【教養のための世界史】 明

今日は中国の明になります。

世界史チャレンジ。大学受験や教養、旅行の前になど。毎日少しずつ知っていこう。

 

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あらすじ

 紅巾の乱で元が滅びた後、朱元璋が明を建てます。モンゴル人の支配から漢民族の支配に返り咲きました。そのため、自分に権力を集めるために改革を行います。永楽帝の時には、領土を拡大していきます。

 

 しかし、外からの勢力の対策にお金を掛けすぎて財政が逼迫していきます。財政を再建しますが、滅亡してしまいました。

 

地図

 まずは、今日やる舞台を地図で確認しましょう。

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モンゴル人の支配から漢民族の支配に返り咲きました。紅巾の乱を率いた朱元璋は、明を建国して、洪武帝(こうぶてい)(1368~98)となりました。都は南京です。彼は自分に権力を集めるために様々な改革を実施していきます。

 

 まず、中書省丞相(じょうしょう)を廃止し、自分で決断できるようにしました。そして、六部を皇帝直属にしました。さらに、上下関係を重んじる朱子学を官学化します。また、一世一元の制はここから始まります。

 

 明律、明令を公布します。そして、倭寇への対策として海禁しました。民間の対外交易や海外渡航の全面的に禁止します。国家に監視され、その貿易はすべて朝貢貿易でした。

 

 皇帝独裁政治の完成にあたっては、人々の管理が不可欠です。そのために、土地台帳である魚燐図冊(ぎょりんずさつ)、戸籍・租税台帳である賦役黄冊(ふえきこうさつ)で管理しました。また、里甲制で農家110戸で1里にして、正確な人口を把握しました。

 

 他の民族が攻めてきたときのために衛所制を導入しました。さらに、六諭を発布し、里老人を通じて民衆教化を徹底します。六諭とは朱子学の教えを簡単にまとめたものです。それにより、権力に従順な民衆が育っていきました。

 

 初代洪武帝の死後、建文帝が即位します。彼は洪武帝の孫でした。洪武帝の長男は病死してしまったからです。そのため、彼はとても若いので、側近にたぶらかされて、一族の勢力を削減を試みます。舐められないためです。これに一族は反発します。洪武帝の子の燕王は挙兵します。これを靖難の役(せいなんのえき)といいます。そして、燕王は皇帝に即位しました。

 

永楽帝

 燕王は永楽帝になり、北京へ遷都しました。そこで紫禁城(しきんじょう)を建てます。今でも一部は残っています。さらに、皇帝の政務を補佐する内閣大学士を設置します。また、宦官を重用しました。

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 彼は色んな地域に戦争を仕掛けにいきました。ベトナムに出兵し、一時支配します。さらに、モンゴルに自ら遠征に行きました。

 

 イスラーム教徒の宦官である鄭和(ていわ)に南海諸国遠征を行わせます。東南アジア、インド、西アジアまで進出していきました。

 

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北虜南倭

 永楽帝の死後、北から南から攻められていきます。これを北虜南倭(ほくりょなんわ)といいました。まずは、北からオイラトという部族が入ってきます。彼らは、土木の変正統帝を捕虜にしました。このオイラトの指導者はエセン=ハンです。

 

 次はタタールが侵入してきます。指導者はアルタン=ハンです。これらに対して、明は万里の長城を修築して防いでいました。

 

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 今度は南から倭寇が入ってきます。倭寇には前期と後期に分かれます。前期は日本人が中心です。朝鮮半島から遼東半島にかけて略奪を行いました。一方、後期は中国人が中心です。彼らは海禁に反発し武装した民間商人が略奪行為をしていました。これらにお金を費やしたために明は財政難になっていきます。

 

改革

 このように永楽帝の死後、外部勢力に苦しんでいました。しかし、明は長く続きます。それは貿易活動が活発だからでした。そのため、日本銀やメキシコ銀が多く流入します。その頃から、税金は銀で納めるようになります。一条鞭法です。そのため皇帝の力は衰えても、お金は多くあったので維持することが可能だったのでした。

 

 万暦帝(ばんれきてい)のときには、張居正(ちょうきょせい)が改革をし、税収が強化されます。しかし、張居正の死後、政治争いが起きてしまいました。東林派非東林派です。東林派は、顧憲成が建て直した東林書院出身の官僚のことです。非東林派は宦官と結託します。そのため、政治がまったくうまくいかなくなってしまいました。

 

 これに加えて、豊臣秀吉が朝鮮へと侵略します。これに遠征軍を送ったために財政難になりました。そして、李自成の乱(1644)が起こり、北京を攻略され、明が滅亡しました。

 

 略図

五代十国   /            遼

↓              ↓

北宋                     ↓

↓          ↓    ↓ 

↓       西夏      ↓

南宋 / 金  ↓  金

↓    ↓   ↓    ↓

↓    モンゴル

↓     ↓

 モンゴル

明   後金

↓    ↓

  清

中華民国

中華人民共和国

 

 今日はここまで。ではまた!

 

 

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