今日は、ヴェルサイユ体制とワシントン体制ですね。名前が被る条約はやめてほしい。
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あらすじ
第一次大戦後の処理をめぐって、パリ講和会議が開かれました。ヨーロッパを荒らしたドイツに対しては徹底的な制裁が行われました。一方、戦勝国に有利なルールが決められていきます。
また、戦争はあまりにもヒドイ惨状だったため、国際的に協調していこうという取り組みが行われていきました。
ヴェルサイユ体制
第一次世界大戦後、連合国、つまり戦勝国がパリ講和会議が開かれます。敗戦国とソヴィエトは呼ばれませんでした。この会議を率いた人物は、アメリカのウッドロー=ウィルソンは十四か条の平和原則に基づく理想主義的な主張します。
しかし、イギリスのロイド=ジョージとフランスのクレマンソーとは意見が分かれました。ロイド=ジョージは、戦前の国際的地位への復帰を目指しました。かつての世界1位の地位に返り咲きたいのです。一方、クレマンソーはドイツに対する厳しい制裁と徹底的な弱体化を主張しました。
結果、ヴェルサイユ条約が締結され、ドイツの処分が決定します。ドイツの割譲地・植民地はすべて失ってしまいます。さらに、アルザス・ロレーヌをフランスへ割譲、ポーランド回廊をポーランドへ割譲しました。また、ラインランド地域は非武装が決定します。ライン川流域は当時、ドイツ、フランスの国境線でした。
さらに、国際連合下に置かれた地域もあります。ザール地方、ダンツィヒです。まだ課されます。ドイツは軍備を制限されました。また、賠償金が課されることが決定しますが、ヴェルサイユ条約では決まらず、後に1320億金マルクになりました。日本円で約200兆です。
そして、二度と戦争が起きないように国際連盟の発足がヴェルサイユ条約で取り決められました。
ドイツ以外にも敗戦国は講和条約を結びました。オーストリアには、サン=ジェルマン条約、ブルガリアには、ヌイイ条約、ハンガリーには、トリアノン条約、トルコ(オスマン帝国)には、セーヴル条約です。オーストリアとハンガーリーは、オーストリア=ハンガリー帝国で1つの国でしたが、敗戦後、2つに解体されました。
東ヨーロッパ諸国は、第一次世界大戦後、次々に独立していきます。エストニア・ラトヴィア・リトアニア・ポーランド・フィンランド・ハンガリー・セルブ・クロアート・スロヴェーン王国(→ユーゴスラヴィア)などがありました。
ウィルソンが十四か条で唱えた中に民族自決というものがありました。自分たち民族のことは自分たちで考えるというものです。これが東ヨーロッパ諸国に適用されました。しかし、アジア、アフリカには適用されません。
なぜ東ヨーロッパ諸国にだけ適用されたかというと、社会主義を警戒していたからです。これらの独立国は、壁として独立できたのでした。
国際連盟
世界初の集団安全保障組織として国際連盟ができました。集団安全保障とは、みんなで協力して平和を維持しようというものです。本部をスイスのジュネーヴに置き、連盟の最高議決機関には総会が置かれました。
また、連盟の主要機関として理事会も置かれます。連盟の中心となる常任理事国にはイギリス・フランス・イタリア・日本がメンバーになり、サポートする非常任理事国は総会で選出された4カ国がメンバーになりました。
国際連盟は、紛争の仲裁だけでなく、労働問題の調整機関として、国際労働機関(ILO)が置かれます。これは、労働者がロシアのように社会主義に走らないように、労働問題を解消するためにできました。
国際連盟は問題も抱えていました。まず、脱退、参加が自由のため、提唱国であるアメリカが不参加であることです。次に、全加盟国1国1票による全会一致のため、意見が一致せず議会が機能しませんでした。さらに、制裁規定がないことです。連盟の勧告を無視しても、罰則がありませんし、与えることもできません。
ワシントン体制
ドイツがいなくなり、東アジア・中国・太平洋植民地をどうするのかが問題になりました。そこでワシントン会議が開かれます。アメリカで開かれ、東アジアの新しい国際秩序を決めていこうということで開催されました。しかし、実際は、アメリカが日本の抑制も目的にしていたのです。
アメリカは、日本がさらに東アジアに進出することを警戒していました。そこで、四カ国条約で、太平洋域の領土と権益の相互尊重が決まります。この結果、日本は戦争に巻き込まれることはないとして、日英同盟が解消されました。
さらに、中国の主権と独立の尊重という形で、九カ国条約が結ばれました。結果、二十一カ条要求は事実上無効化してしまいます。
また、ワシントン海軍軍備制限条約で、主力艦の保有比率を決めました。アメリカ: イギリス : 日本 : フランス : イタリア = 5: 5: 3: 1.67 : 1.67になります。世界大戦を反省して、アメリカが軍縮を呼びかけたのです。それだけではなく、結果的に日本の戦力も削減に成功しました。
国際協調
第一次大戦後、ヨーロッパは協力していこうという風潮になっていきました。これを国際協調主義といいます。
平和に向けての取り組みとして、まず、ロカルノ条約です。これは西ヨーロッパの安全を規定したものです。領土に関しては、現状維持とされ、国際紛争解決で武力を解決手段として用いないなどが規定されました。
これにドイツも参加しました。外相シュトレーゼマンがサインします。ロカルノ条約を締結する条件にドイツは、国際連盟に加入することになりました。
さらに、多くの国々で不戦条約が締結されます。アメリカの国務長官ケロッグとフランスの外相ブリアンが作った条約です。「国際紛争の解決は武力によらないこと」という内容で、日本国憲法にも影響を与えました。
また、第一次世界大戦を反省して、軍備の縮小が行われていきます。ロンドン軍縮会議です。ここでは、補助艦の保有率が決定しました。アメリカ : イギリス : 日本 = 10 : 10 : 7弱にしたのです。しかし、これは日本の海軍の反発を買い、軍部では不満が募っていきました。
略図
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パリ条約
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ロカルノ条約
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不戦条約
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