【教養のための世界史】第二次世界大戦

今日は第二次世界大戦です。もう起こってほしくないですね。

世界史チャレンジ。大学受験や教養、旅行の前になど。毎日少しずつ知っていこう。

 

 

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青い文字をクリックすると関連した画像検索や記事に飛びます。絵や写真だったり、続きの話、前の話です。気になったらさっと見てみましょう。

 

暴走

 当時のヒトラーはスペイン内戦が終わるとドイツ人地域への進出を強めます。それは、他の国々が防共に期待をして、ドイツに何をやっても怒られないからです。そこで、同じゲルマン民族が住んでるという理由でオーストリアを併合しました。これはヴェルサイユ条約やサンジェルマン条約で禁止事項として書かれていたのに関わらず行ったのです。

 

 ドイツはさらに、ズデーテン地方の割譲を要求しました。チェコスロヴァキアは拒否します。このため、ミュンヘン会談が行われます。イギリスの首相はネヴィル=チェンバレン、フランスはダラディエ、ドイツのヒトラー、イタリアのムッソリーニが参加しました。ソ連だけでなく、チェコスロヴァキアも未招集でした。

 

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 イギリスやフランスは宥和政策を取り、ヒトラーの要求を受諾しました。ドイツはズデーテン地方の併合に成功しました。

 

 この直後、チェコスロヴァキアを解体します。さらにヒトラーポーランドに対して、ダンツィヒポーランド回廊の割譲を要求しました。ポーランドはイギリス、フランスの支援を期待して拒否します。

 

 防共を掲げたドイツがポーランドに侵攻するとソ連が警戒します。そこでヒトラーは、ソ連を利用しようとしました。独ソ不可侵条約を締結したのです。ドイツはフランスとロシアの両面戦争の回避、ソ連はイギリス、フランスへの不信感から利害は一致した結果です。これに世界に激震が走りました。

 

 ついにドイツは1939年9月1日、ポーランドへ侵攻します。これをもって第二次世界大戦が開始します。このときに、強制収容所アウシュヴィッツに建設しました。

 

 ポーランドに入った後、デンマークノルウェー、オランダ、ベルギーに侵入しました。基本的にドイツの戦い方は、電撃戦とよばれる戦い方で、空軍を使って首都までの道を爆撃します。そして、兵隊たちをトラックにつめて一気に都まで運ぶのです。都を占領すれば、国の機能は停止するので、国を占領するのは簡単になります。

 

 この場所を攻めたのには理由がありました。これによりドイツの壁ができており、イギリスは動けなくなったのです。そして、徐々にフランスに攻めて行きました。

 

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 ついに、イギリスでは、弱腰な首相に変わってチャーチル挙国一致内閣が成立しました。しかし、ドイツは強く、イギリスもフランスも劣勢に立たされます。これをみたイタリアが参戦しました。

 

 そして、フランスの首都パリが占領され、無抵抗な状態で降伏することになります。ドイツは、ヴィシー政府を樹立しました。これは、ドイツに作られた操り政権で、首班はペタンです。

 

 しかし、軍人のドゴールがこれに抵抗を見せました。彼はロンドンに逃げて、自由フランス政府を発足させるます。そして、フランスの民衆に、ドイツへの抵抗運動を呼びかけました。このような動きをレジスタンス運動といいます。

 

 フランスは負けてしまったので、残るはイギリスです。このイギリスにアメリカが支援しました。それは、ファシズムがヨーロッパを制圧することを警戒したからです。アメリカは、武器貸与法を制定し、孤立したイギリスに軍事的な支援を行いました。これにより、ドイツの進撃を食い止めることに成功したのです。

 

ソ連の動き

 独ソ不可侵条約を結んだソ連はドイツと同じように、ポーランドに攻めて行きました。その後、バルト3国に侵攻し、併合します。さらに、フィンランドに攻め込みました。ソ連=フィンランド戦争です。

 

 フィンランドは、国際連盟に呼びかけました。すると国際連盟は、ソ連を除名処分にしたのです。しかし、除名しただけで、止めることはできませんでした。

 

戦局

 ドイツは、イギリスを攻めますが、アメリカの支援を受けているのでなかなか倒せません。そこで、ドイツは攻める場所を変えました。バルカン半島へ標的を変えます。

 

  そして、ユーゴスラヴィアギリシアを占領しました。しかし、ユーゴスラヴィアでは、共産主義者ティトーがドイツの支配に対してパルチザン闘争を展開します。パルチザン闘争とは、ゲリラ戦のことです。

 

 このドイツのバルカン制圧に、ソ連が反発しました。ソ連バルカン半島を狙っていたからです。ドイツとソ連の関係は悪化し、戦争がいつ起こってもおかしくない状態でした。

 

 そこでソ連はいざというときに備えて、日ソ中立条約を締結しました。日本とソ連はお互い中立を保つものです。これによりドイツと日本で挟まれるのを防ぎました。

 

 いよいよ独ソ不可侵条約が破棄され、独ソ戦が始まります。ドイツは電撃作戦を決行し、当初はドイツが有利でした。

 

 しかし、ヨーロッパ国々は、これを利用して、ドイツを倒せるのではないかと思いました。そこで、首脳たちは、話し合いました。大西洋上会談(米英首脳会議)です。アメリカは、フランクリン=ローズベルト、イギリスはチャーチルでした。そして、戦後の国際秩序について話し合い、大西洋憲章を発表しました。

 

 この会談が行われている時期に、ドイツとイタリアがアメリカに宣戦布告を行います。ついに、アメリカを巻き込む大きな戦争になりました。

 

 アメリカの参戦で、イタリアとドイツは苦戦を強いられていきます。アメリカ、イギリスなどの連合軍が北アフリカに上陸し、基地を設け、ヨーロッパを攻める拠点にしました。

 

 そして、スターリングラートの戦いで、ドイツ対ソ連は、ソ連の勝利に終わります。ドイツの主力軍が敗れたことにより、連合軍は攻め込みにいきました。イチリア島に上陸し、攻め込みます。ムッソリーニは失脚し、イタリアに出来た新しい政府が無条件降伏しました。

 

 この後、テヘラン会議が行われました。アメリカのフランクリン=ローズヴェルト、イギリスのチャーチルソ連スターリンが対ドイツ戦の基本方針を話し合います。方針が固まり、いよいよドイツを倒すために動きました。

 

 ソ連軍は東欧に侵攻します。ドイツに占領されていた東欧を次々と解放していきました。そして、アメリカ、イギリスの連合軍は、パリを解放するために、北フランスのノルマンディーに上陸を開始します。最高司令官はアイゼンハワーです。

 

 パリの解放に成功し、 ドイツ軍は撤退を開始しました。この後、ヤルタ会談アメリカ、イギリス、ソ連で行われます。対ドイツ戦後の処理を話し合い、ヤルタ協定としてまとめられました。

 

 連合軍はドイツに大空襲を行い、軍隊が迫ります。ヒトラーは自殺し、ベルリンは陥落してしまいました。これにより、ドイツは無条件降伏をしました。ヨーロッパの戦いは終結したのです。

 

日本

 第一次世界大戦後、ワシントン体制によって、日本の中国進出に歯止めがかかってしまいました。さらに、日本は、世界恐慌よりも前に金融恐慌を向かえています。また、欧米諸国のブロック経済も重なり日本はピンチになっていきました。

 

 そんな中、日本も植民地を獲得するべきだという意見が出てきました。そのため、日本の軍部が徐々に発言権を持つようになっていきます。日本は、韓国を併合していますので、その北部になる中国東北部を狙って動いていきました。

 

 まず、柳条湖事件です。中国の遼東半島付近にいる日本の関東軍南満州鉄道を自ら爆破しました。そして、関東軍はこれを中国側の仕業であるとしました。このようにして日本の軍隊は、中国東北地方に侵略を開始していきます。この一連の出来事を満州事変といいます。

 

 日本はまた海外勢力から中国侵略に対する圧力があったら困るので、わざと満州から遠い地域で大きな軍事衝突を起こしました。それが上海事変です。日本人夫妻殺害を口実に、日本海軍が向かい、ここで中国と軍事衝突を起こしました。

 

 ヨーロッパの国々は上海へ駆けつけます。そこで、ここに注目している間に、日本の軍は、満州の進出を成功させました。それが満州国の建国です。初代執政の地位には、溥儀が就任しました。清の最後の皇帝である宣統帝です。

 

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 この建国と受けて欧米諸国は怒ります。そこで国際連盟を使って、柳条湖事件は本当に中国の仕業なのか調査に入りました。そして、リットン調査団は、満州事変は日本の軍事侵略行為であり、南満州鉄道が爆破されたのも日本の自作自演であると報告します。これにより、日本は国際連盟を脱退してしまいました。これにより、日本は国際的な孤立を深めていきます。

 

 日本の軍部が力をつけてくると日本の政治にも大きな影響を与えることになります。それが五・一五事件です。軍部によって、犬養毅首相が暗殺されてしまいました。さらに、ニ・ニ六事件では、陸軍の急進将校らが重臣・官僚などを暗殺してしまいます。これにより、日本の政治は軍部によって、掌握されてしまいました。日本の軍国主義化が進んでいきます。

 

中国

 当時中国は、国民党の蒋介石共産党を潰すのに必死でした。そのため、共産党は、国民党の攻撃を受けて、大移動を行います。本拠地を瑞金から延安へ移しました。12500kmも離れたところへ移動したので、長征といいます。

 

 この長征の間、共産党は、八・一宣言を発表しました。国民党に対して内戦の停止と抗日民族統一戦線の結成を訴えました。日本と戦うために協力すべきということです。日本は満州国を建設しているのに、共産党を潰すのに必死でした。そのために、発表したのです。しかし、蒋介石は耳を貸しませんでした。

 

 そんな中起こったのが、西安事件です。蒋介石の部下になっていた張学良が武力で蒋介石を軟禁しました。張学良は蒋介石に日本と戦うことを説得することに成功します。

 

 そしていよいよ日本と中国がぶつかりました。盧溝橋事件です。北京郊外の盧溝橋で日本と中国の軍が対峙し軍事衝突が発生しました。これにより日中戦争が始まります。そこで、第2回国共合作が成立しました。

 

 日本は南京を占領します。そして、南京事件が起こりました。教科書によっては書かれている内容が違いますが、多くの日本軍が市民を虐殺したといわれています。

 

 日本は中国各地へと侵略していきます。中国は劣勢に立たされました。蒋介石は逃げて、山奥に逃げ延びます。国民政府は重慶へと遷都しました。重慶政府です。一方の日本は、南京に日本のあやつり政府を作りました。南京国民政府を樹立し、指導者は汪兆銘です。

 

アジア・太平洋

 日本は、中国の重要都市を次々と制圧していきます。しかし、東南アジアを支配している欧米諸国が、中国に支援を行っていました。そのため、なかなか重慶が陥落しません。

 

 これに対し、日本は大東亜共栄圏というスローガンを発表しました。これは、欧米諸国による植民地支配から解放し、日本を盟主とする東アジアの新しい秩序を形成しようという構想です。これで、日本は自身の中国、東南アジアへの進出を正当化しました。

 

 日本は蒋介石を支援している東南アジアを押さえようと、北部フランス領インドシナへと軍隊を進めました。ドイツの侵攻によって、フランスが降伏したので、簡単に落とせると思ったのです。

 

 さらに、日本は日独伊軍事同盟を結びました。これを同じくして、日米交渉も行われていました。アメリカとの衝突を避けたかった日本は交渉を試みますが、アメリカ側は日本側の要求を一切飲みません。

 

 日本は、アメリカにプレッシャーをかけるために、日ソ中立条約を締結させました。そして、南部フランス領インドシナへ軍を進めて、完全にインドシナ半島を日本の領土に組み込んだのです。

 

 しかし、この行動にアメリカは猛反発し、対日石油禁輸策をとりました。このとき作られた対日包囲網のことをABCDラインといいます。Aはアメリカ、Bはイギリス、Cは中国、Dはオランダのことです。日本は石油が取れませんので、石油などの資源が取れる東南アジアにさらに進出することになりました。

 

 アメリカとの交渉は決裂し、武力衝突は避けられません。そのため、日本は、アメリカ領のハワイに飛行機を飛ばして、襲撃を行います。これが真珠湾奇襲です。1941年12月8日のことです。日本の宣戦布告が送れてしまったため、奇襲ということになりました。

 

 この真珠湾奇襲をきっかけに、太平洋戦争がはじまります。そして、ドイツをイタリアはアメリカに対して宣戦布告を行いました。これで、連合国対枢軸国の形になったのです。

 

 連合国は、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中国などの反ファシズム諸国。

 

 枢軸国は、日本、ドイツ、イタリアなどのファシズム国のことです。

 

 日本は、アメリカと戦うために石油などの資源を探しに、東南アジアへ進出していきました。まずは、フィリピンを占領します。その後、マレー、シンガポール、ジャワ、スマトラビルマを占領していきました。

 

 大東亜共栄圏を掲げていましたが、実際は、戦争につかう労働力を現地で補ったりしていたため、日本への不満が高まっていったのです。

 

 とくに朝鮮半島で見られた日本の植民地支配は、皇民化政策と呼ばれます。日中戦争が始まって以降この政策が進められました。これは日本人にする政策です。神社の参拝、日本語の強制、日本風の名前にする創氏改名などを実施したのです。さらに、太平洋戦争が始まって、物資が不足していくと、朝鮮人の強制連行があったといわれています。

 

 この日本の支配に対し、抵抗運動が起こりました。朝鮮では、金日成(キムイルソン)が抵日運動を行いました。東南アジアでは、ホーチミンが指導者となり、ベトナム独立同盟(ベトミン)が結成されます。ビルマでは、アウン=サンが抗日運動を行いました。このように抵抗運動が発生すると、日本は徐々に戦争を続けるのが難しくなっていきました。

 

 ミッドウェー海戦では、日本がアメリカに負けました。ここで主力の軍を失った日本は劣勢になりました。

 

 アメリカとの戦いを考える際に一番意識するのは、直接アメリカまで行くことはできないので、太平洋の島を押さえることです。しかし、ガダルカナル島を獲得できずに、撤退を余儀なくされました。そして、日本は徐々に追い込まれていったのです。

 

 この劣勢を受けて、カイロ会談が開催されました。アメリカ、イギリス、中国の首脳が集まります。ここでは、対日本戦の基本方針と日本の戦後処理について町議され、カイロ宣言が発表されました。

 

 その後、アメリカ軍は、日本本土を空襲し、沖縄本島に上陸しました。さらに日本は追い込まれていきます。そこでポツダム会談が行われました。アメリカのトルーマン、イギリスのチャーチルソ連スターリンが集まります。チャーチルは途中でアトリーに代わります。

 

 戦後のドイツ、日本の処理を協議しました。そして、日本に対し、無条件で降伏するポツダム宣言が採択されます。

 

 実は、ヤルタ会談では、アメリカのローズヴェルトスターリンによって、密約が結ばれていました。ドイツが降伏して3ヶ月たっても日本が降伏しなければ、ソ連が日本に宣戦するというものです。

 

 これを知ったトルーマンは焦りました。戦後の日本はアメリカ単体で占領したいと思っており、ソ連が参戦したら社会主義の影響を受けるかもしれないと考えたからです。

 

 ドイツが降伏したのが、5月7日なので、8月7日以降にソ連が攻撃を開始します。しかし、日本はまだ降伏しませんでした。焦ったアメリカは、ついに、8月6日に広島に原爆を投下します。人類史上初の原爆投下で、しかも無警告で行われました。

 

 それでも日本は降伏しません。そこで、ソ連が対日宣戦を行います。慌てたアメリカは翌日に、長崎に原爆を投下しました。これ以上戦争は続けられないと判断した日本は、無条件降伏を受け入れます。ここで第二次世界大戦終結しました。

 

 略図

 オーストリア併合

ミュンヘン会談

独ソ不可侵条約

ボーランド侵攻

第二次世界大戦

太平洋戦争

 

ヤルタ会談

ポツダム会談

 

という流れですね。