【教養のための世界史】日露戦争 韓国併合 辛亥革命

今日は日露戦争韓国併合辛亥革命です。3つなんですね。

世界史チャレンジ。大学受験や教養、旅行の前になど。毎日少しずつ知っていこう。

 

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あらすじ 

 

 清朝の最後の改革は自分たちのものでした。そこで、民衆のための国作りのために改革派がでてきます。

 

 

排外

  アヘン戦争以降、中国では植民地化が進んでいきました。その中でついに、中国では排外運動が展開されます。仇教運動といい、反キリスト教運動です。キリストというより、ヨーロッパのことです。

 

 その中で大規模な仇教運動は義和団事件でした。義和団扶清滅洋を掲げ、ドイツ人宣教師を殺害します。扶清滅洋とは、清を助けて、ヨーロッパ勢力を追い出せという意味です。これに怒ったドイツは山東へ進出していきました。

 

 すると、清は義和団を利用し、ヨーロッパを追い出そうとします。

 

 義和団が北京へ侵入しました。これを見て、清は西欧列強に宣戦布告します。しかし、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、ロシア、日本といったそうそうたる面子がかかってきたのです。この8カ国共同出兵により北京が占領されました。

 

 さすがに、敗れてしまった清は北京議定書によって、巨額の賠償金がさせられます。さらに物騒な中国に役人を置いてられないということで北京駐兵権が決定し、事実上軍事占領下に置かれました。半植民地化してしまったのです。

 

日露戦争

 義和団事件が終わった後も、ロシアは満州を占領しました。中国東北地方への進出を強めています。このまま下っていくとぶつかるのは朝鮮半島です。このロシアと朝鮮進出を強める日本とぶつかりました。

 

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 そのため日露戦争が発生しました。ロシアは思いのほか苦戦を強いられます。日本海海戦では、ロシアの海軍バルティック艦隊が日本に敗れてしまし、ロシアは劣勢でした。

 

 さらに、当時ロシアでは第1次ロシア革命が起こっています。内外で大変な状態です。日本も勝っているものの、お金がかかりすぎていました。ロシアも日本も戦争が長引くのに悩んでいます。

 

 そこで、アメリカのセオドア=ローズヴェルト大統領の仲介によりポーツマス条約が結ばれました。この結果、日本は韓国の指導、監督権を獲得します。また、ロシアは遼東半島南部の租借権南樺太を日本に渡しました。さらに、ロシアから南満州鉄道とその沿線の利権を獲得しました。

 

韓国併合

 日本は朝鮮支配を強めるために、日韓協約を結びました。数回に渡っており、1回目は日露戦争の最中に結んでいます。2回目は日露戦争後です。第2次日韓協約では韓国の保護国化が決定しました。保護国化とは外交権を奪うことです。代わりに、日本が外交を行うため、総督府を設置しました。初代統監伊藤博文です。

 

 日本の進出に対して、朝鮮側も抵抗を見せました。反日義兵闘争が各地で行われるようになります。

 

 朝鮮の王様は日本の進出に焦ってました。そこで、ハーグ密使事件が起こります。当時の朝鮮の君主は高宋でした。彼は、オランダで開かれていた第2回万国平和会議に密使を送り込もうとします。もちろん、外交権を奪われているので、公式には送れないので密使なのです。日本の支配から助けてくださいという手紙を携えていきましたが、まったく相手にされませんでした。

 

 日本はこれをきっかけに第3次日韓協約が結ばれます。これにより、韓国は内政権を奪われてしまいました。反日義兵闘争はさらに激化していきます。

 

 ついには、伊藤博文が暗殺されてしまいました。安重根によってハルビン駅で起こった事件です。彼は英雄として韓国の切手にもなりました。

 

 これを受けて、日本は1910年、韓国併合を行いました。韓国という国が消滅し、日本の領土に組み込まれたのです。そして、天皇の直属機関である朝鮮総督府が設置され、軍事・行政のすべてを統轄していきました。

 

 このときは、武断政治を行っていました。力による韓国支配を行っていたのです。

 

 しかし、この日本支配に対し、三・一独立運動が発生しました。パリ講和会議における民族自決の原則に触発されて、朝鮮各地で民衆デモが拡大していったのです。

 

 これを受けて、朝鮮総督府は、文化政治へ移行しました。朝鮮人が抵抗するのは、アイデンティティーがあるからです。そこで、日本語や日本文化を強制したりして、日本人にしてしまおうと考えました。

 

辛亥革命 

 清朝末期、義和団事件の後の話です。ヨーロッパの植民地化はさらに進みました。このままではまずいということで、改革が行われるようになります。当時、光緒帝が生きていた時代なので、光緒新改といいました。ただ、戊戌の政変で幽閉されている状態でした。

 

 国内では、新軍を整備し、西洋に倣った軍隊を整備しました。さらに、科挙を廃止し、北京大学を代わりに創設します。

 

 それだけでなく、日本の明治憲法をモデルに憲法大網を発布し、国会開設を公約しました。このように国内を改革していったのです。

 

 しかし、明治憲法は、天皇に大きな権限がある憲法でした。そのため、国会はお飾り状態になります。それをモデルに作った憲法大網はもちろん、皇帝に権限がある内容になりました。光緒新政は国内改革と言われる一方、皇帝の中央集権化を進める改革でもあったのです。

 

 結局、これまでも皇帝独裁に変化はないので、市民の不満は募っていきました。そこで、清、満州人、皇帝を追い出して、民衆のための国を作ろうとする動きが出てきます。

 

 それが、革命派です。たとえば、先進国に多く派遣される留学生や海外に渡航した中国人の華僑です。華僑の中にはビジネスに成功したものもいました。そのため、留学生に財政援助をしたのです。

 

 中でも革命派のリーダーは孫文です。彼は興中会を結成し、清を倒して、民衆のための国づくりを目指そうとしました。興中会以外にも様々な組織が結成されます。

 

 そのため、彼は、ゴールは同じなので、それらをまとめ上げ、中国同盟会を結成しました。1905年、日露戦争で日本の勝利に刺激を東京で結成されます。リーダー(総理)は孫文になり、機関紙『民報』を発行しました。

 

 また、民族の独立民権の伸長民生の安定、まとめて三民主義を掲げました。清朝を打倒し、欧米諸国から漢民族の独立を目指す(民族の独立)、一般民衆の権利を認める(民権の伸長)、人々の生活が安定できるよう貧富の差を解消する(民生の安定)を目指したのです。

 

 いよいと、皇帝政治は終わる瞬間がやってきました。辛亥革命です。きっかけは、清の幹線鉄道国有化宣言でした。幹線鉄道は国の重要な鉄道のことです。清はこれを担保にお金を借りようとしました。しかし、これを渡してしまったらさらに中国の植民地化が進んでしまいます。

 

 これに対して、四川暴動が起こりました。清は武力で鎮圧を試みます。ところが、その軍隊が途中で清を裏切ってしまいました。武昌蜂起を行います。湖北の新軍内の革命派が武装蜂起し、独立を宣言したのです。これに続いて、各地の革命派も次々と独立を宣言していきました。

 

 そして、独立を宣言した各省の代表が集まり、中華民国が建国したのです。臨時大総統として孫文が選ばれ、首都は南京に置かれました。まだ、清は滅んでいません。中華民国は清を滅ぼそうと考えました。

 

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 清も中華民国を潰そうとしてきます。当時、清には最強の大臣である袁世凱がいました。彼を使って、中華民国を潰そうと考えたのです。

 

 しかし、袁世凱中華民国孫文と取引を行いました。彼は、清の皇帝を退位させる代わりに、中華民国のリーダーにしてくださいと持ちかけたのです。中華民国の軍事力では袁世凱の軍に勝ち目がないと判断して、孫文は、この取引に応じました。結果、宣統帝(溥儀)が退位し、清は滅亡したのです。

 

 約束通り、袁世凱は、臨時大総統に就任しました。そして、北京に都を移し、独裁色を強めていきます。袁世凱は民主的な政治をする気がありませんでした。

 

 そこで、袁世凱の暴走を防ぐため、国民党が結成されます。中国同盟会が中心となり結成されました。袁世凱と国民党は対立していきます。

 

 ついに、武力衝突が起きました。第二革命です。しかし、仮にも袁世凱は軍人なので、とても強いのです。結果、袁世凱が勝利し、国民党は解散処分になりました。そして、袁世凱は正式な大総統に就任したのです。

 

 袁世凱は最終的に皇帝になろうとしました。これでは今まで行ってきたことが無駄になってしまいます。そこで、革命派だけでなく、国内のかつて袁世凱の部下だった軍部も袁世凱に対抗していきました。これを第三革命といいます。

 

 国内だけでなく、ヨーロッパや日本も革命派の味方をしました。これ以上行うと植民地化した市場も混乱すると思ったからです。結果、袁世凱は、帝政をやめることを宣言しました。数ヵ月後、彼は病気で死んでしまいます。彼の死後、北京政府の実権をめぐり、軍閥が割拠し、争うようになってしまいました。

 

オスマン帝国

 当時のオスマン帝国皇帝は、アブデュル=ハミト2世です。彼はロシアとの戦争を口実にミドハト憲法を停止してしまいました。これにより、立憲運動は止まってしまい、オスマン帝国はさらに領土を縮めてしまいました。

 

 そんなオスマン帝国では、もう一度、皇帝の力を抑えようという動きが現れます。統一と進歩団が中心となり青年トルコ人を結成しました。

 

 日露戦争で日本が勝利したことに影響を受け、青年トルコ革命が起こります。これにより、ミドハト憲法が復活しました。日本のように憲法に基づく政治を行うべきをいう声が強くなったからです。アブデュル=ハミト2世は責任を取って退位しました。

 

 しかし、政権を握った青年トルコ人が権力を握るようになってしまいます。さらに、列強の圧力で、オスマン帝国の領土はさらに削られていきました。

 

イラン

 イラン立憲運動に大きな影響を与えた人物はアフガーニーです。彼はパン=イスラーム主義を提唱しました。すべてのイスラーム教徒が団結して、欧米諸国の帝国主義に対抗しようとする考えです。

 

 この思想に大きく影響を受けたのは、タバコ=ボイコット運動でした。イランの民衆・商人・知識人らがイギリスに対して反対運動をしたのです。

 

 また、日露戦争での日本の勝利を受けて、イランも憲法制定に向け動き始めました。それがイラン立憲革命です。イギリスやロシアの侵略と弱腰な政府に民衆が反発して起きました。仮憲法の制定や国会を開設を決めるなど国内では改革が進んでいきます。

 

 しかし、この後、英露協商でペルシア(イラン)分割が決まりました。イイラン北部はロシア、南部はイギリスに支配されることになります。

 

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 さらに、イギリスとロシアは、イラン立憲革命に干渉しました。イランが強くなっては困るのです。これにより、イラン立憲革命は失敗に終わってしまいました。

 

略図

 

露仏同盟

日英同盟

日露戦争

ポーツマス条約

 

朝鮮

日清戦争

大韓民国

↓ 総監府

↓ ハーグ密使事件

韓国併合

 

中国同盟会

↓ 

四川暴動

辛亥革命