【教養のための世界史】中国史 清~現代

清~現代までの中国の通史を見ていこう。

世界史チャレンジ。大学受験や教養、旅行の前になど。毎日少しずつ知っていこう。

 

f:id:nicochan0923:20210523101427p:plain

 

青い文字をクリックすると関連した画像検索や記事に飛びます。絵や写真だったり、続きの話、前の話です。気になったらさっと見てみましょう。

 

後金

 明が混乱していた時に、ヌルハチ女真族を率いて後金を建てます。後に満州と改称します。彼の時代には、八旗という軍を編成したり、満州文字を制作しました。

 

f:id:nicochan0923:20210528100608p:plain

 

 ホンタイジの時から中国へ侵入していきます。まずは、内モンゴルチャハルを征服します。そして、国号をと改称しました。さらに、朝鮮を属国化します。

 

 万里の長城があるため、清は明になかなか攻めることができません。しかし、李自成の乱で明が滅ぶと呉三桂(ごさんけい)を仲間にして、北京へ誘導してもらい、李自成を倒し、北京を新しい都にしました。

 

 清はもともと中国人が作った国ではないので、反発する人もいます。それが鄭成功(ていせいこう)です。明の復興の望む彼はオランダ人を追い出して、台湾を占領します。そしてそこに鄭氏台湾を作りました。彼は国姓爺とも呼ばれます。

 

全盛期

 1661年から1722年の長い期間は康熙帝(こうきてい)の時代です。彼は満州人が中国全土を支配するシステムにこだわりました。そのため、漢民族が統治している地域を取り潰します。漢民族を放っておくと自分たちを倒しにくる恐れがあるためです。そして藩王の勢力削減していきます。藩王とは清に協力した漢人武将のことです。呉三桂などです。

 

 それに反発して三藩の乱が起こります。しかし、鎮圧されます。さらに、鄭氏台湾を征服しました。

 

 この時代は、一条鞭法から地丁銀に変えます。地銀の中に人頭税繰り込み、一括して銀納させたものです。

 

 北方のロシア皇帝ピョートル1世ネルチンスク条約を結びます。そして、ロシアとの国境線を決めました。さらに、外モンゴルを併合し、徐々に領土を広げていきます。

 

 中国でキリスト教を広めるにあたって問題が起こりました。典礼問題です。典礼とは中国にある昔からの儀礼のことです。祖先や孔子を拝む文化があったのです。イエズス会典礼を承認しますが、他のキリスト宗派は反発します。そのため、康熙帝イエズス会以外の布教を禁止しました。

 

 康熙帝の後は、雍正帝(ようせいてい)です。彼は今までの典礼問題を受けて、キリスト教の布教を全面禁止します。さらに、チベットを併合します。また、ロシアと再び条約を結びます。キャフタ条約です。そして、軍機処(ぐんきしょ)を設置しました。周辺民族を討伐する特別機関のことです。それに権力を与えて、周りの民族をすぐに鎮圧できるようにしました。

 

 次は乾隆帝です。彼の即位期間は60年間です。そして、康熙帝の即位期間は61年です。彼は康熙帝を尊敬していました。そのため、61年になるその前に自ら辞めてしまったのです。

 

 彼は、制限貿易を開始します。貿易港を広州1港に限定し、特権商人の公行を設置しました。当時中国では、銀で溢れかえっていました。それを外に出て行かないようにしたのです。

 

 乾隆帝の時は、領土が最大になります。ジュンガルを併合しました。現在新彊(しんきょう)と呼ばれます。

 

f:id:nicochan0923:20210528102349p:plain

 

統治

 清の領土は、満州、台湾、中国本土の直轄地と非漢人が優勢な地域の藩部に分かれていました。この藩部は理藩院(りはんいん)によって監督されました。

 

 清の軍事制度は、ヌルハチの時代に出来た八旗が整備されます。満州、モンゴル、漢の3軍で構成されます。さらに、漢人のみで構成された治安維持を担当する緑営がありました。

 

 清のとった統治政策はアメとムチでした。アメの部分は、六部、科挙など明の制度を受け継ぎました。そして、満漢併用制という重要な官職の定員を偶数名として、満州人、漢人を同数任命します。

 

 次はムチの部分です。満州人の風習の辮髪(べんぱつ)の強制します。さらに、文字の獄禁書で言論・思想の弾圧をしました。

 

社会・経済

  明と清では、農業が発達します。「湖広熟すれば天下足る」といって、長江中流域が米の生産地として栄えます。今までは下流でしたが、中流に移ったのです。下流では、米以外の商品作物を栽培するようになります。茶、綿、桑などです。

 

 さらに、商業も活発化します。徽州商人(きしゅう)山西商人が出てきます。主に出身地を指していう言い方です。徽州商人は専売の塩で利益を上げ、山西商人は、専売の塩と金融業を中心としていました。そして、同業、同郷の商人や職業が建設し、親睦や互助を目的として会館公所が出来ました。

 

 当時の貿易で人気だったのが、生糸と陶磁器でした。蘇州杭州広州が貿易港として栄えました。

 

アヘン戦争

 当時の中国は白蓮教徒の乱が起こっていました。また、貿易港は広州1港に限定されており、公行という特許商人組合によって独占されていたのです。

 

 イギリスとは片貿易を行っていました。まずは、中国からイギリスに対して、お茶や陶磁器などが輸出されて、イギリスはその対価として銀を支払っていました。このため、イギリスは銀が不足していきました。

 

 そこでイギリスはアジア三角貿易を行いました。前と同じように中国からお茶と陶磁器を買います。その代価を植民地のインドから中国へアヘンを送らせます。代わりにインドに対して、イギリスは安い綿製品を送りました。

 

 アヘンは中毒性が強いので、これの需要が増えていきます。そのため、アヘンを密輸することが増えました。それの代価は銀です。

 

 さらに、19世紀のイギリスの改革の中で、東インド会社の中国貿易独占を廃止になりました。民間の貿易会社もアヘンを中国へどんどん持ち込み、中国は腐敗していくのです。

 

 同時期に、イギリスからマカートニーアマースト自由貿易を求めて中国へやってきました。しかし自由貿易を求める動きは失敗に終わってしまいました。

 

 自由貿易の交渉は失敗に終わったので、力づくでさせるしかないとイギリスは思います。そこで戦争の口実をひたすら待っていました。

 

 そんな中、林則徐はアヘンの没収と焼却を行います。さらに、中国人密貿易者の処罰、イギリス商館区の封鎖を行いました。

 

 イギリスはこれを口実にアヘン戦争を行います。中国はまったく勝てませんでした。そして、南京条約を突きつけられます。5港の開港、公行の廃止、香港の割譲、賠償金の支払いが決まりました。

 

 アヘン戦争後もイギリスは中国に圧力をかけてきます。治外法権の承認させます。さらに、関税自主権を失うことになりました。

 

 そして、イギリスが中国を開港したので、外国人が多く、中国へ訪れるようになります。そのため、租界が設置されました。

 

 また、アメリカやフランスとも不平等条約を結んでしまいました。アメリカとは望厦条約、フランスとは黄埔条約を結びました。このように中国の植民地化が進んでいきました。

 

アロー戦争

 イギリスはまた戦争を行いました。アヘン戦争で中国の港を開いたのに利益が上がらなかったからです。そこで、イギリスは、新たな港を開港させることをたくらんでいました。

 

 そんな中起きたのが、1856年にアロー号事件です。清朝の警察に海賊容疑で取り調べを受け、アロー号に乗っていた中国人船員が逮捕される出来事です。アロー号にはイギリスの国旗が掲げてありました。そのため、イギリスが清へ抗議します。そこで起こった事件でした。

 

 イギリスはフランスを誘い、中国を北上していきます。清は負けを認め、天津条約を締結しようとしました。しかし、清の保守派が妨害をして、再び戦争が再開されてしまいます。

 

 その後、イギリス、フランス軍は北京を占領しました。そして、皇帝が暮らす円明園が破壊され、皇帝は逃げだしました。

 

 最終的に、北京条約が締結されます。天津条約にさらに内容を盛り込んだものになりました。外国公使の北京駐在が決められ、総理各国事務衙門が設置されます。外務省のようなものです。さらに、キリスト教布教の自由が認められました。また、南京を含む10港を開港し、追加で天津も開港します。そして、九竜半島南部をイギリスに割譲しました。

 

 これ以外にも賠償金が課せられます。そのため、税金として農民に負担がかかっていきました。

 

反乱

 重税に堪えられなくなった農民は反乱を起こします。太平天国の乱です。洪秀全が指導をしました。

 

 彼はキリスト教の結社である拝上帝会を結成します。そして、太平天国を建国し、反乱軍を率いて南京を占領しました。南京を都にして、天京と改称し、「滅満興漢」を掲げました。

 

 反乱を起こすには民衆の支持が不可欠です。そこで、天朝田畝制度(てんちょうでんぽ)を掲げました。土地を均等に配分する政策です。また、男女平等、纏足の廃止辮髪廃止を掲げました。

 

 ところが、地主は卿勇という義勇軍を結成し、反対します。有名な軍は、曽国藩が率いた湘軍李鴻章が率いたでした。

 

 さらに、欧米人も反対します。常勝軍を結成しました。中国を植民地にしようとしてたのに新しい国ができたら台無しになるからです。最初の指揮官はアメリカ人のウォードで、彼が戦死した後は、イギリス人のゴードンでした。この結果太平天国の乱は最終的に鎮圧されました。

 

洋務運動

 当時凍らない港を求めていたロシアは、中国へ進出していきます。そして、4つの条約を結んでいきました。

 

 東シペリア総督ムラヴィヨフによって、黒竜江(アムール川)を国境とするアイグン条約が結ばれました。海岸線まであと少しです。

 

f:id:nicochan0923:20210531211123p:plain

 

 次は、アロー戦争の締結条約、北京条約です。締結の場にロシアがいました。ロシアは、沿海州(橙)を獲得し、ウラジヴォストークを建設します。ついに海岸線にたどり着きました。

 

f:id:nicochan0923:20210531211533p:plain

 

 ロシアはまだ南下の手を緩めません。次は、樺太・千島交換条約を日本と結びました。ロシアは樺太全島(青)を獲得します。

 

f:id:nicochan0923:20210531211910p:plain

 

 最後にです。東トルキスタンの一部をロシアが獲得しました。

f:id:nicochan0923:20210531212232p:plain


 この状況を打開しようと中国では改革運動が展開していきます。それが洋務運動でした。これが行われていた期間は、同治の中興と呼ばれる安定していました。同治とはこの期間を治めていた同治帝から取ったものです。摂政は西太后でした。

 

 基本精神は、中体西用です。中国の体制維持にあたり、西洋技術を用いることで富国強兵を図るものでした。皇帝の独裁政治や儒学を基盤とした学問は変更しません。中心人物は曽国藩李鴻章です。

 

 この運動で、清は強くなったように思われましたが、後の清仏戦争日清戦争で負けてしまいました。結局、実際には富国強兵にはつながっていなかったのです。

 

日清戦争

 日本の朝鮮進出が本格化していく中、朝鮮国内では新しい思想が生まれました。鎖国状態だった朝鮮が開かれたからです。例えば、西学、東学などですね。

 

 西学はヨーロッパのキリスト教を中心とする宗教は思想のことです。一方、東学は、従来の民間信仰に、儒学、仏教、道教が合わさったものです。東学の創始者崔済愚(さいせいぐ)でした。

 

 東学は、アジア以外のもの、外部勢力を嫌うようになります。そこで起こったのが、甲午農民戦争です。指導者は全琫準(ぜんほうじゅん)です

 

 中国の清が朝鮮を助けるために出兵します。また、朝鮮には日本人もいるため、日本も出兵しました。これで、清と日本は全面対決します。これが日清戦争です。

 

 そして日本が勝利しました。その結果、下関条約が締結されます。朝鮮の独立台湾澎湖諸島遼東半島の割譲開港場での企業の設立など日本の優位な形で締結されました。

 

 これに対して日本へクレームをつけてきた国があります。日本が遼東半島を取得したことに対してロシアが反発し、声明を出しました。それに付随してドイツ、フランスも同調します。結果、遼東半島は返還されました。これが三国干渉です。

 

 その後、ロシアにくっつこうとした閔妃を日本は殺害してしまいました。

 

中国分割

  日清戦争で日本に負けた中国は植民地化が加速していきました。賠償金を払うため、中国は列強に借款を行うようになります。借款とは借金のことで、外国政府から借りるものです。

 

 お金の額が大きいので、担保として、鉄道敷設権鉱山採掘権を奪われてしまいました。鉄道を勝手に敷く権利と鉱山の鉄鉱石や石炭を持ち帰る権利です。

 

 さらに租借も行われるようになりました。租借とは、他人の領土の一部を条約によって借りることです。借りるというのは名目上で、事実上は割譲でした。

 

 この流れに遅れてしまったのがアメリカです。アメリカはこの時期、スペインと戦争をしていたので、出遅れてしまいました。焦ったアメリカは、国務長官ジョン=ヘイによって、門戸開放宣言を発表しました。門戸開放・機会均等・領土保全を原則とし、中国への進出をヨーロッパ諸国に伝えたのです。

 

 しかし、このときまでにはだいぶ、中国分割は進んでいました。租借以外にも勢力圏というものあります。ここは、領土は中国のままですが、ヨーロッパの国々が影響力を持っていた地域のことです。鉱山開発や鉄道敷設、企業を設立しました。

 

 ドイツは、膠州湾を租借し、山東省が勢力圏です。

 

 ロシアは、遼東半島南部(旅順・大連)を租借しましたが、日露戦争後、日本に移りました。勢力圏は、満州・モンゴルです。さらに、東清鉄道の敷設権を持っていました。

 

 イギリスは威海衛・九竜半島を租借し、長江流域が勢力圏です。

 

 フランスは広州湾を租借し、広東・広西・雲南省が勢力圏です。

 

 日本は、日露戦争後、遼東半島南部(旅順・大連)を租借しました。勢力圏は福建省で、南満州鉄道の敷設権を持っていました。

 

変法運動

 日清戦争に敗れた中国は、とてもショックを受けました。かつては遣唐使が派遣されるなど今とはまったく立場は逆ですね。

 

 光諸帝(こうしょてい)は、官僚の康有為(こうゆうい)・梁啓超らと日本の明治維新をモデルとした改革運動を試みました。これを変法運動といいます。中でも皇帝が憲法に則って政治をする立憲君主を目指しました。この立憲君主政への移行が盛んに行われていた時期を戊戌の変法(ぼじゅつ)といいます。

 

 しかし、この動きは、邪魔されてしまいます。戊戌の政変です。西太后を中心とする保守派が改革を弾圧してしまいました。皇帝の力が制限されるのを嫌がった、改革による混乱でヨーロッパがさらに干渉してくるかもしれないなど様々な考えがあったといわれています。どういう意図で弾圧を行ったかは諸説あるのです。ただ結果としては、立憲君主政への移行は失敗に終わってしまいました。

義和団

  アヘン戦争以降、中国では植民地化が進んでいきました。その中でついに、中国では排外運動が展開されます。仇教運動といい、反キリスト教運動です。キリストというより、ヨーロッパのことです。

 

 その中で大規模な仇教運動は義和団事件でした。義和団扶清滅洋を掲げ、ドイツ人宣教師を殺害します。扶清滅洋とは、清を助けて、ヨーロッパ勢力を追い出せという意味です。これに怒ったドイツは山東へ進出していきました。

 

 すると、清は義和団を利用し、ヨーロッパを追い出そうとします。

 

 義和団が北京へ侵入しました。これを見て、清は西欧列強に宣戦布告します。しかし、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、ロシア、日本といったそうそうたる面子がかかってきたのです。この8カ国共同出兵により北京が占領されました。

 

 さすがに、敗れてしまった清は北京議定書によって、巨額の賠償金がさせられます。さらに物騒な中国に役人を置いてられないということで北京駐兵権が決定し、事実上軍事占領下に置かれました。半植民地化してしまったのです。

 

辛亥革命 

 清朝末期、義和団事件の後の話です。ヨーロッパの植民地化はさらに進みました。このままではまずいということで、改革が行われるようになります。当時、光緒帝が生きていた時代なので、光緒新改といいました。ただ、戊戌の政変で幽閉されている状態でした。

 

 国内では、新軍を整備し、西洋に倣った軍隊を整備しました。さらに、科挙を廃止し、北京大学を代わりに創設します。

 

 それだけでなく、日本の明治憲法をモデルに憲法大網を発布し、国会開設を公約しました。このように国内を改革していったのです。

 

 しかし、明治憲法は、天皇に大きな権限がある憲法でした。そのため、国会はお飾り状態になります。それをモデルに作った憲法大網はもちろん、皇帝に権限がある内容になりました。光緒新政は国内改革と言われる一方、皇帝の中央集権化を進める改革でもあったのです。

 

 結局、これまでも皇帝独裁に変化はないので、市民の不満は募っていきました。そこで、清、満州人、皇帝を追い出して、民衆のための国を作ろうとする動きが出てきます。

 

 それが、革命派です。たとえば、先進国に多く派遣される留学生や海外に渡航した中国人の華僑です。華僑の中にはビジネスに成功したものもいました。そのため、留学生に財政援助をしたのです。

 

 中でも革命派のリーダーは孫文です。彼は興中会を結成し、清を倒して、民衆のための国づくりを目指そうとしました。興中会以外にも様々な組織が結成されます。

 

 そのため、彼は、ゴールは同じなので、それらをまとめ上げ、中国同盟会を結成しました。1905年、日露戦争で日本の勝利に刺激を東京で結成されます。リーダー(総理)は孫文になり、機関紙『民報』を発行しました。

 

 また、民族の独立民権の伸長民生の安定、まとめて三民主義を掲げました。清朝を打倒し、欧米諸国から漢民族の独立を目指す(民族の独立)、一般民衆の権利を認める(民権の伸長)、人々の生活が安定できるよう貧富の差を解消する(民生の安定)を目指したのです。

 

 いよいよ、皇帝政治は終わる瞬間がやってきました。辛亥革命です。きっかけは、清の幹線鉄道国有化宣言でした。幹線鉄道は国の重要な鉄道のことです。清はこれを担保にお金を借りようとしました。しかし、これを渡してしまったらさらに中国の植民地化が進んでしまいます。

 

 これに対して、四川暴動が起こりました。清は武力で鎮圧を試みます。ところが、その軍隊が途中で清を裏切ってしまいました。武昌蜂起を行います。湖北の新軍内の革命派が武装蜂起し、独立を宣言したのです。これに続いて、各地の革命派も次々と独立を宣言していきました。

 

 そして、独立を宣言した各省の代表が集まり、中華民国が建国したのです。臨時大総統として孫文が選ばれ、首都は南京に置かれました。まだ、清は滅んでいません。中華民国は清を滅ぼそうと考えました。

 

f:id:nicochan0923:20210603103103p:plain

 

 清も中華民国を潰そうとしてきます。当時、清には最強の大臣である袁世凱がいました。彼を使って、中華民国を潰そうと考えたのです。

 

 しかし、袁世凱中華民国孫文と取引を行いました。彼は、清の皇帝を退位させる代わりに、中華民国のリーダーにしてくださいと持ちかけたのです。中華民国の軍事力では袁世凱の軍に勝ち目がないと判断して、孫文は、この取引に応じました。結果、宣統帝(溥儀)が退位し、清は滅亡したのです。

 

 約束通り、袁世凱は、臨時大総統に就任しました。そして、北京に都を移し、独裁色を強めていきます。袁世凱は民主的な政治をする気がありませんでした。

 

 そこで、袁世凱の暴走を防ぐため、国民党が結成されます。中国同盟会が中心となり結成されました。袁世凱と国民党は対立していきます。

 

 ついに、武力衝突が起きました。第二革命です。しかし、仮にも袁世凱は軍人なので、とても強いのです。結果、袁世凱が勝利し、国民党は解散処分になりました。そして、袁世凱は正式な大総統に就任したのです。

 

 袁世凱は最終的に皇帝になろうとしました。これでは今まで行ってきたことが無駄になってしまいます。そこで、革命派だけでなく、国内のかつて袁世凱の部下だった軍部も袁世凱に対抗していきました。これを第三革命といいます。

 

 国内だけでなく、ヨーロッパや日本も革命派の味方をしました。これ以上行うと植民地化した市場も混乱すると思ったからです。結果、袁世凱は、帝政をやめることを宣言しました。数ヵ月後、彼は病気で死んでしまいます。彼の死後、北京政府の実権をめぐり、軍閥が割拠し、争うようになってしまいました。

 

新文化運動

 当時の中国の知識人は第一次世界大戦が始まって、さらに日本の干渉が強くなっていることにあせっていました。しかし、一部の人だけが焦っても意味がありません。そこで、多くの人々の意識を変えようと新文化運動が起こります。中でも人々に大きな影響を与えたのは、文学革命です。文学を通して、人々の意識を変えていこうとしました。

 

 この活動の中心となったのは、北京大学の教授たちでした。その先駆けとなったのは陳独秀(ちんどくしゅう)です。彼は新青年という雑誌を刊行しました。この雑誌の中で民主主義と科学をスローガンに掲げました。中国の古い体制や儒学を批判したのです。

 

 胡適(こてき)はその雑誌の中で白話運動を提唱しました。文語から口語に変えるべきだと提唱します。みんなが読めるようにわかりやすい表現にしようというものです。さらに、李大釗(りたいしょう)マルクス主義研究会を創設して、中国に社会主義共産主義の考え方を伝えました。

 

 また、魯迅は、『狂人日記』『阿Q正伝』で民衆の無知でもたらす悲惨な現実をあらわにし、人々に意識を根底から変えていこうとしました。

 

国民党と共産党

 パリ講和会議では、二十一カ条要求の破棄が認められませんでした。これに対して、北京大学の学生の中心に大規模なデモが発生します。そして、全国的な反帝国主義へ発展していきました。これを五・四運動といいます。

 

 これを無視できなかった中国の軍閥政府はヴェルサイユ条約調印を拒否しました。この反帝国の運動を受けて、孫文中国国民党を結成します。全国的な運動があるので、もう隠す必要はありません。大衆政党へ変えるべく中国革命党の名前を変えたのです。一方、陳独秀らは中国共産党を結成しました。

 

 中国国民党は資本主義、中国共産党社会主義で、この2つは本来思想は違いますが、目的は同じなのです。そのため、第1次国共合作が起こりました。中国国民党中国共産党が力を合わせるということです。

 

 孫文は「連ソ・容共・扶助工農」を掲げました。ソ連と連携し、共産党を受け入れ、中国の農業・工業を育てていこうということです。

 

 この2つの党が目指すは国民革命の遂行です。そのためには、まず協力して軍閥を倒そうと考えました。その後、外国勢力を追い出していけばよいと思ったのです。

 

北伐

 1925年、孫文が死にました。さらにその年に、上海の日本人が経営する紡績工場で労働者がストライキを行ったのです。たまたま居合わせたイギリス人の警察官が発砲してしまいました。これを五・三〇事件といいます。そして、これを受けて、全国な抗議が広がりました。こちらを五・三〇運動といいます。

 

 ここでついに、北伐が開始されました。南から北に上がり、北京にいる軍閥政府を倒す動きのことです。まず、国民党と共産党は、広州国民政府を樹立しました。そして、2つのルートを取って、北京に向けて進んでいきます。

 

 国民党と共産党は力を合わせていますが、国民党の中には共産党が嫌いな人もいました。反共的といいます。それが国民党右派で、指導者は蒋介石です。一方、共産党を受け入れる人は、国民党左派で、容共派といいます。指導者は汪兆銘です。このように、協力はしていても2つのグループに分かれていたため、ルートを2つに分けて進んだのです。

 

 この後、蒋介石が率いた軍隊が上海クーデターを起こしました。共産党が嫌いな蒋介石が上海の街に入ったときに、共産党員を虐殺してしまったのです。なぜここまで、共産党が嫌いかというと、彼のバックには、帝国主義勢力や地主、浙江財閥がいたからです。つまりお金持ちの人と結託していました。お金持ちにとって社会主義は受け入れられないものです。そのため、このようなことが起こってしまいました。

 

 上海クーデターによって、国民党と共産党の協力関係はなくなってしまいました。国共分裂です。そして、残った国民党のメンバーで、南京国民政府を樹立しました。そこで別ルートで行った国民党左派を呼び寄せました。

 

f:id:nicochan0923:20210605203125p:plain

 

 国民党だけで北伐を再開していきます。当時北京にいた軍閥政権は奉天派と呼ばれ、日本のあやつり人形でした。万が一軍閥が倒されると有利に働かないかもしれないと考えた日本は、山東出兵を行い、北伐軍を邪魔します。日本は居留民の保護を名目に出兵しました。

 

f:id:nicochan0923:20210605231022p:plain

 

 蒋介石はこれをうまくかわし、北京に入りました。奉天軍閥の首領、張作霖は、北伐軍に敗れて、逃亡します。彼が逃げる途中に、張作霖爆殺事件(奉天事件)が起こりました。日本の関東軍によって、張作霖が乗っていた列車が爆破され、殺害されてしまったのです。関東軍とは、遼島半島付近に駐留していた日本の軍隊です。

 

 彼の死後、息子の張学良は、北京を開放し、北伐軍に降伏しました。これで、北伐は完成しました。

 

 上海クーデターで国民党と分かれた共産党は、活動拠点を農村に移していきます。その際作られた軍のことを紅軍といいます。紅は共産党社会主義の色ですね。そして、彼らは中華ソヴィエト共和国臨時政府を作りました。主席は毛沢東、都は瑞金です。

 

 国民党の蒋介石共産党を潰すのに必死でした。そのため、共産党は、国民党の攻撃を受けて、大移動を行います。本拠地を瑞金から延安へ移しました。12500kmも離れたところへ移動したので、長征といいます。

 

 この長征の間、共産党は、八・一宣言を発表しました。国民党に対して内戦の停止と抗日民族統一戦線の結成を訴えました。日本と戦うために協力すべきということです。日本は満州国を建設しているのに、共産党を潰すのに必死でした。そのために、発表したのです。しかし、蒋介石は耳を貸しませんでした。

 

 そんな中起こったのが、西安事件です。蒋介石の部下になっていた張学良が武力で蒋介石を軟禁しました。張学良は蒋介石に日本と戦うことを説得することに成功します。

 

 そしていよいよ日本と中国がぶつかりました。盧溝橋事件です。北京郊外の盧溝橋で日本と中国の軍が対峙し軍事衝突が発生しました。これにより日中戦争が始まります。そこで、第2回国共合作が成立しました。

 

 日本は南京を占領します。そして、南京事件が起こりました。教科書によっては書かれている内容が違いますが、多くの日本軍が市民を虐殺したといわれています。

 

 日本は中国各地へと侵略していきます。中国は劣勢に立たされました。蒋介石は逃げて、山奥に逃げ延びます。国民政府は重慶へと遷都しました。重慶政府です。一方の日本は、南京に日本のあやつり政府を作りました。南京国民政府を樹立し、指導者は汪兆銘です。

 

 第二次世界大戦中、国民党も共産党も力を合わせていました。ところが日本の敗戦を受け、戦後の中国の指導権をめぐって、また、国民党と共産党が対立を深めていきました。

 

 戦後の中国は、毛沢東が指導者の中国共産党蒋介石が指導者の中国国民党が争います。それを国共内戦といいます。

 

 毛沢東第二次世界大戦中、地主の土地所有を廃止すると宣言しました。地主の土地は、農民に分配されるので、農民からの支持が拡大していったのです。中国は農民の数が非常に多いので、国民党を圧倒する勢力になっていきました。

 

 そして、ついに、国民党は国共内戦に敗れ、中華民国政府台湾に移しました。戦後の中国は共産党毛沢東が勝利したのです。

 

 勝った毛沢東は、中華人民共和国を成立させ、首都は北京に置きました。国家主席毛沢東、首相は周恩来が就任しました。

 

 そして、同じ社会主義の国のソ連と手を結びます。中ソ友好同盟相互援助条約を締結させました。

 

 毛沢東は、軍事同盟を結ぶだけでなく、国内改革も行っていきます。まず、中華人民共和国を世界にアピールしたのです。そして、ソ連、東欧、インドに承認されました。

 

 そして、彼は土地改革を実施します。大地主から土地を没収し、農民に分配しました。その後、第1次五ヵ年計画を実施します。ソ連が行った計画経済をマネしました。重工業の優先、農業の集団化を行います。せっかく土地を手に入れた農民はこの五ヵ年計画のもとでひとまとまりになってしまいました。

 

 中ソ友好同盟相互援助条約を結びましたが、ソ連の関係が悪化していきました。それは、中ソ論争が起こったからです。スターリンが死んで、フルシチョフ書記長が就任します。フルシチョフの平和共存政策によるアメリカとの接近に対し、中国が反発しました。キューバ危機以降は公開論争へと発展していきます。名指して文句を言う形になったということです。

 

 さらに、毛沢東は領土拡張のため、チベット反乱を引き起こします。当時、チベット仏教僧侶を中心とした中国から自立を求める反乱を起こしました。チベットは20世紀になって、辛亥革命が起こるころ、独立を勝ち取っていた国でした。そのチベット毛沢東が併合しました。

 

 しかし、中国の人民解放軍により鎮圧されてしまい、チベットリーダーである、ダライ=ラマ14世はインドへ亡命します。これを巡って、中印国境紛争が起こりました。結果、中国の勝利で終わります。

 

 外交面では、ソ連とインドとの関係が悪化していきました。国内では、大躍進という政策を行います。第2次五ヵ年計画ともいいます。工業・農業の急速な発展を目指し、大躍進をスローガンに掲げて、改革を行いました。その時に設立したのが、人民公社です。農村部における生産活動と行政・教育活動などを一体化するものです。さまざまなものをすべて農村部でやるということです。

 

 そのため、農民は疲弊していきます。早くからこの大躍進はうまくいかない雰囲気が漂ってきました。さらに、中ソ技術協定に破棄されてしまいました。それでソ連の技術者が帰ってしまったのです。また、大規模な自然災害が発生してしまいます。これらにより、大躍進は大失敗しました。餓死者数が3000万人とも言われています。

  

 毛沢東の後任は、劉少奇(りゅうしょうき)です。補佐は鄧小平(とうしょうへい)です。彼らは大躍進の失敗した中国を立て直すために、資本主義経済の仕組みを導入します。これにより、農業生産力が徐々に回復しました。

 

 この後、再び毛沢東が復活します。この復活にあたって運動をする期間をプロレタリア文化大革命といいます。復活にあたって、まず実権派を一掃しました。劉少奇や鄧小平などを「資本主義復活をはかる者」として批判したのです。

 

 そして、この毛沢東の考え方に影響を受けたのが紅衛兵です。彼らは若い学生を中心に組織されたグループで、全国各地で激しい闘争を行いました。

 

 また、毛沢東の権威を利用して権力を掌握する四人組を呼ばれる人物が横暴していきました。その中には、毛沢東の妻の江青(こうせい)もいました。

 

 この期間、外交面で大きな変化がありました。中ソ国境紛争が起こります。ウスリー川に位置する島をめぐって軍事衝突が起こってしまったのです。

 

 ソ連と対立していたアメリカは、中国に歩み寄りを見せました。総会の代表権を台湾から中華人民共和国に渡したのです。さらに、ニクソンは訪中し、中国を事実上承認しました。このときに、親米な日本も中国を訪れ、日中国交正常化したのです。田中角栄内閣のときです。

 

 プロレタリア文化大革命の時期は、経済的にも、文化的にも停滞しました。毛沢東の意に反することすれば批判されてしまい、経済活動も自由にできない状態でした。

 

 しかし、周恩来毛沢東が死んで転機が訪れました。彼の後には、華国峰が就任し、四人組を逮捕します。そして、プロレタリア文化大革命の収束を宣言しました。

 

 彼は、新しい中国を作るために、四つの現代化を進めていきます。農業、工業、国防、科学技術の近代化を目指すものです。これを推進したのは、鄧小平でした。さらに、鄧小平は、1978年以降、改革・開放政策を行いました。

 

 それ以外にもさまざまな経済改革が行われていきました。人民公社を解体し、農村部に生産責任制を導入します。これは各農家に生産したものの責任を与えるものです。資本主義経済の仕組みを取り入れました。

 

 政治的には、共産党一党独裁を維持しながら、経済的には資本主義の仕組みを導入することを社会主義市場経済といいます。そして、彼は、経済特区を指定し、外国の企業を誘致する場所を作りました。

 

 このように、経済が自由になると政治も自由にしてほしいと要求する動きが高まっていきました。ところが、鄧小平は、この自由化を求める動きを軍隊を使って弾圧します。それが天安門事件です。国際放送でも世界に同時発信したので、世界に衝撃を与えました。

 

 1997年に鄧小平が死去し、江沢民の時代になりました。彼の時代には、香港がイギリスから返還され、マカオポルトガルから返還されました。