、自由党内閣のとき、議会法の制定します。議会における下院の優位を確立しました。そして、アイルランド自治を成立させ、お金を掛けるのをやめようとしました。しかし、第一次世界大戦を理由に延期します。そのため、アイルランドでは、イースター蜂起が起きました。

 

 イギリス植民地支配には変化が現れます。自治を形成していきました。白人が支配層である地域には自治を与えていきます。カナダ連邦、オーストラリア連邦ニュージーランド南アフリカ連邦の順に自治を与えて、お金を使わないようにしました。

 

社会主義

 溢れる失業者にイギリスは対応できませんでした。そのため、社会主義運動が高まるようになります。イギリスで出来た組織として有名なのはフェビアン協会です。知識人を中心とした改良主義社会主義団体です。ウェッブ夫妻バーナード=ショーなどがいました。改良主義とは、少しずつ改善していく考えのことです。

 

 このフェビアン協会にそのほかの社会主義団体や労働組合が合流する形で労働代表委員会が組織されます。この組織は選挙で議席を獲得するまで成長して、労働党と名前を変えました。労働党議会を通じて社会改革を目指す改良主義を掲げました。

 

フランス

  ナポレオン3世の第二次帝政以降、第三共和政が始まりますが、これまでも共和政は失敗しているのでまた混乱していきます。この時期には大きな2つの事件がありました。

 

 まず、ブーランジェ事件です。陸相のブーランジェが独裁政治を始めるのではないかと噂が流れて起こったものでした。結局は未遂で終わります。

 

 次は、ドレフュス事件です。ユダヤ系将校のドレフュスがドイツのスパイ容疑で逮捕されました。しかし、この後新犯人が見つかり、冤罪だとわかります。そして、フランス軍部は隠蔽しようとしました。

 

 これに対して、フランス国内ではドレフュスの擁護派が出てきました。ゾラは、「私は弾劾する」という記事を新聞に載せて擁護します。一方、ユダヤ人だからという理由で、嫌う人もいました。このドレフュス事件ユダヤ人たちは、差別意識を感じてしまいます。そのため、ユダヤ人国家の設立を目指すシオニズム運動をするようになっていきました。

 

 フランスの労働運動はイギリスとは違います。フランス革命が起こった国ですので、直接交渉が大切だと考えているのです。そのため、議会や政党を否定し、労働者の直接行動を重視するサンディカリズムと呼ばれる運動がはじまってきました。

 

 一方、きちんと議会を通そうとする政党もありました。フランス社会党(統一社会党です。社会主義諸派が結成しました。

 

ドイツ

 ヴィルヘルム1世の死後、フリードリヒが即位しますが、病気のため100日で交代してしまいます。その後、ウィルヘルム2世が即位しました。

 

 なんと彼は、社会主義者鎮圧法の再更新をめぐってビスマルクと意見が衝突します。ヴィルヘルム2世は、各国と同じように植民地を求めて、外に出るべきだと主張しました。一方ビスマルクはこれまでヨーロッパのバランスを取ってきたため、慎重派です。結果、ビスマルクが辞職してしまいました。そして、彼は自分の思うがままに外交をスタートさせていきます。

 

 「ドイツの将来は海上にあり」と演説で、海軍の大拡張を行うと宣言しました。当時海上帝国であったイギリスをターゲットに大規模艦隊を創設します。ドイツが海に出るときにイギリスが邪魔になると考えて軍艦を作ったのです。これにより、イギリスと対立していきました。

 

 また、領土を拡大するにあたり、パン=ゲルマン主義を掲げました。これは全ドイツ系民族の連帯と結集を意味します。

 

 ヴィルヘルム2世は、バルカン半島に進出し、小アジアを通って、ペルシア湾へと接続しようと考えました。その際にパン=ゲルマン主義を掲げて、オーストリアとともにバルカン半島にドイツ人支配地域を広げようとしたのです。また、海に出るときにインドへ行くイギリスとぶつかりますね。

 

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 このようにヴィルヘルム2世が取った帝国主義政策を3B政策と呼びました。これは接続しようとした都市、ベルリン・ビザンティウム(イスタンブル)・バグダードの頭文字を取ってつけたものです。そして、最終的には、バグダード鉄道を引いて、小アジアからバグダードまで鉄道で一直線に進んでいこうと考えました。しかし、これはバルカン半島へ進出をたくらむロシアとも関係性が悪くなる可能性がありました。

 

 ドイツでは、世界初の社会主義政党が出来ていました。ドイツ社会主義労働者党です。これをビスマルク社会主義者鎮圧法で圧力をかけました。しかし、非合法化されても、止まることなく、陰で活動をし続けます。

 

 そして、ビスマルクが辞職することを受けて、ドイツ社会民主党という新しい政党に生まれ変わりました。彼らは当初、マルクス主義理論を採用し、暴力革命を提唱します。

 

 しかし、暴力では支持は集まりませんし、警察に捕まってしまうかもしれません。そこで、この暴力を修正したのが修正主義です。ベルンシュタインが議会を通じての社会主義化を提唱しました。彼はイギリスの労働運動を参考にしたのです。

 

ロシア

  当時ロシアはロマノフ朝でした。産業革命を起こすために南下政策を行いますが、うまくいきません。ここで露仏同盟が締結され、フランスのお金を借りて産業革命を本格化させることに成功します。

 

 さらに、中国へも進出しているので、シベリア鉄道を建設しました。全長約9300kmもありました。

 

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 ところが、朝鮮・中国を狙う日本と日露戦争をしなければならなくなります。戦争の状況が悪くなるとロシア国内で不満がたまっていきます。

 

 ここで、血の日曜日事件が起こりました。民主化と戦争中止を掲げ、市民や労働者がデモを行ったのです。結果、軍隊が発砲してしまい、罪のない市民が殺されてしまいました。そこで、第1次ロシア革命が勃発することになります。

 

 各地で労働者を中心に暴動やストライキが発生しました。そして、この労働者の意見を集めるために、ソヴィエト(評議会)が成立しました。ソヴィエトとは、各地の工場の代表者たちが集まって話し合う会議のことです。

 

 対外では日本と、内側では革命が起こっているロシアはこれ以上戦争を続けることができなくなってしまいました。そこで、ポーツマス条約を締結させ、日露戦争を終わらせます。

 

 日本との戦争は終わりますが、革命は終わっていません。そこで、十月宣言というのを発表します。起草者はウィッテです。十月宣言では、ドゥーマの開設を約束しました。ドゥーマは国会のことです。そして、憲法の制定をして皇帝が勝手な政治をしないように改革をしていくと約束しました。また、憲法の内容を考えるために、立憲民主党が結成されます。

 

 そのままウィッテが首相になって、自由主義的な改革を進めていきました。これによって、革命は収束していきます。しかし、落ち着きを見せたころ、突如ウィッテはクビになり、ストルイピンが首相に就任しました。彼はドゥーマを解散させ、ミールを解体しました。自作農を作ろうとしましたが、失敗し、ロシアはさらに混乱状態になっていくのでした。

 

 ロシアは慌てて産業革命を起こしたため、労働問題がすぐに出てきます。産業革命で出た失業者や虐げられた労働者を助けるためにロシア社会民主労働党が出来ました。

 

 しかし、この政党は内部でどのように国を変えてくかの方針をめぐって2つに分かれてしまいました。ボリシェヴィキメンシェヴィキです。ボリシェヴィキの指導者はレーニンメンシェヴィキの指導者はプレハーノフでした。

 

 ボリシェヴィキは少数の急進的な革命家による武装革命を重視したのに対し、メンシェヴィキブルジョワ民主主義革命を経たのちに社会主義化革命を目指しました。ゆっくり変えていこうというものです。この2つで対立したのでした。

 

 これ以外にも社会革命党が発足しました。これはかつてのナロードニキの流れをくむものです。労働者というより、農民を支持基盤にし、テロリズムによる専制政治の打倒を目指しました。

 

略図

○フランス

第三共和政

↓ ブーランジェ事件

ドレフュス事件

↓ 

 

○イギリス

ハノーヴァー朝

フェビアン協会

労働代表委員会

労働党

 

○ ドイツ

ドイツ帝国

↓ ヴィルヘルム1世

↓ ヴィルヘルム2世

 

○ロシア

ロマノフ朝

↓ ニコライ2世

ロシア社会民主労働党

ボリシェヴィキメンシェヴィキに分裂