【教養のための世界史】ヨーロッパの再建

今日はヨーロッパの再建。 歴史が細かくなってきた。

世界史チャレンジ。大学受験や教養、旅行の前になど。毎日少しずつ知っていこう。

 

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イギリス

 イギリスはアイルランドを併合します。アイルランドでは多数がカトリックでした。そして、1828年、審査法が廃止されます。これにより、カトリック教徒を除く非国教徒の公職就任が可能になりました。しかし、まだカトリック教徒は除かれています。そして、翌年、カトリック教徒解放法カトリック教徒の公職就任が認可されました。宗教的な差別が緩和されていったのです。

 

 当時のイギリスでは産業革命が進展していました。これにより、産業資本家が台頭していきます。そして、彼らは選挙権を求めていきました。また、人口の都市集中化が起こっていきます。すると選挙区の不公正が起こり、腐敗選挙区が発生しました。

 

 そこでグレイ内閣第1回選挙法改正を行い、腐敗選挙区を廃止します。さらに産業資本家に選挙権を付与しました。これに対して、労働者はチャーティスト運動を行い、人民憲章を掲げます。第2回選挙法改正では、都市労働者に選挙権が付与されました。

 

 産業資本家たちは自由貿易主義を望みます。貿易に関して何も制限がないほうがいいと考えたのです。しかし、地主を守るために、対外輸入穀物へ関税をかける穀物がありました。これに、コブデンとブライトらが穀物法同盟を結成し、穀物法の撤廃を求めます。穀物の値段が高いと、それを買えるように従業員の給料を上げないといけないのです。これをいやがったのでした。

 

 さらにジャガイモ飢饉が発生しました。アイルランドの人たちは食べるものがありません。そして、ついに穀物法が廃止されました。

 

 自由貿易の完成にあたって、東インド会社の中国貿易独占権が廃止され、さらに、東インド会社の商業活動そのものも禁止されてしまいました。そして、航海法も廃止されました。これによって、貿易を制限するものがなくなりました。

 

 1837年から1901年ヴィクトリア女王の時代です。この時期は世界の工場と呼ばれました。また、世界で初めてロンドン万博博覧会が開催されます。やがて、パクス=ロマーナになぞらえてパクス=ブリタニカを呼ばれました。

 

  この時代には2つの政党が登場し始めます。1つ目は自由党で、旧ホイッグ党です。産業資本家・労働者の支持を受け、自由貿易主義、平和外交、そしてアイルランド自治に慣用的でした。

 

 2つ目は、保守党で、旧トーリー党です。地主・貴族の支持を受け、保護貿易、強硬外交、アイルランド自治に否定的でした。自由党と逆です。

 

 自由党の有名な首相はグラッドストンです。まず、教育法を制定しました。都市労働者に選挙法を与えられましたが、選挙に関することがわからなかったのです。そこで学校を作って教えました。

 

 さらに、労働組合を制定します。そして、第3回選挙法改正で農村・高山労働者に選挙権を付与しました。しかし、アイルランド自治法案は否決されてしまいます。

 

 保守党の有名な首相はディズレーリです。保守党は強硬外交をしました。まず、スエズ運河の支配します。ここはインドへの最短ルートだったからでうすね。そして、インド帝国の成立させました。また、ベルリン会議に参加します。グラッドストンは内政メインでしたが、ディズレーリは外交がメインでした。

 

フランス

 二月革命が発生して、国王のルイ=フィリップが亡命しました。そして、第二共和政がはじまります。王様がいなくなった代わりに臨時政府が発足しました。臨時政府では、社会主義者ルイ=ブランが労働者、失業者にスポットライトを当てて、改革を行っていきました。

 

 彼は男性普通選挙の公約し、国立作業場を作りました。しかし、四月普通選挙社会主義勢力は敗北してしまいます。農家や産業資本家の不満を買ってしまったのです。これにより国立作業場は閉鎖しました。

 

 その失業者は六月蜂起を行います。社会主義者や労働者らが蜂起しました。しかし、陸軍が鎮圧します。フランス国内はまとりません。

 

 そんな中、ルイ=ナポレオンが大統領に当選しました。ナポレオンの甥っ子です。彼は1851年クーデタを起こし、武力で議会を解散し、独裁体制を確立しました。武力で国内をまとめあげようとします。そして、クーデタを起こしても国民からは不満の声はあがりませんでした。彼の人気は上がっていきます。

 

 1852年、彼は皇帝に即位し、ナポレオン3世と名乗るようになりました。政治スタイルはボナパルティズムといいます。全フランス国民の利害対立を利用し、政権を維持しました。

 

 また、積極的な戦争を行います。クリミア戦争アロー戦争インドシナ出兵イタリア統一戦争です。これにより自分の強さを国民に見せるだけでなく、領土を拡大し、市場を増やしました。

 

 しかし、メキシコ出兵では失敗してしまいました。これにより人気が徐々に落ちていきます。そして、プロイセン=フランス戦争のスダンの戦いでフランスは敗れ、ナポレオン3世は捕虜になってしまいました。

 

 結果、第二帝政が崩壊し、第三共和政がはじまります。臨時政府が発足し、行政長官にティエールが選ばれました。ドイツとの休戦条約の締結を進めます。早く進めたかったので、ドイツの要求をすべて飲もうとしました。それに、パリの人たちは立ち上がります。パリ=コミューンが成立しました。至上初の労働者による自治政府です。しかし弾圧され、崩壊しました。

 

 ティエールは初代大統領になります。フランスは小党が分立し、対独後復讐感情が高まり、情勢は不安になりました。

 

イタリア

 当時のイタリアは様々な国に分かれており、統一が難しい状況でした。ロンバルディア(黄)、ヴェネツィア(黒)、南チロル(水)はオーストリアが持っています。

 

 ピンクのところは中部イタリアで小さな国が無数に存在しています。茶色は教皇領で、ローマ教皇の土地になります。この2つはフランス軍が駐屯していました。そして、青が両シチリア王国です。

 

 サルデーニャ王国(赤)がイタリアを統一するにはオーストリア、フランス、両シチリアをなんとかしないといけません。さらに、サルデーニャ王国には、サヴォイアとニースにはフランス人が多く住んでいました。

 

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 サルデーニャ王国は、巧みな外交でイタリア統一へ進んでいきました。国王はヴィットーリオ=エマヌエーレ2世で、彼を支えたのは首相のカヴールです。

 

 まずは、クリミア戦争へ参戦しました。これでサルデーニャ王国の国際的地位を向上させます。

 

 そして、イタリア統一戦争がはじまりました。オーストリアを戦い、ロンバルィアを獲得します。つぎに、サヴォイアニースを割譲する代わりに、中部イタリアを併合しました。

 

 ここでサルデーニャ王国にとって幸運なことが起こります。かつて、青年イタリアに所属していたガリバルディ赤シャツ隊を率いて両シチリアを征服しました。その後、両シチリアサルデーニャ王国に渡したのです。

 

 1861年、イタリア王国が成立しました。残りの地域を獲得しにいきます。しかし、カーヴルが病死したことで、戦略が変わりました。大きな戦争に便乗して土地を獲得していきます。普墺戦争ではヴェネツィアを、普仏戦争では教皇領を手に入れました。

 

 このように統一運動を起こしますが、すべての地域を回収できたわけではありません。それをまとめて未回収のイタリアといいます。トリエステや南チロルなどでした。この後、この地域をめぐって、イタリアとオーストリアの関係は悪くなっていきます。

 

ドイツ

 ドイツはキリスト教の宗派が原因で統一するのが大変でした。

 

 赤がプロイセン王国ドイツ統一の中心的存在になっていきます。そして、黄色はたくさんの国が存在している北ドイツ地域です。これらはプロテスタントでした。

 

 しかし、青の西南ドイツはカトリックでした。そのため、同じドイツ人が住んでいるのにプロイセンととても仲が悪かったのです。彼らはドイツに統一されるより、同じカトリックオーストリアに統一してほしいと思いました。

 

 さらに、となりにあるフランスはカトリック国家です。そのため、フランスとも戦わないといけない可能性もありました。

 

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 当時プロイセンの国王は、ヴィルヘルム1世です。彼は首相をビスマルクに任命しました。ビスマルクは鉄血政策を展開していきます。宗教の対立なので、話し合いでは解決できないと考えたのです。

 

 まずは、デンマーク戦争です。オーストリアを誘い、ドイツ人が多い、シュレスヴィヒ・ホルシュタインという地域を奪いました。オーストリアと共同管理する予定でしたが、ビスマルクは、これを撤回します。

 

 そのため、、プロイセン=オーストリア戦争が勃発しました。プロイセンが圧勝します。そのまま、プロイセンが盟主となり、北ドイツ連邦(赤)を発足しました。

 

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 敗れたオーストリアオーストリア=ハンガリー帝国になりました。領内のスラヴ人の反抗を抑えるために、ハンガリー自治を与えて昇格させました。このようにして領土の維持に努めました。

 

 オーストリアが敗れたにも関わらず、一緒にならない西南ドイツはフランスとくっついていると考えたビスマルクは次のターゲットをフランスにします。

 

 当時起きたスペイン王位継承問題を利用しました。スペイン王の後継者をめぐり、プロイセン王とフランス大使が会談をします。そこでの電報をビスマルクが改ざんし、ナポレオン3世を挑発して、報道しました。

 

 それで起こったが、プロイセン=フランス戦争です。ナポレオン3世はスダンの地で捕虜になりプロイセンが勝利しました。後ろ盾のいなくなった西南ドイツを合わせて、ドイツ帝国が成立しました。

 

 ドイツ帝国の初代皇帝はヴィルヘルム1世、帝国宰相はビスマルクになりました。ドイツ帝国の政治システムは、連邦参議院帝国議会があります。連邦参議院は帝国各地の代表者で構成されたもので、立法や条約を話し合う組織です。帝国議会は、全ドイツの25歳以上の男性普通選挙で選ばれた人々が予算を審議しました。

 

 ようやく、フランスとの講和条約を締結します。プロイセン=フランス戦争の結果、多額の賠償金とアルザス・ロレーヌ地方を獲得しました。ここは、鉱山地帯で、地下資源が豊富な地域です。

 

 これにより、ドイツは第2次産業革命が進展していきます。そして、ビスマルクは保護関税法で、外からの輸入物に関税をかけ、国内の産業を保護しました。1880年代には、工業生産数は世界第2位になります。

 

 産業が成長するためにはドイツ帝国としての団結力が必要です。そのため、団結を揺るがすものをビスマルクは排除していきます。

 

 西南ドイツのカトリックは領土に組み込まれましたが、合法的に抵抗していきました。ビスマルクはこれに圧力をかけます。これを文化闘争といいます。

 

 また、世界最初の社会主義政党であるドイツ社会主義労働者党が出来ました。そのため、資本家と労働者が対立するかもしれません。これに対して、社会主義者鎮圧法を制定して、これらを非合法な政党にしました。

 

 さらに、ビスマルク疾病保険制度、災害保険制度、養老保険など、社会政策を整備します。これにより、労働者が社会主義になることを防ぎました。

 

 当時のヨーロッパの情勢を確認しましょう。

 

 プロイセン=フランス戦争の結果、ドイツとフランスはとても仲が悪いのです。オーストリアとロシアはバルカン半島への進出を企んでいたので、この2つも仲がよくありません。さらに、未回収のイタリアがあるので、イタリアとオーストリアは仲がよくありません。ヨーロッパはこのような状況でした。

 

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 フランスと手を組まれると脅威になるのは、ロシアとオーストリアです。それは戦争になったときに挟ませてしまうからです。そこで、まず、ドイツ、オーストリア、ロシアで三帝同盟を結びました。

 

 しかし、オーストリアとロシアがバルカン半島をめぐって争ったベルリン会議では、ドイツがオーストリアの味方をしたことで三帝同盟は事実上崩壊してしまいました。

 

 そこで、再度同盟を結ばないといけません。まず、オーストリアと独墺同盟を結びました。ロシアと戦争するときは助けるというものです。これでロシアに圧力をかけました。そこでロシアはもう一度、新三帝同盟を結んだのです。さらに、ドイツは周りの国々に手を広げていきます。

 

 当時フランスは、チュニジア保護国化しました。そこはイタリアが狙っていたところです。ここで、フランスとイタリアが対立していきます。これに目をつけたビスマルクは、イタリアに迫っていきました。そして、ドイツ、オーストリア、イタリアで三国同盟を結びます。

 

 回りの国と同盟を結んでいきましたが、ロシアとオーストリアが再度対立しました。新三帝同盟も崩壊してしまいます。

 

 ドイツはロシアと同盟を結ばないと困ります。そこで、ロシアと秘密条約(再保障条約)を結びました。ロシアとオーストリアが戦争になっても中立を守るというものです。これでロシアをつなぎとめました。

 

 圧倒的な工業力と軍事力があるイギリスは19世紀後半以降、光栄ある孤立を保ちました。どことも手を結ばなかったのです。

 

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 略図

○フランス

七月王政

第二共和国

第二帝政

第三共和国

 

○イギリス

ハノーヴァー朝

↓  東インド会社

↓  審査法の廃止

↓  第1回選挙法改正

穀物法、航海法の廃止

イギリス(ウィンザー朝)

 

○イタリア

ウィーン議定書

 カルボナリ

ローマ共和国

クリミア戦争

イタリア王国

 

プロイセン

ウィーン会議

↓ ヴィルヘルム1世 / ビスマルク

↓ 仏墺戦争

ドイツ帝国