【教養のための世界史】イギリス革命

今日はイギリス革命です。イギリスに焦点が当たります。鏡にして覚えるんでしたっけ。

 世界史チャレンジ。大学受験や教養、旅行の前になど。毎日少しずつ知っていこう。

 

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地図

 まずは、イギリスの位置を地図で確認しましょう。赤で囲まれた箇所がイギリスになります。

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対立

 エリザベス1世は生涯独身だったため、テューダー朝が途絶えてしまいました。そこで血のつながりのあるスコットランド王でもあったジェームズ1世を呼び寄せ、ステュアート朝を創始しました。

 

 彼はイギリスの伝統的な政治を知りません。そのため、王権神授説を信じ、専制政治を実施します。これにより議会から不満を買いました。さらに、イギリス国教会の強制をします。それにより、ピューリタンが不満を抱きました。

 

 次は彼の子どものチャールズ1世です。彼も父と同じく、王権神授説を信じ、イギリス国教会を強制しました。これに我慢ができなくなった議会は、権利の請願を提出します。それに対して、チャールズ1世は議会を強制的に解散させてしまいました。

 

 その後、地元のスコットランドで反乱が起きてしまいます。イギリス国教会強制したからです。鎮圧には、軍隊を集めるのにはお金が必要です。そのため議会を開かなければなりません。そこで、短期議会を招集しました。しかし、議会側に増税の反対されたのですぐ解散してしまいます。

 

 結局、スコットランドの反乱では、負けてしまい賠償金を払わないといけなくなりました。そのため、長期議会を招集したのです。議会側は様々な改革を要求します。しかし、チャールズ1世は反発し、王党派と議会派の対立が顕著になっていきました。

 

ピューリタン革命

 王党派は国王支持派です。議会派は議会による改革の推進を支持します。議会派は3つに分かれます。長老派、独立派、水平派に分かれます。長老派は立憲王政と長老派教会を目指します。独立派は制限選挙による共和政を目指します。水平派は普通選挙による共和政を目指しました。

 

 1642年に内乱が始まりました。当初は王党派の優勢でした。しかし、議会派の独立派クロムウェルが軍を率いて、圧勝していきます。最終的に、ネーズビーの戦いで議会派が勝利しました。その後、チャールズ1世を処刑しました。

 

クロムウェル

 1649から60年にかけては王様のいない共和政でした。クロムウェルが中心で改革を進めますが、そのやり方は独裁でした。

 

 まず、アイルランド征服を行い、イギリス人不在地主へ土地を分配しました。さらに、スコットランド征服では、まだ残っていた王党派を討伐しました。

 

 さらに、航海法を発布します。イギリスへの商品の輸出入は自国船か相手国船に限定するものです。直接貿易しかできないということです。そのため。当時、中継ぎ貿易国であったオランダが反発します。そして、イギリス=オランダ戦争が起き、イギリスが勝ちました。

 

 その後、クロムウェルは議会を解散させ、護国卿に就任し、軍事独裁政治を断行しました。ピューリタンは非常にまじめで、娯楽をほとんどしません。クロムウェルピューリタンであったため、市民は娯楽を制限されていきます。これに人々の不満は募っていきました。

 

復活

 クロムウェルの死後です。クロムウェルより王様がいたほうがいいのではないかと思うようになります。そのため、王政復古が行われ、亡命先のフランスからチャールズが帰国し、チャールズ2世が即位します。彼は、専制政治カトリックの復活を宣言しました。ルイ14世の影響を受けてカトリックを復活したかったのです。

 

 これに対して、議会は王の力を弱めようと審査法、人身保護法を制定しました。審査法は、公職就任者は国教徒に限定するものです。人身保護法は、不当な逮捕、拘禁を禁止するものです。

 

 その後、彼の弟ジェームズの王位継承問題が発生します。弟に王位を渡すか渡さないかで議会の意見が真っ二つに分かれました。トーリ党ホイッグ党です。トーリ党は後の保守党で即位賛成派です。ホイッグ党は後の自由党で即位反対派です。多数決の結果、トーリ党の意見が採用されました。

 

 次のジェームズ2世です。彼もカトリックを保護し、専制政治を強化するなど、改善が見られません。そこで議会は、オランダ総督と妻メアリを国王として招致します。そして、ジェームズ2世は亡命します。これは流血騒ぎにならなかったことから名誉革命と呼ばれます。

 

 オランダ総督と妻メアリは次の王様に即位します。ウィリアム3世とメアリ2世です。彼らが即位するにあたって、権利の宣言を発表します。これは、議会の承認による課税や自由な討論、恣意的な逮捕や裁判の禁止を認めるものです。さらに、権利の章典として、権利の宣言を成文化します。ここで、立憲王政が確立しました。

 

 次は、アン女王です。今まで、同君連合だったイングランドスコットランドが合同し、ブリテン王国になりました。彼女の死後、ステュアート朝は途絶えてしまいました(1714)。

 

  アン女王の死後、彼女と血つながりがあるハノーヴァ選帝侯(ドイツ)ジョージ1世として即位します。彼は英語を話せず、イギリスの慣習も分からず、政治も無関心でした。

 

 そこで王に代わって、政務を担当する組織が作られていきます。それが内閣です。議会内の多数党によって組織され、内閣は議会に対して責任を負います。責任内閣制です。

 

 この責任内閣制の始まりはイギリス初代首相のウォルポールです。ここから「王は君臨すれども統治せず」の原則がここで生まれました。

 

 

略図

テューダー朝

ステュアート朝

↓ ジェームズ1世

↓ チャールズ1世

↓ チャールズ2世

↓ ジェームズ2世

↓ メアリ2世とウィリアム3世

ハノーヴァー朝

イギリス(ウィンザー朝)