今日は、第一世界大戦後の西アジアですね。イギリスの二枚舌がきました。
世界史チャレンジ。大学受験や教養、旅行の前になど。毎日少しずつ知っていこう。
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アラビア独立
第一次世界大戦後、オスマン帝国領では、ヒジャーズ王国が成立します。メッカの首長フセインが建国しました。彼はイギリスとフセイン=マクマホン協定を結んだ人です。約束通り、アラブ人の王国を建てました。
しかし、イギリスは守る気はありません。そのため、富豪のイブン=サウードを利用しました。彼を使って、ヒジャーズ王国を征服させたのです。そして、サウジアラビア王国を作りました。
オスマン帝国領でアラビア半島の上側も戦後処理がされました。ここの土地は、国際連盟が預かり、先進国が代わりに統治する委任統治が行われました。
イラク・パレスチナ・トランスヨルダンはイギリスが管理下、シリア・レバノンはフランスの管理下に置かれることになりました。そして、彼らは自分の都合の良いように、国境を引いてしまったのです。そのため、宗教、民族の違いの無視してしまい今でも紛争が絶えない地域となりました。
トルコ革命
オスマン帝国は第一次世界大戦で負けて、降伏します。しかし、降伏した後、連合国に支援されたギリシア軍が突如イズミルに侵入し、占領しました。その最中、セーヴル条約が締結されます。これにより、主権の制限、軍備の制限、治外法権が復活しました。オスマン皇帝はすべてを容認したのです。
皇帝の弱腰外交に市民の不満は募ります。そこで、登場したのが、ムスタファ=ケマルです。彼はアンカラで臨時政府を樹立し、侵入してきたギリシア軍を追い出しました。
そして、ムスタファ=ケマルを中心に新しい国作りを始めていきました。まず、スルタン制を廃止し、オスマン帝国は滅亡しました。この後、セーヴル条約の代わり、ローザンヌ条約を締結します。この結果、イズミルを回復し、軍備制限や治外法権の撤廃に成功しました。そして、首都をアンカラにして、トルコ共和国を成立させます。
ムスタファ=ケマルは、トルコ共和国の初代大統領として、ヨーロッパ風の近代国家に向けての改革を行っていきます。
まず、カリフ制を廃止し、政教分離の方針を打ち出しました。そして、女性を解放します。また、文字も改革し、ローマ字を採用し、識字率を上げました。このようにトルコの近代化に努めたため、議会からアタテュクルという称号を与えられます。トルコの父という意味です。
エジプト
エジプトでは第一次世界大戦が終わるころ、ワフド党が結成されました。ワフドとは、日本語で代表という意味があります。もともとはパリ講和会議の代表として送るために結成されたのがワフド党でした。彼らが中心となって、イギリス支配からの脱却を目指していきます。
1922年に、エジプト王国は独立を達成します。しかし、条件つきでした。イギリスはエジプトの防衛権を保有するのが条件です。これはイギリスの軍が常にエジプトにいる状態で、事実上の軍事占領になりました。
ワフド党はこれに対して、交渉を続けました。そして、エジプト=イギリス同盟条約が締結されました。これによって、エジプト国内の軍事占領は終了します。しかし、スエズ運河地帯駐屯権だけはイギリスが保有することになりました。ここはイギリスがインドに行くための重要なルートなので、他の国に取られるわけには行かなかったからです。
イラン
第一次世界大戦前には、カージャール朝がありました。しかし、戦争が始まると、北側は、ロシアが、南側がイギリスが占領してしまいました。
途中でロシアは革命が起こるので、抜けてしまいます。最終的にはイギリスが単独で占領しました。そして、戦争が終わってもイギリスの占領体制は変わりません。
そこで、イランは、言いなりのカージャール朝を潰して、イギリスを追い払おうとする動きが見られました。そのため、新しくパフレヴィー朝ができます。建国者は、レザー=ハーンです。彼は、イギリスと交渉して不平等条約を撤廃することに成功しました。さらに、国号をペルシアからイランに変えました。
アフガニスタン
第一次世界大戦前には、イギリスはアフガニスタンを保護国化していました。しかし、戦争が終わると、イギリスからの独立を目指し、第3次アフガン戦闘が起こります。アフガニスタンが勝利し、イギリスは、アフガニスタン独立を正式に認めることになりました。
3つの秘密条約
第一次世界大戦中、イギリスにとって、オスマン帝国は敵でした。そのオスマン帝国との戦いを有利に進めるべく、フセイン・マクマホン協定を締結します。大戦後、旧トルコ領にアラブ人の国家建設を約束するから、オスマン帝国内で抵抗してくださいというものです。
しかし、このような約束をしているにも関わらず、同じ地域に関する取り決めをまた行ってしまったのです。それがサイクス・ピコ協定です。戦後のトルコ領を、イギリス、フランス、ロシアで分割するものです。すでにアラブ人に約束しているのに、3国で管理すると約束しました。
さらに、バルフォア宣言で、パレスチナにおけるユダヤ人国家建設を認めたのです。パレスチナはオスマン帝国領土に含まれていました。つまり、イギリスは同じ地域の取り決めを3つしてしまったことになります。
戦後、この地域は委任統治に組み込まれました。委任統治とは、第一次世界大戦に敗れた国の持ってた領土の管理方法のことです。そこを国際連盟が預かり、国際連盟自体は統治できないので、他の国に統治してもらうという統治方法です。
イラク・パレスチナ・トランスヨルダンはイギリスの管理、シリア・レバノンはフランスが管理しました。
ここの地域はイギリスとフランスが都合の良いように暫定国境線と引いてしまいました。民族や宗教、宗派を無視して引いてしまったのです。そして、第二次世界大戦後、その国境のまま独立国になっていきました。そのため、現在でもこの地域は、民族、宗教、宗派対立が起きています。
略図
↓
セーヴル条約
↓
ローザンヌ条約
↓
○エジプト
イギリス領
↓
エジプト王国
○イギリス
↓ フセイン・マクマホン協定
↓ バルフォア宣言