今日は、第一次世界大戦後の中国です。ラストエンペラーですよ。
世界史チャレンジ。大学受験や教養、旅行の前になど。毎日少しずつ知っていこう。
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新文化運動
当時の中国の知識人は第一次世界大戦が始まって、さらに日本の干渉が強くなっていることにあせっていました。しかし、一部の人だけが焦っても意味がありません。そこで、多くの人々の意識を変えようと新文化運動が起こります。中でも人々に大きな影響を与えたのは、文学革命です。文学を通して、人々の意識を変えていこうとしました。
この活動の中心となったのは、北京大学の教授たちでした。その先駆けとなったのは陳独秀(ちんどくしゅう)です。彼は新青年という雑誌を刊行しました。この雑誌の中で民主主義と科学をスローガンに掲げました。中国の古い体制や儒学を批判したのです。
胡適(こてき)はその雑誌の中で白話運動を提唱しました。文語から口語に変えるべきだと提唱します。みんなが読めるようにわかりやすい表現にしようというものです。さらに、李大釗(りたいしょう)はマルクス主義研究会を創設して、中国に社会主義、共産主義の考え方を伝えました。
また、魯迅は、『狂人日記』『阿Q正伝』で民衆の無知でもたらす悲惨な現実をあらわにし、人々に意識を根底から変えていこうとしました。
国民党と共産党
パリ講和会議では、二十一カ条要求の破棄が認められませんでした。これに対して、北京大学の学生の中心に大規模なデモが発生します。そして、全国的な反帝国主義へ発展していきました。これを五・四運動といいます。
これを無視できなかった中国の軍閥政府はヴェルサイユ条約調印を拒否しました。この反帝国の運動を受けて、孫文が中国国民党を結成します。全国的な運動があるので、もう隠す必要はありません。大衆政党へ変えるべく中国革命党の名前を変えたのです。一方、陳独秀らは中国共産党を結成しました。
中国国民党は資本主義、中国共産党は社会主義で、この2つは本来思想は違いますが、目的は同じなのです。そのため、第1次国共合作が起こりました。中国国民党と中国共産党が力を合わせるということです。
孫文は「連ソ・容共・扶助工農」を掲げました。ソ連と連携し、共産党を受け入れ、中国の農業・工業を育てていこうということです。
この2つの党が目指すは国民革命の遂行です。そのためには、まず協力して軍閥を倒そうと考えました。その後、外国勢力を追い出していけばよいと思ったのです。
北伐
1925年、孫文が死にました。さらにその年に、上海の日本人が経営する紡績工場で労働者がストライキを行ったのです。たまたま居合わせたイギリス人の警察官が発砲してしまいました。これを五・三〇事件といいます。そして、これを受けて、全国な抗議が広がりました。こちらを五・三〇運動といいます。
ここでついに、北伐が開始されました。南から北に上がり、北京にいる軍閥政府を倒す動きのことです。まず、国民党と共産党は、広州国民政府を樹立しました。そして、2つのルートを取って、北京に向けて進んでいきます。
国民党と共産党は力を合わせていますが、国民党の中には共産党が嫌いな人もいました。反共的といいます。それが国民党右派で、指導者は蒋介石です。一方、共産党を受け入れる人は、国民党左派で、容共派といいます。指導者は汪兆銘です。このように、協力はしていても2つのグループに分かれていたため、ルートを2つに分けて進んだのです。
この後、蒋介石が率いた軍隊が上海クーデターを起こしました。共産党が嫌いな蒋介石が上海の街に入ったときに、共産党員を虐殺してしまったのです。なぜここまで、共産党が嫌いかというと、彼のバックには、帝国主義勢力や地主、浙江財閥がいたからです。つまりお金持ちの人と結託していました。お金持ちにとって社会主義は受け入れられないものです。そのため、このようなことが起こってしまいました。
上海クーデターによって、国民党と共産党の協力関係はなくなってしまいました。国共分裂です。そして、残った国民党のメンバーで、南京国民政府を樹立しました。そこで別ルートで行った国民党左派を呼び寄せました。
国民党だけで北伐を再開していきます。当時北京にいた軍閥政権は奉天派と呼ばれ、日本のあやつり人形でした。万が一軍閥が倒されると有利に働かないかもしれないと考えた日本は、山東出兵を行い、北伐軍を邪魔します。日本は居留民の保護を名目に出兵しました。
蒋介石はこれをうまくかわし、北京に入りました。奉天軍閥の首領、張作霖は、北伐軍に敗れて、逃亡します。彼が逃げる途中に、張作霖爆殺事件(奉天事件)が起こりました。日本の関東軍によって、張作霖が乗っていた列車が爆破され、殺害されてしまったのです。関東軍とは、遼島半島付近に駐留していた日本の軍隊です。
彼の死後、息子の張学良は、北京を開放し、北伐軍に降伏しました。これで、北伐は完成しました。
上海クーデターで国民党と分かれた共産党は、活動拠点を農村に移していきます。その際作られた軍のことを紅軍といいます。紅は共産党・社会主義の色ですね。そして、彼らは中華ソヴィエト共和国臨時政府を作りました。主席は毛沢東、都は瑞金です。
略図
↓ 袁世凱
二十一カ条の要求
↓
九カ国条約
↓
北伐
↓
張作霖を爆殺
↓
↓
盧溝橋事件