【教養のための世界史】第一次世界大戦前後の南アジア 東南アジア

今日は、第一次世界大戦後の南アジアと東南アジアです。ここはやはりまとめられる運命ですね。

世界史チャレンジ。大学受験や教養、旅行の前になど。毎日少しずつ知っていこう。

 

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青い文字をクリックすると関連した画像検索や記事に飛びます。絵や写真だったり、続きの話、前の話です。気になったらさっと見てみましょう。

 

あらすじ 

 当時、インドはイギリスによって統治されていました。そして、イギリスは知識人や宗教対立をうまく使って統治に利用しようと画策します。

 

 インド

 イギリスはインドを支配するにあたってヒンドゥー教徒中心でインド国民会議を結成しました。当初、インドにいる知識人たちを抱きこむために作った組織です。イギリスは、知識人がイギリスに敵対することを恐れていたので先に抱き込もうと考えました。彼らに意見を求めて、インドの統治に反映させていくと口では言ったわけですね。

 

 ここで集まったメンバーは、国民会議派を結成するようになりました。 彼らはイギリスに対して、協力的で穏健な親英的です。

 

 しかし、彼らは反イギリスになってしまいました。きっかけはベンガル分割令です。これは、イスラーム教徒とヒンドゥー教徒を分けて住まわせる政策です。ベンガルはインドでもっとも肥沃な土地でした。

 

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 イギリスは分けて住まわせることで、宗教対立を起こそうとしたのです。しかし、国民会議派はこれを見破り、激怒しました。

 

 そこで、インド国民会議の急進派ティラクが指導者になり、カルカッタ大会を開催されます。そこで、4つの綱領が採択されました。英貨排斥、スワデージ、スワラージ、民族教育の4つです。

 

 英貨排斥は、イギリスの製品を買わないということ、スワデージは、インドで作られたものを買おう、国産品を愛用するということ、スワラージは、自治・独立を獲得しようということ、民族教育は、インドの歴史を教育し、民族的自覚を促そうという意味です。

 

 そこで、イギリスは、全インド=ムスリム連盟を発足させました。イギリスの支援で結成し、インドにいるイスラーム教徒中心の政治団体です。

 

 ベンガル分割令は撤回されましたが、ヒンドゥー教徒中心の国民議会とイスラーム教徒中心の全インド=ムスリム連盟を対立するようになっていきました。

 

 この2つは最初は対立していましたが、全インド=ムスリム連盟は、第一次大戦中は一時的に反英化します。当時、イギリスはオスマン帝国と敵国状態でした。実は、全インド=ムスリム連盟には、オスマン帝国の代表カリフがいたのです。そのため、2つは手を結びました。

 

 この反英運動を鎮めるために、イギリスは戦後に自治を与える約束をします。インドはこれを信じ反英運動をやめ、数万人の兵隊を提供しました。

 

 しかし、戦後イギリスはローラット法を制定しました。令状なしの逮捕や裁判抜きの投獄などです。これにインドは抗議をしますが、アムリットサール事件で弾圧されます。

 

 そこで、インド独立に向けて立ち上がった人がいます。ガンディーでした。彼は、イギリスの抵抗運動として、非暴力・非服従運動を展開します。これにより、女性や子供、全インド国民が抵抗運動に参加することができました。また、サティヤーグラハ(真理の把握)を掲げ、イギリスに屈しない意志を明らかにしたのです。

 

 運動が盛り上がりを見せる中、国民議会派のネルーを議長にラホール大会が開催されました。そこでプールナ=スワラージを宣言します。自治ではなく、独立することを宣言したのです。

 

 ガンディーはまた動きます。当時イギリスは塩の専売法を作りました。これに反対し、塩の行進を行ったのです。海岸まで行って、自分たちで塩を作りました。

 

 イギリスもついに対応せざる負えなくなりました。不満を解消するため、英印円卓会議を開催します。しかし、ロンドンで開催だったため、ボイコットしました。デリーで開催しろと言ったのです。これにより、会議は不調で終わりました。

 

 そこで、新インド統治法を制定します。連邦制と各州の自治制を導入しました。しかし、プールナ=スワラージ完全なる独立を望んでいるため、ますますインドの民族運動に拍車をかけてしまう結果になりました。

 

ベトナム

 当時、ベトナムはフランスの支配下でした。フランス領インドシナ連邦に組み込まれていました。この支配に立ち上がったのは、ファン=ボイ=チャウです。彼は維新会を結成しました。日本の明治維新を参考にしています。

 

 さらに、日本に多く留学生を送り込むことによって、日本流の近代化を勉強しようというドンズー(東遊)運動を展開しました。このころは日本が日露戦争に勝利した時期だったので日本を参考にしたのです。

 

 しかし、日本がフランスを手を組んだことで、ドンズー運動は弾圧を受けてしまいました。そこで、彼は、中国の革命運動をモデルにベトナム光復会を結成したのです。

 

インドネシア

 当時のインドネシアはオランダの支配下でした。ここでは、サレカット=イスラームという組織が出来ます。イスラーム同盟という意味で、商人や知識人を中心に組織を拡大し、自治を要求していきました。

 

 第一次大戦後には、インドネシア共産党が結成しました。この共産党が組織されたのはアジアで初です。また、インドネシア国民党も結成しました。指導者はスカルノです。奥さんがデヴィ婦人ですね。

フィリピン

 当時、フィリピンはスペインの支配下でした。この支配に対して、ホセ=リサールは、小説を書いて、スペインの暴政を暴露し非難します。しかし、彼は銃殺刑になってしまいました。

 

 次に登場するのは、アギナルドです。彼はスペイン支配の脱却のため、フィリピン革命を指導しました。彼は革命政府大統領に就任しますが、スペイン軍から逃れるために、香港に亡命します。

 

 しかし、1898年のアメリカ=スペイン戦争の最中、彼は、アメリカの援助でフィリピンに帰国しました。そして、フィリピン共和国を建国しました。スペインから独立できると思った矢先、次はアメリカに支配されることになってしまいます。

 

 これに対して、フィリピン=アメリカ戦争が起こってしまいました。結果、アメリカが勝ち、アギナルドは逮捕されてしまったのです。

 

 第一次大戦後、アメリカ領のフィリピンに対して、フランクリン=ローズヴェルトはフィリピンの独立を約束しました。そして、フィリピン独立準備政府を作ったのです。

 

インドシナ

 インドシナとはベトナムカンボジアラオスを含む3つの総称のことです。当時はフランス領インドシアと呼ばれていました。第一次大戦後、ベトナム青年革命同志会、それから発展する形で、インドシナ共産党が結成します。指導者はホー=チ=ミンです。労働者や農民に支持を集め、フランスの支配から脱却しようと目指していました。

 

ビルマ(ミャンマー)

 第一次大戦後、ビルマは当時、イギリスの支配を受けており、イギリス領インド帝国に組み込まれていました。そこで出来た政党をタキン党といいます。ビルマの即時完全独立を目指し、指導者は、アウン=サンでした。彼の娘がアウン=サン=スーチーです。

 

 

略図

○インド

イギリス領インド帝国

↓  インド国民会議

↓ ベンガル分割令

↓ カルカッタ大会

↓ インド統治法

↓ ローラット法

↓ 新インド統治法

 

○フィリピン

ホセ=リサール

アギナルド

 

○フランス領インドシナ

 ファン=ボイ=チャウ

↓ 維新会

ホ=チ=ミン

↓ インドシナ共産党

 

○オランダ領東インドシナ

サレカット=イルラーム

インドネシア共産党

インドネシア国民党

 

○タイ

ラタナコーシン朝

↓ タイ立憲革命

 

○イギリス領ビルマ

タキン党

アウン=サン