今日は宗教改革ですね。魔女狩りとかですかね。宗教とはいかに。
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地図
まずは、ヨーロッパの位置から確認しましょう。赤く囲まれた地域らへんがヨーロッパになります。
当時のヨーロッパ
最初に当時のヨーロッパの話からです。当時のヨーロッパはルネサンスや大航海時代が始まっていました。
ルネサンスとはこれまでの教会中心の考え方、神中心の世界観から離れて、人間中心の価値観を重んじるのものです。これにより、教会を批判する目が生まれました。
また、大航海時代で外の世界に出て行くと教会の言うことと違うことがたくさん出てきました。例えば、教会は地球が平らだと言っていましたが、本当は球体だったなどです。
ドイツ / 神聖ローマ帝国
宗教改革の始まりはドイツからです。当時は神聖ローマ帝国。赤で囲ってるあたりが神聖ローマ帝国の領土でした。
当時、教皇レオ10世はサン=ピエトロ大聖堂(→画像)の改築にあたり、教皇庁が財政難になります。そのため、贖宥状(免罪符)を販売しました。
それがドイツで売られていました。神聖ローマ帝国は皇帝より諸侯のほうが力が強かったので、教皇が好き勝手できたのです。「ローマの牝牛」と呼ばれていました。
ルター
この免罪符に対して、ヴィッテンベルク大学の神学部教授マルティン=ルター(→画像)が免罪符の否定をします。聖書主義を主張しました。聖書に書いてあることがすべてということです。免罪符は聖書に書いてないと主張したのです。
ルターは「人は信仰によってのみ義とされる」という信仰義認説を展開します。これは免罪符を買うという行為より信仰するによって救われるんだということです。
そして、これらをまとめた九十五カ条の議論を地元のヴィッテンベルク教会に貼り付けました。議論というのは文句のことです。これに対して、教皇レオ10世は、ルターを破門にしました。しかし、ルターは恐れるどころか対決する気まんまんです。
神聖ローマ皇帝カール5世(→画像)は、ヴォルムス帝国議会で、ルターに自説の撤回を求めます。神聖ローマ皇帝はカトリックの守り主、神の代理人というポジションだったからです。
しかし、ルターはこれを拒否します。そして、彼は帝国から追放されてしまったのでした。
その後、ザクセン選帝侯フリードリヒはルターを保護しました。神聖ローマ皇帝が嫌いだったからです。そして、ついに、ルターは、『新訳聖書』のドイツ語訳を完成されました。聖書はラテン語で書かれていたため、民衆は読めませんでしたがこれで読めるようになりました。この聖書はグーテンベルクが発明した活版印刷でさらにドイツに広まっていきました。
このルターの改革を支持するルター派が形成されていきます。聖書を信仰上の唯一の権威、信仰義認説を重視し、反教皇・反皇帝派から支持されました。そのため、皇帝や教皇が嫌いな諸侯はルター派に変わりました。カトリックとルター派に分かれたドイツ国内は、さらに混乱していきます。
1524年に、ドイツ農民戦争が起こりました。農奴制、領主制、十分の一税の廃止を要求したものです。この農民戦争をやがて、ミュンツァーが指導するようになりました。彼は、宗教改革を農奴解放、共有社会の実現と結びつけました。
ルターは、当初、農民に対して、同情的でした。しかし、保護を受けたザクセン選帝侯の立場を考えると、諸侯の立場を支持するしかありません。そのため、ルターは農民戦争を支持しなくなってしまいました。これ以降ルターの考えは農民には浸透しませんでしたが、諸侯には浸透していきました。
情勢
このように神聖ローマ帝国は内乱状態でしたが、2つの外の敵を戦わなければなりませんでした。
1つ目は、フランスです。イタリアをめぐり、皇帝カール5世と仏王フランソワ1世はイタリア戦争をしていました。このときに、神聖ローマ皇帝軍のローマ侵入と略奪により、イタリア=ルネサンスは衰退していきました。
2つ目はオスマン帝国です。オスマン帝国のスレイマン1世はハンガリーを併合してしまいました。神聖ローマ帝国に入ってくる寸前です。
そこで、カール5世は、ルター派を利用します。ルター派を容認します(1526)。そして、国内の結束と団結を重視しました。
オスマン帝国が、第1次ウィーン包囲(1529)をしますが、撃退に成功します。その後、皇帝カール5世は、ルター派を再禁止、弾圧してしまいました。
これにルター派は抗議文を提出しました。この時に、カトリックに抗議した人をプロテスタントといいます。そして、カール5世に対抗するために、ルター派の諸侯・都市は、シュマルカルデン同盟を結成しました。その後、シュマルカルデン戦争で皇帝の軍隊と戦いました。
この内戦を鎮めるために、妥協案が出されます。1555年にアウクスブルクの宗教和議が締結されました。ルター派が公認され、諸侯に対して、カトリック派かルター派かの選択肢を認めました。諸侯によって、決められるので、個人の信仰の自由、カルヴァン派の信仰は認められませんでした。
今までは、教会はローマ教会の支配でしたが、ルター派諸侯は、教会と住民への支配権を持つことになりました。これで諸侯は領土内の政治宗教の最高指導者になっていきます。これを領邦教会制といい、神聖ローマ帝国は分権化されていきました。
スイス
ツヴィングリは、カトリック教会を批判し、チューリヒで独自の改革運動を実施しますが、意見の相違からルターの協力を得られませんでした。そのため、最終的に孤立してしまい、カトリック諸侯との戦いで戦死してしまします。
このカトリックを批判する精神は、カルヴァンに引き継がれていきます。彼は『キリスト教綱要』で自らのキリスト教の考えを説明しています。その中で特徴的なのは予定説です。魂の救済は神によって、すでに決められているという考え方です。
しかし、すでに決められていては、今を生きていけません。そこで彼は、天職は神に与えられたものなので、それに励むと救われると答えます。これにより、キリスト教で初めて蓄財を承認されたのです。
当時のヨーロッパは、大航海時代によって、商人や職人が増えていました。その彼らにカルヴァンの考えは受け入れられました。お金を稼ぐことが良い事だという考え方をここで作ったのです。これが今の資本主義につながっていきました。
また、教会は牧師と信徒の代表の長老で行うべきだとする長老主義も主張しました。そして、ジュネーヴで神権政治を実施しました。
このカルヴァンの考え方は各地に広まっていきます。イングランドでは、ピューリタン、スコットランドでは、プレスビテリアン、ネーデルランドでは、ゴイセン、フランスではユグノーと呼ばれました。
イギリス
イギリスの宗教改革はヘンリ8世から始まります。そのため王に都合がいいようになっているのです。
カトリックは離婚は認められませんが、彼は、王妃カザリンと離婚したいと考えます。すると彼は、カトリックを辞めました。そして、国王至上法(首長法)を発布し、自分で新しい新しい宗教を作ってしまいました。イギリス国教会です。国王が教会を統制します。そして、修道院を解散し、没収した土地を新興市民に安く売り渡しました。このことで市民から人気を得ます。
次は、息子のエドワード6世です。彼は一般祈禱書を制定し、イギリス国教会の教義、制度を整備しました。
この後、メアリ1世のときに混乱があります。彼女はスペイン皇太子フェリペと結婚しました。スペインはカトリックの影響が強いので、カトリックが強制され、国教会は弾圧されました。
次は、エリザベス1世です。彼女は、統一法を制定し、イギリス国教会を確立しました。国王が国教会の聖職者を統制したのです。これでローマ教会の影響力は完全に排除されました。
対抗宗教改革
フランシスコ=ザビエルは、イグナティウス=ロヨラと一緒にイエズス会を作りました。イエズス会はカトリックの教えを世界に広げていこうとしました。また、ヨーロッパの再カトリック化を行おうとしました。
1545年には、トリエント公会議が行われました。教皇至上権、カトリック教義の再確認が行われました。また、禁書目録を制定し、怪しい人は宗教裁判にかけられ、魔女狩りが流行しました。
オランダ
当時、スペイン王フェリペ2世は自分がカトリックだったので、スペイン領のネーデルラントにカトリック信仰を強制します。さらに重税を課したのです。そこでオランダ独立戦争が始まります。
ネーデルラントの南部10州は、カトリック教徒が多いのですが、北部7州は、ゴイセンが多かったのです。
そのため、カトリックを強制されるのが苦でない南部10州は降伏します。しかし、北部7州はユトレヒト同盟を結成します。中心はホラント州で、指導者はオラニエ公ウィリアムです。ちなみにオランダの名前の由来はホラントから来ています。
ついに、1581年に、独立を宣言し、ネーデルラント連邦共和国が成立します。その後、1609年、休戦条約でオランダの独立が事実上認められました。
フランス
フランスでは、ユグノー戦争(1562~1598)が起こりました。当時国王はシャルル9世です。そして、その母后カトリーヌ=ド=メディシスは摂政を務めていた時代に、新旧両派の対立に、有力貴族の王権をめぐる政治闘争がからんで発展していきました。
1572年に、シャルル9世の妹とユグノーのアンリの結婚をパリで開催します。この結婚を祝うために集まってきたユグノーが虐殺されました。これがサンバルテルミの虐殺です。
その後、当時のフランス王が暗殺され、王家が途絶えたので、ブルボン家のアンリが国王に即位します。そして、彼はナントの王令を発布します。新教徒へ条件付きの信仰の自由を保障し、旧教徒とほぼ同様の権利を付与しました。これをもって、ユグノー戦争が終結しました。
三十年戦争
神聖ローマ帝国では三十年戦争(1618~48)がありました。きっかけはこうです。
新教徒(プロテスタント)の多いベーメンに対してハプスブルク家が旧教政策を実施します。それに対抗して、ベーメン反乱が起きます。これに新教徒が多いデンマークが助けにきますが、神聖ローマ帝国の傭兵隊長ヴァレンシュタインに敗北してしまいます。
次に、新教徒が多いスウェーデンが参戦します。国王グスタフ=アドルフはヴァレンシュタインを破りますが、敗北してしまいました。
さらに、フランスが参戦します。フランスはカトリックが多いのですが、ハプスブルク家の打倒のために新教徒を支援しました。宰相はリシュリューです。フランスとドイツはイタリア戦争をするぐらい仲が悪いのです。
最終的に三十年戦争はウェストファリア条約締結で終結します。この条約は基本的にはアウクスブルクの宗教和議の内容を再確認するのもでした。しかし、追加事項でカルヴァン派公認します。
さらに、スイス、オランダの独立を国際的に承認、フランスに対してアルザスを割譲しました。また、スウェーデンへバルト海南岸を割譲します。
そして、ドイツ国内の領邦にほぼ完全な主権を承認し、神聖ローマ皇帝の有名無実化してしまいました。指導権が皇帝ではなく、地域ごとにあるようになったということです。これ以降、ヨーロッパの国々は、主権国家体制を確立していきます。
略図
↓ レオ10世 ↓ ルター
九十五カ条の論題 1517年
↓
ヴォルムス帝国議会 / カール5世
↓
農民戦争
↓
シュマルカルデン同盟
トリエント公会議 ↓
アウクスブルクの和議 1555年
↓
三十年戦争 1618年
↓
○イタリア
↓
↓
テューダー朝 1485年
↓ ヘンリ7世
↓ ヘンリ8世
↓ エドワード6世
↓ メアリ1世
↓ エリザベス1世
ステュアート朝 1603年
今日はここまで。ではまた次回!