今日は雪解けから冷戦終結です。break iceという表現ありますね。
世界史チャレンジ。大学受験や教養、旅行の前になど。毎日少しずつ知っていこう。
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核開発
第二次世界大戦終了後、各国が競ったのが原子爆弾の製造でした。ウランやプルトニウムの核分裂を利用してつくる大量破壊兵器です。
アメリカがはじめて核実験を成功しました。第二次世界大戦中の広島、長崎に実際に投下されました。そして、本来ならば持ってほしいものではありません。しかし、アメリカに対抗するために各国は核開発が進められます。
1949年、ソ連は核実験を成功させます。その後、アメリカは水素爆弾の実験にも成功しました。水素爆弾は原子爆弾よりも強力なもので、使うと地球が滅びてしまうと言われるくらいです。
これにソ連も猛追し、水素爆弾の実験を成功させます。イギリス、フランス、中国も核実験を成功させました。核を保有すると、徐々に発言力が高くなっていきます。そして、次に、インド、バキスタンでも核実験を成功させました。
平和
アメリカは中部太平洋で核実験を実施しました。ビキニ水爆実験です。このときに発生した放射能のことを死の灰といいます。死の灰により周辺住民は被爆してしまいました。また、周辺住民だけでなく、日本のマグロ漁船第五福竜丸にも影響を与えてしまったのです。このときの乗組員が死の灰浴びて被爆してしまいました。
この事件を受けて、原水爆禁止運動が始まります。東京都杉並区の主婦の運動から始まりました。それが世界的運動に発展します。
バートランド=ラッセルはアインシュタインと共に、核兵器・核戦争の危険性を訴えた宣言をしました。アインシュタインは、アメリカの原子力爆弾製造に力を貸した人物なので、世界に大きな影響を与えました。
これを受けて、パグウォッシュ会議がカナダで行われました。科学者による核兵器禁止運動で、科学と国際問題について協議するものです。
雪解け
1953年に、スターリンが死んで、フルシチョフが書記長になりました。彼は、平和共存の考え方を持っていました。そして、ソ連共産党20回大会で、スターリン批判を行います。スターリンの悪行をここでバラしたのです。さらに、スターリンの路線を取らないことを宣言したのです。
彼が就任してからアメリカとの関係は良くなっていきました。ジュネーヴ4巨頭会談で、アメリカ、ソ連、イギリス、フランスの首脳が平和共存を確認しました。さらに、ソ連と西ドイツの国交を回復します。
この時期のことを雪どけといいます。ソ連の作家エレンブルクの小説のタイトルが由来です。
また、コミンフォルムを解散させ、ソ連のリーダーとしてはじめて、訪米を行いました。当時のアメリカ大統領のアイゼンハウアーとキャンプデーヴィッドで会談したのです。
しかし、この動きのため、ソ連から離れていく国もありました。ソ連支配に対する民主化運動が起こります。まず、ポーランドでは、反政府反ソ暴動がポズナニで起こりました。これはゴムウカがポーランドは自主路線を取ることを約束し事態は収束しました。
ハンガリーでも反ソ暴動が起こります。ナジ=イムレが首相に復帰し、ソ連支配からの完全脱却を目指して暴動を起こしたのです。しかし、ソ連の軍事介入により失敗し、ナジ=イムレは処刑されてしまいました。
このようにフルシチョフの平和路線は、アメリカとの関係が良くなる一方、社会主義国で暴動が起きるなどの側面もあったのです。
第三勢力
第三勢力とは、米ソ両陣営に入らず積極的な中立を主張した勢力のことです。主に、アジア、アフリカの新興諸国が中心になりました。
まず、インドのネルーと中国の周恩来が会談しました。ここで、平和五原則を発表します。これをもとにさらにさまざまな国が集まりました。
1955年には、インドネシアのスカルノの提唱で、史上初のアジア・アフリカ首脳会議、アジア=アフリカ会議が行われました。バンドンで行われたことからバンドン会議とも呼ばれます。ここでは、平和十原則が発表されました。このように第三勢力が徐々に発言力を強めていきました。
1961年には、第1回非同盟諸国首脳会議がユーゴスラヴィアの首都ベオグラードで開催されました。ティトー(ユーゴスラヴィア)、ナセル(エジプト)、ネルー(インド)の呼びかけで、アジア・アフリカ・ラテンアメリカの非同盟国が参加します。
ラテンアメリカ
第二次世界大戦後、アメリカはラテンアメリカを社会主義化させないように、アメリカ州機構(OAS)を作りました。南北アメリカ21カ国による反共強力組織です。
これに反発する国も出てきました。アルゼンチンでは、ペロン大統領が外国資本の国有化、初等教育拡大など、アメリカと距離を置くような動きをとりました。また、ブラジルでも、ヴァルガス大統領が資源の国有化、労働者の保護をしたりアルゼンチと同じ動きをするようになります。
チリでは、1970年代、アジェンデが大統領が就任しました。選挙によって社会主義政権が成立したのです。しかし、これを嫌ったアメリカは、チリで軍部クーデターを起こさせました。アジェンデは死んでしまい、親米軍事政権ピノチェト政権が成立しました。
キューバ革命
キューバには当時、バティスタ政権がありました。アメリカと結んだ親米独裁政権です。この時期に、貧富の差が拡大していきました。
このバティスタ政権を倒すために、キューバ革命が起きました。指導者はカストロ・ゲバラです。これにより、バティスタ政権を打倒することに成功しました。この後は、カストロが首相になり、国民のための改革をしようとしました。
これに対しアメリカはキューバと国交を断絶します。アメリカに潰されてしまうかもしれないと思ったキューバはアメリカは、社会主義宣言を行いました。ソ連に接近したのです。
アメリカは、キューバに偵察機を飛ばしました。するとキューバでミサイル基地の建設が進んでいることがわかったのです。ソ連が支援していると思って焦ったアメリカは、海上封鎖を実施しました。ソ連の船がキューバに入って来れないようにしたのです。アメリカとソ連の緊張は一気に高まりました。この出来事をキューバ危機といいます。
アメリカのケネディ、ソ連のフルシチョフは一歩も引きません。これは、核兵器を使った戦争が起こるかもしれないといわれたほどです。最終的にソ連が譲歩し、ミサイル基地を撤去しました。
動揺
アメリカとのキューバ危機を経て、フルシチョフは解任しました。後任には、ビレジネフがなりました。最初はアメリカと協調的な動きを見せました。アメリカと共に軍縮を行ったのです。
核拡散防止条約(NPT)、第1次戦略兵器制限交渉(SALT1)、第2次戦略兵器制限交渉(SALT2)が行われました。
このように軍縮へあゆみ寄せていましたが、ソ連は急にアフガニスタンへ軍事介入したのです。アフガニスタンの社会主義政権を助けるために支援したのです。これにアメリカは猛反発しました。このため、第2次戦略兵器制限交渉(SALT2)は白紙になってしまったのです。
このソ連に対して、東ヨーロッパの国々は離れていきました。アルバニアは、ホシャ政権のときにソ連と断交をします。ルーマニアは、チャウシェスク政権のときに、対ソ独自外交を行いました。ソ連と逆のことをするようなものです。
チェコスロヴァキアでは、民主化の運動が発生しました。これをプラハの春といいます。これにより、新しくドプチェク政権が誕生しました。しかし、ソ連の軍事介入があり、辞任してしまったのです。
新思考外交
ブレジネフの死後、アンドロポフ、チェルネンコと来て、ゴルバチョフが書記長になりました。彼は、ペレストロイカと呼ばれる改革に着手します。ソ連の自由化、民主化を目指す改革です。
しかし、就任した翌年には、ウクライナでチェルノブイリ原子力発電所事故が発生しました。これに、市民や外国は不安になります。そこで、持っている情報を公開していこうとグラスノスチ(情報公開)を行いました。
外交では新思考外交を展開します。冷戦関係を終わらせるために、アメリカに歩み寄っていきました。中距離核戦力(INF)全廃条約を締結し、アフガニスタンからも撤退しました。さらに、中国との国交を正常化します。
アメリカ合衆国の大統領がブッシュ(父)のときに、冷戦が終結しました。マルタ会談で、ソ連のゴルバチョフ書記長と共に冷戦の終結を発表します。さらに、ソ連との対立が終わったので、核兵器があまり必要にならなくなりました。そこで、第1次戦略兵器削減条約(STARTⅠ)が締結します。
略図
ジュネーヴ4巨頭会議
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アジア=アフリカ会議
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第一回非同盟諸国首脳会議
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↓
マルタ会談