【教養のための世界史】アフリカ分割

今日は、アフリカ分割。分割しないでください。

世界史チャレンジ。大学受験や教養、旅行の前になど。毎日少しずつ知っていこう。

 

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青い文字をクリックすると関連した画像検索や記事に飛びます。絵や写真だったり、続きの話、前の話です。気になったらさっと見てみましょう。

 

あらすじ

 

 帝国主義で各国は外に植民地を求めて出て行きます。そこでターゲットとなった地域は、アフリカ、太平洋、ラテンアメリカでした。

 

 奴隷制度廃止の運動が高まる中、アフリカには資源が多くあることに各国は気付きます。そこで早いもの勝ちでアフリカを植民地にしていきました。太平洋も同じです。

 

 ラテンアメリカは、独立をしていきますが、ヨーロッパからお金を借りたため、頭が上がらない状況でした。しかし、メキシコだけはヨーロッパに対抗していったのです。

 

 また植民地を求めてく中ヨーロッパ各地の対立がさらにひどくなっていきました。

 

地図

 今日やる地域を地図で確認しておこう。

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アフリカ分割

  18世紀以降、アフリカは大西洋三角貿易に組み込まれていきます。黒人奴隷貿易として、アフリカは黒人奴隷として扱われていました、主に、プランテーションの労働力としてサトウキビ、タバコ、綿花などの商品作物を栽培したのです。

 

 大西洋三角貿易の中身についてみていきましょう。ます、西ヨーロッパの国々から西アフリカに武器や雑貨を輸出されます。そして、西アフリカで戦争を起こさせます。負けた国の人は奴隷として、アメリカ大陸に送られました。そこで、プランテーションで商品作物を栽培します。出来たものは西ヨーロッパに送ります。これが大西洋三角貿易です。

 

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 しかし。19世紀には奴隷制度が次々と廃止されていきます。そのため、奴隷の供給地としてみることができなくなりました。そこで、アフリカには他のものがあるのだろうかと探検家たちがアフリカに進んでいくことになります。

 

 イギリスの宣教師であったリヴィングストンナイル川の水源探査をしに行きますが、消息不明になりました。彼を探すため、スタンリーがアフリカへ向かいます。そして、なんと彼はリヴィングストンの救出に成功しました。

 

 彼はリヴィングストンと同じようにナイル川をさかのぼっていくと、あるアフリカの村に辿りつきます。なんとそこの黒人が十字架の首飾りをしていました。聞いてみるとリヴィングストンはその村で生活をしていたのです。リヴィングストンはアフリカの質素な生活、敬虔な信仰心にほれ込んでいました。その後、スタンリーはコンゴ地域を探検しました。

 

 スタンリーの報告を受けて、ベルギーが動きます。ベルギーはコンゴの領有を宣言します。しかし、これにヨーロッパ勢力が反発しました。

 

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 その後、ベルリン会議が開かれます。主催者はビスマルクです。そこで先占権を確認しました。早いもの勝ちということです。これがアフリカ分割に拍車をかけました。ベルギーはコンゴの支配を認められ、コンゴ自由国が成立します。

 

イギリス

 イギリスは、アフリカ北部に進出していきます。その政策をアフリカ縦断政策といいました。まず、エジプトから狙いにいきます。

 

 当時、フランス人技師レセップスによって、スエズ運河が開通しました。これを使えば、地中海から運河を通って、最短でインド方面に行けます。インドの植民地化を進めているイギリスにとっては狙わないわけがありません。

 

 そのため、ディズレーリ内閣のとき、スエズ運河会社株を買収し、支配権をイギリスが握りました。さらにエジプトの下のスーダンにも進出していきます。

 

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 これに対し、エジプトでは、陸相ウラービーが「エジプト人のためのエジプト」をスローガンにウラービー運動を起こしました。しかし、鎮圧され、エジプトは保護国化されてしまいます。

 

 スーダンでは、マフディーの反乱が起こりました。マフディーとは、救世主という意味です。この反乱を指揮したのはムハンマド=アフマドです。イギリスはこの反乱を鎮圧するのにとても苦戦しました。総督ゴードンも戦死してしまいます。しかし、15年かかりなんとか平定することに成功しました。

 

 マフディーの反乱の鎮圧に成功しますが、またスーダンで事件が起こってしまいます。ファショダ事件です。横からアフリカに進出していたフランスとぶつかってしまいました。この事件はフランスが譲歩することで衝突を回避します。このように、イギリスは、スーダンを手に入れることができました。

 

 イギリスは、縦断政策を採用してアフリカを攻めていますが、それには理由がありました。ケープタウン、カイロ、カルカッタの3都市を結んで、インドへの連絡をカンペキにしようと思ったのです。これを3C政策といいます。すべての都市の頭文字がCで始まるからですね。

 

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 イギリスはウィーン会議でケープ植民地をオランダから手に入れていました。イギリス人が住み始めると、もともと暮らしていたオランダ人(プール人)は北へ移住していきます。

 

 このケープ植民地に、セシル=ローズが首相に就任しました。彼はもともと金やダイヤモンドを扱う企業家です。彼がケープ植民地の採掘事業を進めていました。

 

 彼は金とダイヤモンドが大量に取れる山を発見し、イギリス本国に報告します。しかし、そこはイギリスの領土ではありませんでした。ケープ植民地のすぐ北にあるブール人が作ったトランスヴァール共和国オレンジ自由国です。

 

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 この場所を手に入れたいイギリスは、南アフリカ戦争を行いました。戦争の指揮は、本国の植民相ジョゼフ=チェンバレンで、首をかけて挑みます。約40万人以上の兵隊と約2億ポンドを使いイギリスはここを手にいれました。

 

 そして、ケープ植民地と合体して、自治領である南アフリカ連邦が成立しました。成立するときに、イギリス本国は白人優位の発言をします。これによって、しだいに、黒人に対する人種差別が見られるようになりました。こうすることで、南アフリカ連邦内の白人と黒人が対立し、イギリス本国への恨みの芽を摘むことに成功したのです。

 

フランス

 フランスはアフリカ縦断政策と取ってアフリカ進出をしていきます。それは、19世紀前半にシャルル10世がアルジェリアを植民地にしていたからです。ここを軸に東西に拡大していくことを考えていました。

 

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 まず、アルジェリアの隣のチュニジア保護国にします。狙っていたイタリアと対立するようになりました。ドイツの宰相ビスマルクはこれを機に三国同盟をイタリア、オーストリアと結びます。

 

 さらに、アフリカ横断政策のゴール地点であるジブチに港を建設しました。紅海からインド洋への出口として建設しました。そして、マダガスカルサハラ砂漠を領有します。

 

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 フランスの横断政策はイギリスの縦断政策とぶつかりました。スーダンファショダ事件が起こります。フランスはイギリスに譲歩することで決着しました。当時、ドイツと戦っていたので、避けたかったのです。

 

 関係が良くなった2国は、1904年、英仏協商が結ばれました。ここで、イギリスはエジプト、フランスはモロッコにおける優先権が承認されます。

 

 しかし、モロッコをめぐりドイツと対立することになりました。ここは、イギリスが地中海に入るときに使うところです。そのため、ドイツは、ここを押さえればイギリスのインド進出を邪魔することができると考えました。

 

 第1次モロッコ事件(タンジール事件)が起こります。当時のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がタンジール港に入ってきて、フランスに出て行けと呼びかけました。しかし、イギリスも後ろについているので、フランスが勝利します。

 

 ドイツはもう1度モロッコに入ってきました。第2次モロッコ事件(アガディール事件)です。モロッコ先住民族の反乱が起きた混乱を利用して、ドイツの軍艦がモロッコのアガディール港に入ってきました。しかし、ここでもフランスが勝利し、モロッコ保護国化に成功したのです。

 

ドイツ

 ドイツは、カメルーンと東アフリカ植民地を領有しました。

 

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イタリア

 イタリアはエチオピアを狙っていきます。しかし、エチオピアが抵抗し、負けてしまいました。これでは、アフリカに植民地が出来ないと焦ったイタリアは、イタリア=トルコ戦争で、無理矢理、リビアを獲得します。さらに、ソマリランドをイギリス、フランス、イタリアで分割で領有しました。ソマリランドはとんがっている場所にあるので、アフリカの角と呼ばれます。

 

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独立を守り抜いた国 

 まずは、エチオピア帝国です。イタリア軍アドワの戦いで撃退に成功しました。優秀な君主がいたこととイタリアの進出を阻みたいフランスの支援があったからです。

 

 2つ目はリベリア共和国です。アメリカで解放された黒人たちが作ったアフリカ最初の共和国でした。共和国ですので、主権国家として認められています。そのため、手が出せませんでした。

 

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略図

ドイツ3B政策

 ベルリン、ビザンティウム(イスタンブル)、バグダード

 

イギリスの3C政策

ケープタウン、カイロ、カルカッタ

 

ファショダ事件

英仏協商

ロッコ事件