【教養のための世界史】第二次世界大戦後の中東

今日は、第二次世界大戦後の中東です。ここらへんは、ニュースを見ても役に立つ歴史の流れですね。

世界史チャレンジ。大学受験や教養、旅行の前になど。毎日少しずつ知っていこう。

 

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青い文字をクリックすると関連した画像検索や記事に飛びます。絵や写真だったり、続きの話、前の話です。気になったらさっと見てみましょう。

 

パレスチナ

 パレスチナ第一次世界大戦後、イギリスの委任統治下に置かれました。その間のパレスチナには、もともと住んでいたアラブ人だけでなく、ユダヤ人たちが多くパレスチナにやってきました。そして、イスラーム教徒とユダヤ教徒が共存する地域に変わっていきました。

 

 第二次世界大戦後、イギリスはパレスチナ委任統治を放棄します。そして、パレスチナにおけるアラブ人の国作りを応援するために、アラブ諸国連盟が結成されました。アラブ諸国民の主権の擁護と相互協力の促進を目的に作られた組織です。

 

 しかし、ユダヤ人も住んでいることを考えなければいけません。そこ、国際連合パレスチナ分割案を可決しました。これは、アラブ人とユダヤ人を分割して住まわせる案です。しかし、アラブ人の方が人口が多いにも関わらず、半分にされました。これに不満が募ります。

 

 ユダヤ人はイスラエルを建国しました。しかし、これにアラブ諸国連盟が戦いを挑みます。これを第1次中東戦争といいます。イスラエルには、アメリカが付きました。結果、イスラエルが勝利し、領土を拡大しました。そのため、追い出されたアラブ人たちはパレスチナ難民となってしまいました。100万人もいるといわれています。

 

 エジプトのナセル大統領がスエズ運河の国有化を宣言しました。これに対して、イスラエル、イギリス、フランスが出兵を行います。これを第2次中東戦争といいます。しかし、これに国連が即時停戦を決議しました。結果、停戦になります。領土の変更はありません。ナセル大統領はアラブ人から評価が上がりました。

 

 第二次中東戦争後、イスラエルはアラブ人国家と敵対を続けていきます。そのため、イスラエル難民が増え続けていきました。その難民たちを助けるために出来た組織をパレスチナ解放機構(PLO)といいます。アラファト議長が中心となりました。

 

 そんな中、イスラエルが、エジプト、シリア、ヨルダンに先制攻撃をしかけます。これが第3次中東戦争です。これにより、シナイ半島ガザ地区ゴラン高原ヨルダン川西岸を軍事占領しました。

 

 これに対抗して、アラブ人はアラブ石油輸出国機構OAPECを結成します。石油が取れるアラブ人国家が集まってできた組織です。そして、OAPECを作ったアラブ諸国は、イスラエルに対して、専制攻撃を仕掛けました。イスラエルは反撃します。

 

 すると、アラブ産油国石油戦略を発動しました。これが第4次中東戦争です。石油戦略とは、OAPECイスラエルと仲の良い国に対して石油の輸出を停止し、OPECがもともとの石油価格を引きあがていきました。これにより石油が届かなくなっていきました。この結果、第1次石油危機が発生しました。このように石油を使って、自分たちの強さを全世界にアピールしたというわけです。

 

 これ以上戦争は続けられないと判断したエジプトは、中東和平合意に向けて動きはじめました。仲介役となったのは、アメリカのカーター大統領です。そして、イスラエル首相ベギンとエジプト大統領サダトエジプト=イスラエル和平条約を締結しました。これで、エジプトがアラブ諸国の中で始めてイスラエルを公式に承認し、イスラエルは、イジプトにシナイ半島を返還する約束をします。

 

 この動きをアラブの他の諸国が批判しました。最終的にサダトは暗殺されてしまいます。

 

 1980年代は、イナイ半島が返還されました。エジプトとイスラエルの関係が良くなると思いきや、イスラエルレバノンへ侵攻を開始します。パレスチナ解放機構(PLO)の本部を攻撃するためです。これに対して、インティファーダを開始しました。パレスチナ人の大衆的抵抗運動です。これは国際世論を動かしていきます。

 

 その後、パレスチナ暫定自治協定が締結されました。アメリカのクリントン大統領を仲介し、イスラエル首相ラビンPLO議長アラファトとの間で締結したのです。また、ノルウェーの仲介もあったので、オスロ合意とも呼ばれました。

 

 パレスチナ暫定自治政府が成立し、ガザ地区などで自治が始まりました。しかし、ラビンは暗殺されてしまいます。アラブ人に歩み寄ったラビンを国内の強硬派が暗殺しました。この後、和平に消極的になっていきます。アラファトも死去しました。

 

 ガザ地区は、イスラエルシャロン首相によって、巨大な壁が作られてしまいます。これにより、アラブ人が住む地域が隔離されてしまいました。

 

イラン

 イランは第二次世界大戦が始まる前は独立国としての地位を維持していました。当時のパフレヴィー朝は、生き残るために、親米、親英な王朝だったのです。アメリカやイギリスはこのパフレヴィー朝を通じて石油を安く手に入れていました。

 

 しかし、大戦後、モサデグは石油の国有化を宣言します。イランで取れる資源を守る資源ナショナリズムを主張したのです。そして、イギリスの石油会社の施設を接収するなど国有化を進めました。

 

 これにアメリカとイギリスはプレッシャーをかけていきます。最終的に、国王派のクーデターで失脚してしまいました。

 

 彼が失脚した後は、国王パフレヴィー2世が中心となって上からの近代化を進めます。ただし、このときにアメリカやイギリスの支援を受けました。近代化は成功しますが、貧富の差は広がってしまいました。

 

 外交では、バグダード条約機構(中東条約機構、METO)、中央条約機構(CENTO)に加盟しました。CENTOは、途中でイラクが抜けたことによって、METOが新しく代わったものです。

 

 貧富の差が拡大を打破しようと起こったのが、イラン=イスラーム革命です。シーア派ホメイニが指導しました。シーア派は少数派のグループです。しかし、イランはシーア派が多い地域でした。彼は、イスラーム原理主義を掲げます。これは、イスーラムの教えに則って政治や外交を行うべきだとする考え方です。

 

 彼は、パフレヴィー2世を追放し、王様のいない共和国、イラン=イスラーム共和国が成立しました。そして、今までの外交路線を変え、反米、反英になっていきます。

 

 さらに、産油量の大幅削減を行いました。そのため、第2次石油危機が起こります。この後、アメリカとイランは国交断絶状態になり、険悪な関係になっていきました。

 

イラク

 

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 第二次大戦後のイラクは王政でしたが、イラク革命が起き、王政が廃止されました。そして、イラクを取りまとめたのが、サダム=フセイン大統領です。彼は独裁政治で、民衆を恐怖で押さえつけました。

 

 それには理由がありました。イラクには、シーア派スンナ派、アラブ人ではないその他の民族が住んでいます。色んな宗派、民族が混在するイラクでは、選挙をしていてはまとまらないと思ったのです。そのため、力で押さえつけて、3者のバランスを取ろうとしていました。

 

 しかし、彼が大統領に就任した年に、隣のイランで革命が起きました。指導者はシーア派のホメイニです。イラクにもシーア派がおり、その人たちがイラン革命に刺激を受けて、国内で暴れるかもしれないと彼は考えました。

 

 そこで、イラン=イラク戦争という形で、イランに軍事侵攻を行いました。イランと敵対していたアメリカがイラクに武器を支援します。しかし、この戦争は長期間にわたったため、イラクは財政難に悩まされました。結果、国連の仲介を経て、戦争は終結しました。

 

 財政を回復させるため、彼はクウェートに侵攻します。クウェートは石油が取れる地域だからです。彼は、クウェートはもともとイラクのものと主張し、侵攻していったのです。

 

 クウェートは救済を求めました。するとアメリカを中心とするヨーロッパの国々は多国籍軍を作り、イラク空爆を開始したのです。これが湾岸戦争です。これで、サダム=フセインは敗れてしまいました。

 

 ブッシュ(子)は、イラク戦争を起こします。サダム=フセイン大量破壊兵器を持っていると主張して行った戦争でした。これによりフセイン政権は崩壊し、しばらくは、米軍が駐留し、民主政治をもたらそうとしました。しかし、逆にまとまらなくなってしまい、情勢は不安定になっていったのです。

 

アフガニスタン

 1979年に、ソ連アフガニスタンに軍事侵攻を行いました。これは、アフガニスタンに出来た社会主義政権を守るために行ったものです。これにアメリカは反発し、国内は内戦状態になっていきました。

 

 1988年には、アフガニスタンからソ連軍が撤退します。その後、勢力をもったのが、イスラーム武装勢力ターリバーンでした。

 

 2001年に、 アメリカでは、同時多発テロが起こりました。この主犯をアル=カーイダと断定し、かくまっているアフガニスタンに、アメリカは攻撃をしかけました。そして、ターリバーン政権を崩壊させます。

 

エジプト

 1952年、自由将校団によって、エジプト革命が起きました。これにより、国王が追放され、王様のいない共和政になりました。エジプト共和国が成立します。

 

 ナセルが大統領に就任しました。彼は、非同盟主義を貫きます。そして、エジプトを近代化させるために、アスワン=ハイダムを建設しようとしました。しかし、資金がないため、アメリカ、イギリスの融資を取り付けましたが、非同盟主義なので白紙になってしまいます。

 

 そこで、お金を稼ぐために、スエズ運河を国有化しました。これをきっかけに、イギリス、フランス、イスラエルが軍事侵攻します。これがスエズ戦争(第2次中東戦争)です。

 

 国際連合の仲介もあり、イギリス、フランス、イスラエルは撤退しました。ナセルは最後まで戦い抜き、スエズ運河の国有化に成功したのです。そのため、アラブ民族主義の中心的な存在になりました。

 

 略図

 パレスチナ分割案

第一次中東戦争

スエズ運河国有化

第二次中東戦争

パレスチナ解放機構

第三次中東戦争

第四次中東戦争

エジプト=イスラエル平和条約

オスロ合意