と今日は近代の朝鮮と中国分割です。日本が登場しますね。
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当時国王は高宗でした。后は閔妃(びんひ)で、その一族のことを閔氏(びんし)といいます。高宗の父である大院君が摂政を務めていたので高宗には力がありませんでした。せっかく后になって甘い汁が吸えると思っていたのに、閔氏は納得いきません。
そこで、大院君を退けようと、閔氏は日本が手を結びます。そして、大院君を失脚させました。いよいよ閔氏が独裁政治を行うようになります。
朝鮮進出を目論んでいた日本はこの閔氏を利用して朝鮮進出を本格化させていきます。1875年に江華島事件がありました。朝鮮の沿岸部で日本の船が朝鮮から砲撃を受けたことから始まります。この結果、日朝修好条規が結ばれ、朝鮮の自主独立であることを確認、3港の開港、日本の領事裁判権を承認しました。これらは不平等条約だったのです。
すると、大院君の時代のほうが良かったと市民も思うようになっていきました。すると、大院君派の軍隊が反乱した壬午軍乱が起こります。鎮圧にあたって、清と日本が来ましたが、対応が違いました。清は大院君を捕縛し閔氏を支援します。一方、日本は朝鮮側へ多く要求しました。これにより、閔氏は日本と手を切って清側にくっついていきます。
これに対して朝鮮国内では、閔氏ら中心の事大党と金玉均ら中心の開化派で意見が割れます。事大党は清側に戻る考えです。他方、開化派は、日本に学び近代化しようと考えていました。
そして、開化派は日本の武力を借りて、甲申改変を起こしました。しかし、これは清の介入で鎮圧されます。この結果、日本と中国が朝鮮をめぐって争うようになっていきました。
日本の朝鮮進出が本格化していく中、朝鮮国内では新しい思想が生まれました。鎖国状態だった朝鮮が開かれたからです。例えば、西学、東学などですね。
西学はヨーロッパのキリスト教を中心とする宗教は思想のことです。一方、東学は、従来の民間信仰に、儒学、仏教、道教が合わさったものです。東学の創始者は崔済愚(さいせいぐ)でした。
東学は、アジア以外のもの、外部勢力を嫌うようになります。そこで起こったのが、甲午農民戦争です。指導者は全琫準(ぜんほうじゅん)です。
中国の清が朝鮮を助けるために出兵します。また、朝鮮には日本人もいるため、日本も出兵しました。これで、清と日本は全面対決します。これが日清戦争です。
そして日本が勝利しました。その結果、下関条約が締結されます。朝鮮の独立、台湾、澎湖諸島、遼東半島の割譲、開港場での企業の設立など日本の優位な形で締結されました。
これに対して日本へクレームをつけてきた国があります。日本が遼東半島を取得したことに対してロシアが反発し、声明を出しました。それに付随してドイツ、フランスも同調します。結果、遼東半島は返還されました。これが三国干渉です。
その後、ロシアにくっつこうとした閔妃を日本は殺害してしまいました。
中国分割
日清戦争で日本に負けた中国は植民地化が加速していきました。賠償金を払うため、中国は列強に借款を行うようになります。借款とは借金のことで、外国政府から借りるものです。
お金の額が大きいので、担保として、鉄道敷設権や鉱山採掘権を奪われてしまいました。鉄道を勝手に敷く権利と鉱山の鉄鉱石や石炭を持ち帰る権利です。
さらに租借も行われるようになりました。租借とは、他人の領土の一部を条約によって借りることです。借りるというのは名目上で、事実上は割譲でした。
この流れに遅れてしまったのがアメリカです。アメリカはこの時期、スペインと戦争をしていたので、出遅れてしまいました。焦ったアメリカは、国務長官ジョン=ヘイによって、門戸開放宣言を発表しました。門戸開放・機会均等・領土保全を原則とし、中国への進出をヨーロッパ諸国に伝えたのです。
しかし、このときまでにはだいぶ、中国分割は進んでいました。租借以外にも勢力圏というものあります。ここは、領土は中国のままですが、ヨーロッパの国々が影響力を持っていた地域のことです。鉱山開発や鉄道敷設、企業を設立しました。
ドイツは、膠州湾を租借し、山東省が勢力圏です。
ロシアは、遼東半島南部(旅順・大連)を租借しましたが、日露戦争後、日本に移りました。勢力圏は、満州・モンゴルです。さらに、東清鉄道の敷設権を持っていました。
イギリスは威海衛・九竜半島を租借し、長江流域が勢力圏です。
フランスは広州湾を租借し、広東・広西・雲南省が勢力圏です。
日本は、日露戦争後、遼東半島南部(旅順・大連)を租借しました。勢力圏は福建省で、南満州鉄道の敷設権を持っていました。
変法運動
日清戦争に敗れた中国は、とてもショックを受けました。かつては遣唐使が派遣されるなど今とはまったく立場は逆ですね。
光諸帝(こうしょてい)は、官僚の康有為(こうゆうい)・梁啓超らと日本の明治維新をモデルとした改革運動を試みました。これを変法運動といいます。中でも皇帝が憲法に則って政治をする立憲君主政を目指しました。この立憲君主政への移行が盛んに行われていた時期を戊戌の変法(ぼじゅつ)といいます。
しかし、この動きは、邪魔されてしまいます。戊戌の政変です。西太后を中心とする保守派が改革を弾圧してしまいました。皇帝の力が制限されるのを嫌がった、改革による混乱でヨーロッパがさらに干渉してくるかもしれないなど様々な考えがあったといわれています。どういう意図で弾圧を行ったかは諸説あるのです。ただ結果としては、立憲君主政への移行は失敗に終わってしまいました。
略図
○朝鮮
↓ 壬午軍乱
↓ 甲申政変
↓ 日清戦争
○中国分割
清
↓ ロシア
↓ ドイツ
↓ イギリス
↓ フランス
↓ 日本