【教養のための世界史】 ローマ=カトリック教会の発展

今日はローマ=カトリック教会の発展です。

世界史チャレンジ。大学受験や教養、旅行の前になど。毎日少しずつ知っていこう。

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あらすじ

 ゲルマン人の侵入により、ローマ教会は取り残されてしまいました。しかし、民衆以外にゲルマン人に布教することで勢力を拡大していきます。すると、布教に関する方法で東ローマ教会と対立するようになりました。

  

 新しい後ろ盾(フランク王国神聖ローマ帝国)を見つけたローマ教会でしたが、しだいに皇帝と争うようになります。最終的にはローマ教皇の力が強くなり、「教皇は太陽であり、皇帝は月である」といわれるまでになりました。


地図

 まずは今日やる地域を地図で確認しましょう。赤で囲まれた箇所が今日の舞台です。

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ローマ=カトリック教会

 395年にローマ帝国は東西に分裂します。西ローマ帝国(395~476)、東ローマ帝国(395~1453)に分かれました。どちらも民衆に教えを与える(布教)のが教会の役割でした。西ローマ帝国では、都のローマ東ローマ帝国では、都のコンスタンティノープルが役割を担います。そして、緊急事態の時には、それぞれの皇帝が教会を守るという形をとっていました。

 

 476年、ゲルマン人が入ってきて、西ローマ帝国は消滅します(前←ゲルマン人の大移動)。そのため、ローマ教会を守る皇帝はいなくなってしまい、取り残されてしまいました。守ってもらう人がいなくなってしまったのです。

 

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 そこで、ローマ教会は首位権を主張します。ローマの教会が一番えらいということです。キリストの一番弟子のペテロはローマで死んだので、ローマにはペテロの意志が残っていると主張しました。これにより、東ローマ皇帝はローマ教会に何かあった場合に守るという形になりました。

 

 さらに、教皇グレゴリウス1世ゲルマン人への布教を行いました。主にブリタニア(現在のイギリス辺)へ行います。

 

 ベネディクトゥスモンテ=カシノ修道院を建設します。修道院は教会で働く人を育てる学校のことです。清貧・純潔・服従をテーマに「祈り、働け」を生活原則のスローガンとして聖職者の育成にあたりました。

 

 服従がテーマにあるように、従順な部下が育っていきます。そのため、ローマ教皇の力が強くなっていきました。

 

 その結果、階層制組織が完成します。教皇(法王) → 大司教 → 司教 → 司祭という順番になっていました。そして、農村部では、村落ごとにそれぞれ1つの教会が設置されるようになります。この教会を通じて、教皇の言うことが各村に浸透していきました。

 

東西対立

 ローマ教会は民衆にもゲルマン人にも布教活動を行っていました。ゲルマン人には、言葉が通じないときもあるので、聖像を用いていることがあります。

 

 そんな最中、ビザンツ皇帝レオン3世は急に聖像禁止令の発布を行います。当時、ビザンツ帝国イスラーム勢力と戦っていました。イスラーム勢力は聖像崇拝を禁止しています。そのため、聖像を使っている人々をつぶしにこようとしていました。そこで聖像禁止令を出したのです。

 

 ところが、これにローマ教会は反発します。東西教会が対立していきます。ビザンツ皇帝には頼れなくなってしまいました。そこでゲルマン人に頼ることになります。フランク王国(前←フランク王国の歴史)です。そして、フランク王国に教会を置いて、干渉していきました。ピピンの寄進やカールの戴冠です(ピピンの寄進やカールの戴冠)。

 

改革

 神聖ローマ帝国は、帝国内の教会(ローマ教会)に干渉してくるようになります(前←神聖ローマ帝国のはじまり)。そして、聖職売買や聖職者の結婚など教会の世俗化が進んでいきました。すると、ローマ教会の指示が通らなくなっていきます。これに危機感を感じたローマ教会が教会刷新運動を始めていきました。

 

 クリュニー修道院が教会刷新運動の中心になりました。ここで徹底的に教育をしたのです。ここ以外にもフランス中部のシトー修道会大開墾運動の中心的役割になりました。新しく村を作り、その村に純粋なキリスト教を広めていこうというものです。

 

 また、フランチェスコ修道会やドミニコ修道会などの托鉢修道会(たくはつ)もありました。托鉢修道会とは、財産を持たず、信者からの施しをよりどころをして清貧をつらぬいた修道会のことです。彼らは聖書を片手に街を歩いて、人々に対して聖書の読み聞かせを行いキリスト教を広めました。

 

 このように教会の改革は修道院を中心に行われていました。そして、教会を内部から建て直そうとする動きが盛んになっていきます。そこで事件が発生しました。

 

 ローマ教会が神聖ローマ帝国に警告を行います。そこで教皇グレゴリウス7世聖職叙任権教皇のものだと主張しました。しかし、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世はこれを拒否し、対立します。

 

 最終的に教皇は皇帝を破門しました。キリスト教徒ではないと言われてしまいます。当時の中世ヨーロッパはみなキリスト教だったので、皇帝の力はなくなってしまいました。そこで皇帝は折れて、教皇に謝罪します。カノッサの屈辱(1077)です。当時教皇が滞在していたカノッサ城の入り口で雪の中3日間ひざまずいて謝罪したといわれています。

 

 こうしてようやく、破門がとかれます。これで皇帝が教皇に屈服した形になりました。そして、最終的に1122年、ヴォルムス協約で叙任権は教皇が保持することが決定されます。こうして、ローマ教皇の力がどんどん強くなっていきました。

 

 ローマ教皇の力が一番強かったのは、インノケンティウス3世(1198~1216)です。彼は逆らうものを次々破門していきます。英王ジョン、フランス王、神聖ローマ皇帝などを屈服させました。

 

 また、第4回目十字軍(1204)を提唱するなど、彼の一言で軍が動かされるなど力があったことがわかります。

 

 彼は、会議の中で「教皇は太陽であり、皇帝は月である」と名言を残しました。皇帝はサブで教皇がメインということです。

 

略図

聖像禁止令

ピピンの寄進、カールの戴冠

教会改革運動

叙任権闘争

↓ カノッサの屈辱

↓ ヴォルムス協約

インノケンティウス3世

 

今日はここまで。ではまた次回!

 

 

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