【教養のための世界史】 プロイセン・オーストリア・ロシアの主権国家体制

今日は、プロイセンオーストリアとロシアの主権国家体制の成立ですね。

ロシアの始まりを答えられる人はあまりいないのではないか。

 世界史チャレンジ。大学受験や教養、旅行の前になど。毎日少しずつ知っていこう。

 

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オーストリア

 ベーメンの新教徒たちの反乱をきっかけにはじまったドイツ三十年戦争は、いろんな国々の介入に加え、ウェストファリア条約によって終結します。この条約で、神聖ローマ帝国は約300の領邦に解体されました。

 

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 オーストリアは代々神聖ローマ帝国の皇帝を兼任していました。そのため、この条約によって、皇帝の存在は無意味になり、神聖ローマ帝国の仕事がなくなるので、オーストリアの経営に専念できるようになりました。よって、オーストリアの全盛期はここから始まります。

 

 オーストリアの全盛期を象徴するものは、オスマン帝国との抗争で撃退したことです。第2次ウィーン包囲カルロヴィッツ条約により、ハンガリーなどの東欧諸地域を獲得しました。

 

 オーストリアの発展に貢献したのは、マリアテレジアでした。彼の父カール6世は、男子の継承者がいませんでした。そのため、女子も帝位を継承できるよう法令を制定します。それで、マリアテレジアが継承しました。

 

 女性が皇帝をつとめるのに反対した国々が出てきます。そのため、オーストリア継承戦争が起こりました。マリアの即位に他のドイツ諸侯が反発する形で起こりました(プロイセンバイエルン選帝侯、ザクセン選帝侯、スペイン)。オーストリアにはイギリスが付いたので、仲が悪いフランスが敵になりました。結果、アーヘン条約でマリア=テレジアのオーストリア継承権が認められることになります。しかし、プロイセンへ石炭と鉄の産地のシュレジエンを割譲することになりました。

 

 この地域はなんとしても取り返したので、フランスと仲良くしなければなりません。シュレジエン奪回を目指し、オーストリアがフランスに接近します。これにより、イタリア戦争以来の長年の対立がここで終わりました。これを外交革命といいます。このときに、マリア=テレジアは人質として自分の娘をフランスへ嫁がせます。それがマリー=アントワネットです。

 

 これに危機感を抱いたプロイセンオーストリアに宣戦布告します。七年戦争です。オーストリアは、フランスに加え、同じ女帝のロシア、スウェーデンが支援しました。一方、プロイセンに味方をしたのはイギリスだけでした。

 

 戦争の途中です。もう少しでプロイセンを倒せるところでロシアの女帝が途中で病死しました。次のピョートル3世は、当時のプロイセン王、フリードリヒ2世の大ファンです。戦況が変わりました。ロシアが同盟を切って、プロイセン側につきます。フランスは植民地戦争でイギリスに負けます。そして、領土はそのままで良いということで戦争が終わりました。マリア=テレジアは敗北してしまいます。

 

 次は、ヨーゼフ2世です。彼は啓蒙専制君主と呼ばれます。啓蒙主義とは、理性を使って合理的な改革を行うということです。彼は上からの近代化を試みました。たとえば、農奴解放令宗教寛容令です。

 

 ところが、この改革には、多くの貴族が反発をして、どちらの改革も失敗に終わってしまいました。そのため、近代化に失敗し、昔の体制が残ったままでした。

 

プロイセン

 プロイセンは、2つの国が合体してできたものでした。1つ目は、ブランデンブルク選帝侯国です。もともと12世紀前半に成立した国で、15世紀前半からは、ホーエンツォレルン家が支配を行った国でした。

 

 2つ目は、ドイツ騎士団領です。もともと、13世紀前半、バルト海沿岸への東方殖民によって成立した国でした。16世紀前半に、ルター派を受け入れて、カトリックをやめます。その時に名前もプロイセン公国としました。

 

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 スペイン継承戦争では、神聖ローマ皇帝側を支援します。そして、1701年、王国へ昇格しました。2つを合体して、プロイセン王国と呼ぶことになります。この後、プロイセンはドイツ最強の国家にまでなります。

 

 ドイツ最強の国家にしたのは、フィリードリヒ=ヴィルヘルム1世です。彼は、「兵隊王」と呼ばれ、軍備を拡張し、官僚機構の整備をして、絶対王政の基盤を作りました。

 

 次は、フリードリヒ2世です。彼は啓蒙専制君主と呼ばれました。「君主は国家第一の僕」という言葉も残しています。また、彼に啓蒙的思想を与えたのは、ヴォルテールだといわれています。

 

 彼は、まず、農場領主制(グーツヘルシャフト) と呼ばれる制度を実施します。西ヨーロッパへの輸出用穀物を作ることを目的にして、領主が農民を農奴化し大農場経営を実施しました。当時西ヨーロッパでは、大航海時代以降、商工業活動にシフトする人が多くなっていました。そして、このグーツヘルシャフトを行っていた人をユンカーといいます。エルベ川以東の領主貴族です。これをフリードリヒ2世が支援し、プロイセンの経済活動を維持していました。

 

 また、ポツダムサンスーシ宮殿を建設しました。そして、オーストリア継承戦争七年戦争シュレジエンを獲得し、第1回ポーランド分割に参加し、領土を拡大していきました。

 

 ロシア

  当時ロシアにはモスクワ大公国という国がありました。この国はビザンツ帝国が滅亡したときに、そのビザンツがもっていた制度をすべて引き受けました。イヴァン4世の時には、ツァーリの称号を正式に採用しました。彼は、コサックの首領イェルマークにシベリアへ進出させます。コサックとは、ロシアの南側に住んでいた騎馬民族、農民たちのことです。

 

 彼の後、王家が断絶します。そのため、ミハイル=ロマノフロマノフ朝を創始します。彼は、農奴制を強化しました。彼の死後、ステンカ=ラージンの反乱という農民反乱が発生しますが、鎮圧されます。

 

 次は、ピョートル1世です。彼の時代にロシア帝国と呼ばれるようになります。彼はイギリス、オランダ、フランスに対抗するために、自国を強くするにはどうしたらいいか考えます。そこで彼は、西欧使節団を派遣させました。そして、皇帝自らも参加しました。そこでロシアはあるものを手に入れないといけないと考えます。それが貿易ルートです。

 

 スウェーデンに宣戦布告し、北方戦争が起こりました。スウェーデン王カール12世を破りました。さらに、ペテルブルクへ遷都します。そして、戦争で勝利をおさめ、バルト海の覇権を獲得しました。

 

 次は、オスマン帝国からアゾフ海を奪い、清とネルチンスク条約で東側に領土を拡大していきました。これでロシアの発展の基盤ができました。

 

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 この後、イカチェリーナ2世が登場します。彼女は啓蒙専制君主です。彼女は、学芸の保護、教育改革・法治主義への移行など様々な改革をしました。さらに、農奴制を強化しました。彼女はロシアの産業基盤は農業活動なので、農民たちには農業に従事させておきたいと思ったからです。これに対して、プガチョフの農民反乱が起きますが、鎮圧されます。

 

 彼女は、クリミア半島を領有します。そして、ラクスマンを派遣し、根室へ来航さます。さらに、ポーランド分割しました。コシューシコが抵抗運動しますが、鎮圧されます。このように積極的な対外政策を進めていきました。

 

略図

プロイセン(ドイツ)

神聖ローマ帝国(ハプスブルク朝)

↓ アウクスブルグの和議

三十年戦争

ウェストファリア条約

プロイセン王国

↓ フリードリヒ1世

↓ フリードリヒ=ヴィルヘルム1世

↓ フリードリヒ2世

ドイツ帝国

 

オーストリア

ベーメン王国

オーストリア大国国

↓ カルロヴィッツ条約

↓ マリア=テレジア

オーストリア帝国

 

○ロシア

キプチャク=ハン国

モスクワ大公国

リューリク朝

ロマノフ朝

↓ ピョートル1世

↓ エカチェリーナ2世

ソヴィエト連邦