【教養のための世界史】ロシア革命

今日はロシア革命ですね。ロシア語は出来たらカッコ良さそう。

世界史チャレンジ。大学受験や教養、旅行の前になど。毎日少しずつ知っていこう。

 

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ロシア二月革命

  当時のロシアで問題になっていたのは第一次世界大戦です。作った穀物は無理やり政府に取られ、都市の人は食糧難でした。もちろん不満がたまっていきます。

 

 1917年、首都のペトログラードで大規模やデモやストライキが発生しました。ペテルブルクのロシア語由来がペトログラードです。ペテルブルクはドイツ語が由来でした。第一次世界大戦では、ドイツとは敵なので、変更したのです。

 

 さらに、これに兵士も合流します。そして、この結果、ソヴィエトという組織が結成しました。労働者と兵士の代表による評議会です。

 

 これに、皇帝ニコライ2世は退位し、ロマノフ朝が滅亡しました。これをロシア二月革命といいます。当時のロシアの暦は約13日遅れていたため、ロシア三月革命とも呼ばれることもあります。

 

 皇帝がいなくなった後、共和政に移り、臨時政府が発足しました。中心となったのは、立憲民主党です。彼らは比較的お金持ちの意見を反映させました。他の党には、社会革命党があります。農民に支持基盤があります。また、メンシェヴィキボリシェヴィキもありました。

 

 この4つの政党がいたわけです。社会革命党、メンシェヴィキボリシェビキは、貧しい人達の味方で、社会主義の考え方を持っていました。

 

 臨時政府の主導権を握った立憲民主党は戦争継続の方針でした。しかし、社会革命党の左派、メンシェヴィキを中心としてソヴィエトが作られ、彼らは即時講和を主張します。このように臨時政府ソヴィエトが意見が分かれている状態を二重権力といいます。

 

 この状態に対し、ボリシェヴィキのリーダーのレーニンが登場します。ボリシェビキはどちらにも属していませんね。そして、彼は四月テーゼを発表します。「すべての権力をソヴィエトへ」と言いました。すぐに戦争を終わらせるために、臨時政府はいらないと言ったのです。

 

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 臨時政府にとっては邪魔な存在です。そのため、臨時政府に追われて、レーニンは亡命してしまいました。

 

 その後、社会革命党のケレンスキーが臨時政府の首相に就任します。彼はソヴィエトの指導者でもありました。そのため、戦争を終わらせてくれるだろうと期待が高まります。

 

 しかし、彼は、戦争の継続の方針を崩しませんでした。人々は失望し、ボリシェヴェキに期待する声が高まっていきました。

 

ロシア十月革命

  これを受け、ボリシェヴィキ武装蜂起を行います。これがロシア十月革命です。十一月革命ともいいます。

 

 ついに、臨時政府が消滅し、至上初の社会主義国家を樹立しました。これを全ロシアに呼びかけるために、全ロシア=ソヴィエト会議を開催し、臨時政府打倒とソヴィエト権力の樹立を宣言しました。

 

 そして、社会主義国家に向けての改革を行っていきます。まず、レーニンは、約束していた戦争を終わらせるため、「平和に関する布告」を採択しました。無併合(領土を取らない)、無償金(賠償金を請求しない)、民族自決(他の民族のことに干渉しない)講和条約の前提にして、全ての交戦国に対して呼びかけました。

 

 さらに、「土地に関する布告」も採択しました。地主を廃止し、土地を国有化し、それを分配していこうとするものです。

 

 そして、レーニンは、新しい憲法制定のために選挙を実施しました。しかし、ボリシェヴィキは、社会革命党に負けてしまいます。これをレーニンはうまく利用しました。

 

 開票結果から、ボリシェヴィキの支持が弱い地域をあぶりだしていったのです。さらに、そこを弾圧や取締りするために、チェカ(非常委員会)を設置しました。ロシアの秘密警察的な役割があり、革命政権を防衛するために設置された治安組織です。

 

 選挙で選ばれた人が集まり、憲法制定会議が開催されました。しかし、レーニンはこれを武力で解散させ、その後、ボリシェヴィキの一党支配が成立していってのです。

 

 一党支配のもと、ブレスト=リトフスク条約をロシアと締結させました。ロシア全権トロツキーが交渉し、同盟国と単独講和条約を結んだのです。

 

 さらに、社会主義政権を守るために、赤軍を設立しました。指導者はトロツキーです。赤は社会主義の色だから赤の軍なのですね。

 

 その後、ロシア共産党と名前を変え、ロシアという国名を入れることで、ロシアの政党であるとアピールしました。また、ヨーロッパから離れるために、モスクワに遷都までしたのです。

 

内戦

 レーニンの支配を嫌う人がいました。国内では、反革命(白旗)と呼ばれます。地主・貴族・反ボリシェヴィキが中心となりソヴィエト政権に反対するため結成しました。赤に対抗して、白なんですね。彼らが武装蜂起を起こし、内戦に突入します。

 

 社会主義が広がらないために、これに外国勢力が干渉してきました。これが対ソ干渉戦争です。当時ロシア軍に降伏したチェコ軍団の救出を大儀名分に、シベリア出兵を行いました。チェコ兵が帰国したあともシベリアを占領します。

 

 また、ロシアはとなりのポーランドと戦争をしました。ポーランド=ソヴィエト戦争です。結果、ポーランドが勝利し、一部の領土を取られてしまいました。ロシアは混乱状態になっていきます。

 

 レーニンはこれに対処するため、コミンテルンという組織を作りました。ロシア共産党が中心となった組織で、全世界で革命を起こそうと、革命のやり方を指導する組織です。

 

 さらに、戦時共産主義という経済政策を取りました。干渉戦争に勝たなければならないので、農作物を強制的に持っていったり、労働を義務にしたり、食糧は配給にするなど経済統制を行ったのです。

 

 しかし、どんなに頑張っても政府に徴収されてしまうので、ヤル気がでません。そのため、農業や工業の生産力は低下してしまいました。反省したレーニンは、対ソ干渉戦争が終わろうとしていたタイミングで、新経済政策(ネップ)を実施しました。これでヤル気を出させようとしました。

 

 穀物の徴収をやめ、小規模な私企業や小農の経営を認めたのです。小農の経営とは、余剰物を販売することです。努力した分だけ評価されるシステムに変えたことにより、生産力は回復していきました。

 

 内戦と対ソ干渉戦争を退け、1922年、ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連ソ連邦)が誕生しました。ロシア、ウクライナベラルーシ、ザカフカースの4つの共和国で発足しました。

 

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 このソ連を束ねるために、ソヴィエト社会主義共和国憲法が制定されました。最終的には15の国を束ねるようになっていきます。

 

 当時ヨーロッパはソ連を認めたくありませんでしたが、ラパロ条約で、ドイツが承認し、イギリス、イタリア、フランス、日本の順で次々と承認していきました。最終的に、アメリカがソ連を承認したのです。

 

 略図

 

ロマノフ朝

ニコライ2世

↓ 日露戦争

↓  血の日曜日事件 / 第一ロシア革命

↓ 二月革命

↓ 十月革命

ソヴィエト政権