【教養のための世界史】第一次大戦後のアメリカ・イタリア・ソ連・東欧諸国

今日は、第一次世界大戦後の欧米諸国です。禁酒の失敗は興味深い。

世界史チャレンジ。大学受験や教養、旅行の前になど。毎日少しずつ知っていこう。

 

f:id:nicochan0923:20210523101427p:plain

青い文字をクリックすると関連した画像検索や記事に飛びます。絵や写真だったり、続きの話、前の話です。気になったらさっと見てみましょう。

 

アメリ

 第一次世界大戦を勝利に導いたウィルソン大統領の時代の話です。彼は、禁酒法を制定します。また、女性参政権も与えられました。これは、総力戦で女性も活躍したからです。

 

 しかし、この時期からアメリカは、保守化が進みました。アメリカはもともとモンローのころから不干渉主義を取っていましたが、第一次世界大戦では、ヨーロッパに関与しました。これを快く思っていない人が出てきたのです。上院議員の反対もあり、ヴェルサイユ条約の批准は拒否され、折角提唱した国際連盟に不参加になってしまいました。

 

 ウィルソンの後は、共和党政権が続きます。共和党は保守的な政党で、昔に戻したり、新しい改革をしない政党です。この時期に債務国から債権国に変わりました。お金を返す側から返してもらう側になったのです。第一次世界大戦で連合国の兵器工場となり、莫大な利益を得たからですね。このころの生産方式は、大量生産・大量消費でした。そして、大衆消費社会が形成されていきます。

 

 また、アメリカ社会では、ワスプと呼ばれる人たちが力をつけてきました。WASP は ホワイト、アングロサクソン系、プロテスタントのことです。これに該当しないものは迫害されます。迫害する組織としてはK・K・Kが活動を再開しました。黒人以外にも黄色人種の人もターゲットにしていきます。

 

 さらには、サッコ・ヴァンゼッティ事件が起こりました。2人のイタリア系アナーキストへの冤罪事件です。アナーキストとは、無政府主義という意味で、国家や政府はなくなればいいという考えをもった人のことです。彼らは証拠不十分のまま死刑が決まってしまいました。WASPではないという差別が後押ししてしまったのです。

 

 また、民法を制定し、アジア系の移民は全面禁止しました。このように繁栄していく中で、自分たち以外の民族や人種を敵とするアメリカ社会の裏の顔があったのです。

 

 

イタリア

 イタリアは第一次世界大戦に参戦するにあたって、イギリス・フランスから、戦後、未回収のイタリアを譲渡してもらうことを約束してもらいました。しかし、すべての領土を獲得できたわけではありません。フィウメを残す状態になってしまいました。ユーゴスラヴィア領になってしまったのです。これにより戦後の体制であるヴェルサイユ体制に不満を持つことになってしまいました。

 

f:id:nicochan0923:20210605155516p:plain

 

 イタリアは、フィウメ獲得のためにユーゴスラヴィアと関係を悪化させていきます。やがて、フィウメは国際連盟の管理下に置かれるようになりました。

 

 さらにイタリアは戦後不況に見舞われます。労働者の待遇が悪いので、北イタリアのストライキが発生してしまいました。これを政府が鎮圧します。しかし、この政府はイタリア社会党でした。つまり、労働者、失業者の味方のはずなのに弾圧されたのです。

 

 これによりイタリア社会党に期待しなくなった市民は、ファシスト党に期待を寄せるようになっていきます。ファシスト党は、ムッソリーニが結成し、資本家・地主・軍部などが支持していました。

 

 社会主義になれば、土地や企業は国有化され、分配されてしまいます。そのため、資本家や地主は社会主義を嫌っていました。ムッソリーニは、反社会主義を掲げたので支持されたのです。

 

 一方、彼は、国家による経済統制を約束しました。国家が仕事を提供し、物価の調整も行うと宣言したのです。これにより、下層階級からも支持を得たのでした。

 

 また、彼はイタリアがまとまらない理由を議会制民主主義だと考えました。そのため、問題を解決する代わりにファシスト党による独裁が必要だと主張します。言論も統制しようと考えました。

 

 このようにムッソリーニが始めたやり方をファシズムといい、日本語では、全体主義と言います。

 

 彼はついに、弱腰な政府にクーデターを起こしました。ローマ進軍を行います。政府は鎮圧しようとしますが、国王は、ムッソリーニを支持し、組閣を承認しました。組閣とは、内閣を作ることです。

 

 ここから、ムッソリーニは国内をまとめるために巧みな外交をしていきました。まず、フィウメを併合します。これにより国民からの支持を集めました。そして、ファシスト党による一党独裁制が成立します。ファシズム大評議会というファシスト党の会議が国家最高議決機関になり、他の政党はおかざりのような状態になりました。

 

 さらに、アルバニア保護国することに植民地を獲得します。これにより強いイタリアであることをアピールしました。

 

 また、ラテラン条約を締結したのです。当時、イタリア政府と教皇は対立していました。イタリア統一のときに、教皇領を勝手に占領したのです。そのため対立していました。そのローマ教皇とこの条約で和解したのです。イタリア人はカトリックなので、ムッソリーニの評判は上がりました。

 

 その後、ヴァチカン市国の成立を承認しました。イタリアのローマ市内の一部を教皇が統治する市国として独立させることを認めたのです。ヴァチカン市国は世界で一番小さな国として有名ですね。

 

ポーランド

  第一次大戦後、ポーランドは独立しました。そして、隣のソヴィエトとソヴィエト=ポーランド戦争を行います。ポーランドは勝利し、領土を1部獲得しました。

 

 この戦争を勝利に導いたピウスツキは国民から支持を集め、独裁体制を敷くようになります。 

 

ハンガリー

 1918年から翌年まで、ハンガリー革命がありました。社会党共産党がソヴィエト政権を樹立し、ハンガリー共和国の独立を宣言したのです。

 

 しかし、ホルティがこのソヴィエト政権を倒し、社会主義の波を阻止しました。その後、彼が権力を握り、独裁政治を行いました。

 

 東欧諸国は、西欧諸国とソ連の間に位置しており、社会主義に対する壁としての役割でした。そのため、その役割さえ機能していれば、独立も、独裁も容認されたのです。

 

ソ連

 1924年、ロシア革命の指導者レーニンが死にました。彼の死後、後継者をめぐって、2人が争います。1人目は、トロツキーです。彼は世界革命論を提唱し、西欧や世界に革命を広げて、仲間を増やし援助するべきだと主張したのです。

 

 このトロツキーの考え方とぶつかったのが、スターリンです。彼は、一国社会主義を提唱し、社会主義建設は後進国であるソヴィエト1国でも可能だと主張しました。トロツキーと違い仲間を増やさなくても良いとしました。

 

 最終的に勝ったのがスターリンです。その後、トロツキーはメキシコに亡命し暗殺されました。

 

 スターリンが次の指導者となってまず行ったのが、粛清です。スターリンの反対派とされた人々を大量に処刑しました。さらに、スターリン憲法が制定されました。民主的な内容ですが、形式的なものでした。

 

 スターリンがここまで独裁にこだわったのは経済政策を行うためです。それは第1次五ヵ年計画でした。五ヵ年とはある期間特定の分野に特化して経済成長を行うというやり方で、このような政策を計画経済といいます。

 

 第1次五ヵ年計画では、重工業重視の工業化、農業の機械化・集団化を行いました。農業については、農家たちの間で、農具や機械などの生産手段と土地を共同利用し、そこで取れたものはみんなで分配するというやり方を取りました。これをコルホーズ(集団農場)といいます。一方、土地も機械も国有化され、そこで働いて賃金を得るアルバイトのような形態もありました。これをソルホーズ(国営農場)といいます

 

 これにより、一気に工業国に急成長しました。その後、第2次五ヵ年計画も行われ、人々に必要な軽工業に特化したのです。

 

略図

 

アメリ

禁酒法

民法

 

○ソヴィエト政権

レーニン

↓ 戦時協賛主義

↓ ネップ

スターリン

↓ 第一次五ヵ年計画

 

○イタリア

ファシスト党

ローマ進軍

ラテラン条約