【教養のための世界史】第二次世界大戦後の中国・朝鮮

今日は、第二次世界大戦後の中国・朝鮮です。世界大戦の後が長い。

 世界史チャレンジ。大学受験や教養、旅行の前になど。毎日少しずつ知っていこう。

 

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中国

 第二次世界大戦中、国民党も共産党も力を合わせていました。ところが日本の敗戦を受け、戦後の中国の指導権をめぐって、また、国民党と共産党が対立を深めていきました。

 

 戦後の中国は、毛沢東が指導者の中国共産党蒋介石が指導者の中国国民党が争います。それを国共内戦といいます。

 

 毛沢東第二次世界大戦中、地主の土地所有を廃止すると宣言しました。地主の土地は、農民に分配されるので、農民からの支持が拡大していったのです。中国は農民の数が非常に多いので、国民党を圧倒する勢力になっていきました。

 

 そして、ついに、国民党は国共内戦に敗れ、中華民国政府台湾に移しました。戦後の中国は共産党毛沢東が勝利したのです。

 

 勝った毛沢東は、中華人民共和国を成立させ、首都は北京に置きました。国家主席毛沢東、首相は周恩来が就任しました。

 

 そして、同じ社会主義の国のソ連と手を結びます。中ソ友好同盟相互援助条約を締結させました。

 

 毛沢東は、軍事同盟を結ぶだけでなく、国内改革も行っていきます。まず、中華人民共和国を世界にアピールしたのです。そして、ソ連、東欧、インドに承認されました。

 

 そして、彼は土地改革を実施します。大地主から土地を没収し、農民に分配しました。その後、第1次五ヵ年計画を実施します。ソ連が行った計画経済をマネしました。重工業の優先、農業の集団化を行います。せっかく土地を手に入れた農民はこの五ヵ年計画のもとでひとまとまりになってしまいました。

 

 中ソ友好同盟相互援助条約を結びましたが、ソ連の関係が悪化していきました。それは、中ソ論争が起こったからです。スターリンが死んで、フルシチョフ書記長が就任します。フルシチョフの平和共存政策によるアメリカとの接近に対し、中国が反発しました。キューバ危機以降は公開論争へと発展していきます。名指して文句を言う形になったということです。

 

 さらに、毛沢東は領土拡張のため、チベット反乱を引き起こします。当時、チベット仏教僧侶を中心とした中国から自立を求める反乱を起こしました。チベットは20世紀になって、辛亥革命が起こるころ、独立を勝ち取っていた国でした。そのチベット毛沢東が併合しました。

 

 しかし、中国の人民解放軍により鎮圧されてしまい、チベットリーダーである、ダライ=ラマ14世はインドへ亡命します。これを巡って、中印国境紛争が起こりました。結果、中国の勝利で終わります。

 

 外交面では、ソ連とインドとの関係が悪化していきました。国内では、大躍進という政策を行います。第2次五ヵ年計画ともいいます。工業・農業の急速な発展を目指し、大躍進をスローガンに掲げて、改革を行いました。その時に設立したのが、人民公社です。農村部における生産活動と行政・教育活動などを一体化するものです。さまざまなものをすべて農村部でやるということです。

 

 そのため、農民は疲弊していきます。早くからこの大躍進はうまくいかない雰囲気が漂ってきました。さらに、中ソ技術協定に破棄されてしまいました。また、大規模な自然災害が発生してしまいます。これらにより、大躍進は大失敗しました。餓死者数が3000万人とも言われています。

  

 毛沢東の後任は、劉少奇(りゅうしょうき)です。補佐は鄧小平(とうしょうへい)です。彼らは大躍進の失敗した中国を立て直すために、資本主義経済の仕組みを導入します。これにより、農業生産力が徐々に回復しました。

 

 この後、再び毛沢東が復活します。この復活にあたって運動をする期間をプロレタリア文化大革命といいます。復活にあたって、まず実権派を一掃しました。劉少奇や鄧小平などを「資本主義復活をはかる者」として批判したのです。

 

 そして、この毛沢東の考え方に影響を受けたのが紅衛兵です。彼らは若い学生を中心に組織されたグループで、全国各地で激しい闘争を行いました。

 

 また、毛沢東の権威を利用して権力を掌握する四人組を呼ばれる人物が横暴していきました。その中には、毛沢東の妻の江青(こうせい)もいました。

 

 この期間、外交面で大きな変化がありました。中ソ国境紛争が起こります。ウスリー川に位置する島をめぐって軍事衝突が起こってしまったのです。

 

 ソ連と対立していたアメリカは、中国に歩み寄りを見せました。総会の代表権を台湾から中華人民共和国に渡したのです。さらに、ニクソンは訪中し、中国を事実上承認しました。このときに、親米な日本も中国を訪れ、日中国交正常化したのです。田中角栄内閣のときです。

 

 プロレタリア文化大革命の時期は、経済的にも、文化的にも停滞しました。毛沢東の意に反することすれば批判されてしまい、経済活動も自由にできない状態でした。

 

 しかし、周恩来毛沢東が死んで転機が訪れました。彼の後には、華国峰が就任し、四人組を逮捕します。そして、プロレタリア文化大革命の収束を宣言しました。

 

 彼は、新しい中国を作るために、四つの現代化を進めていきます。農業、工業、国防、科学技術の近代化を目指すものです。これを推進したのは、鄧小平でした。さらに、鄧小平は、1978年以降、改革・開放政策を行いました。

 

 それ以外にもさまざまな経済改革が行われていきました。人民公社を解体し、農村部に生産責任制を導入します。これは各農家に生産したものの責任を与えるものです。資本主義経済の仕組みを取り入れました。

 

 政治的には、共産党一党独裁を維持しながら、経済的には資本主義の仕組みを導入することを社会主義市場経済といいます。そして、彼は、経済特区を指定し、外国の企業を誘致する場所を作りました。

 

 このように、経済が自由になると政治も自由にしてほしいと要求する動きが高まっていきました。ところが、鄧小平は、この自由化を求める動きを軍隊を使って弾圧します。それが天安門事件です。国際放送でも世界に同時発信したので、世界に衝撃を与えました。

 

 1997年に鄧小平が死去し、江沢民の時代になりました。彼の時代には、香港がイギリスから返還され、マカオポルトガルから返還されました。

 

台湾

 国共内戦で、毛東沢に敗れた蒋介石は、台湾に逃げます。台湾に逃げた後も、リーダーを務めました。そしてこの蒋介石の時代には、反共産主義、親米な外交を展開していきます。

 

 そのため、日華平和条約、米華相互防衛条約を締結しました。しかし、途中で、アメリカは、国連の代表権を中華人民共和国に渡してしまいます。そして、蒋介石が死んだ後、彼の子どもがリーダーの地位を継ぎました。

 

 その後、李登輝が総統の地位に就きます。この時代に民主化が進展しました。同時に、中国本土との対立が深まりました。

 

朝鮮半島

 第二次世界大戦前、朝鮮半島は日本領土でした。しかし、日本は敗戦したため、朝鮮半島から撤退します。

 

 その後、なんとアメリカとソ連に分割占領されてしまいました。朝鮮半島の下がアメリカ、上がソ連です。このときの境界線になったのが、北緯38度線です。

 

 これを境に下で、大韓民国(韓国)が成立し、上で朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が成立しました。韓国は、首都をソウルに置き、初代大統領は李承晩です。一方、北朝鮮は、首都をピョンヤンに置き、初代大統領は、金日成です。

 

 このように、アメリカとソ連の対立はヨーロッパのみならず、アジアにも波及しました。

 

 この2つの国は、1950年に朝鮮戦争を起こします。北朝鮮が韓国に軍事侵攻を行いました。そして、首都ソウルを占領します。この状況を見て、アメリカは、国連軍の出動を決定しました。

 

  この国連軍は、安保理の承認を経て出されるべきものです。しかし、当時ソ連はこの会議をボイコットしていました。5大国に一致がないといけませんが、アメリカは無理矢理決定しました。そのためアメリカ軍主体です。

 

 国連軍は、北朝鮮軍を中国国境まで追い込みます。形勢は逆転し、もう少しで征服することができました。しかし、中華人民共和国北朝鮮人民義勇軍を派遣します。アメリカとの衝突を避けるために、解放軍ではなく、義勇軍という名前でした。

 

 最終的に戦争はこう着状態になります。そのため、朝鮮休戦協定が結ばれ、暫定的な軍事境界線として、北緯38度線が取り決められました。このようにアジアでは、アメリカとソ連の代理戦争とも呼ばれる朝鮮戦争が起こりました。いまだ終戦はしていません。

 

日本

  日本にとって朝鮮戦争は大きな意味を持っています。このとき、米軍の必需品を日本が生産し、輸出したことから特需と呼ばれる経済復興を果たしました。

 

 さらにこの後、日ソ国交回復に成功し、国際連盟の加盟を実現しました。ちょうど雪解けのタイミングで、常任理事国ソ連と関係が良くなったことで実現したのです。これで日本は国際社会に復帰しました。

 

 1950年代以降は、高度経済成長期で、日本の国内総生産が常にプラスになっていく時期でした。このころから日本は「もはや戦後ではない」といわれるようになり、先進国の仲間入りを果たすべく、急激な経済成長を遂げていくことになります。

 

 しかし、日本は経済復興してもなお、アメリカよりの外交に変化はありませんでした。

 

大韓民国

  1960年代、朴正熙(ぼくせいき)は韓国軍部クーデターで実権を掌握しました。彼は、開発独裁を行います。戦後の復興のために、強力な権力を使って政治をしていったのです。また、親米路線を展開していたので、アメリカの支援も受けていました。

 

 この時期に、日韓基本条約が締結し、日本と韓国の国交が正常化されます。ベトナム戦争で韓国を支援している余裕がないことから、アメリカは日本から支援するようにしたのです。合計で5億ドルが渡されました。

 

 この後、朴正熙は暗殺されてしまい、韓国の独裁は収束していきます。彼の後は、盧泰愚(ろたいぐ)が大統領になりました。彼は初の平和的な政権交代を実現します。そして、民主化を宣言しました。実際に、南北朝鮮で、国連同時加盟を果たします。

 

 彼の民主化宣言に基づいて、民主政治が進んでいきました。たとえば、金泳三は初の文民政権です。文民とは軍人でない人のことです。しかし、彼は、アジア通貨危機に直面してしまいました。韓国・インドネシアなどに広がった通貨下落で、財政破綻寸前でした。

 

 彼の後、民主化運動の指導者であった金大中です。彼は、太陽政策を掲げました。北風と太陽の太陽のことです。そのため、対北朝鮮友好政策を展開し、2000年には、南北両朝鮮首脳会談金日成と会談しました。

 

 

 

略図

○中国

中華人民共和国

↓ 毛沢東 / 周恩来

第一次五ヵ年計画

第二次五ヵ年計画

プロレタリア文化大革命

 

大韓民国

↓ 李承晩

↓    朴正熙

光州事件

金大中

 

朝鮮民主主義人民共和国

↓ 金日成

↓ 金正日