今日はナポレオンの時代。みんなナポレオンが好きね。
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統領政府
ナポレオンは総裁政府を倒し、統領政府を作ります。統領政府はリーダーが3人います。3人のリーダーの中でもナポレオンは第一統領に就任しました。事実上の独裁官です。
さらに、ローマ教皇と和解し、カトリック信仰を正式に復活しました。第一身分は聖職者ですので、フランス革命はキリスト教に敵対する革命でもあったのです。そして、アミアンの和約でイギリスと休戦させ、第2回対仏大同盟で解散させました。
1804年には、ナポレオン法典を作ります。私有財産の不可侵、契約の自由などを規定しました。フランス革命で得た成果を法にした形です。これらにより、人気はさらに上がっていきます。
国民投票によって、ナポレオンが皇帝に即位し、ナポレオン1世と呼ばれるようになりました。この時代を第一帝政といいます。
ナポレオンの皇帝即位に警戒し、イギリス、オーストリア、ロシアは、第3回対仏大同盟が結成しました。ナポレオンはこれと戦いを始めます。トラファルガーの海戦です。英提督ネルソンに敗北してしまいました。しかし、アウステルリッツの三帝海戦で、ロシアとオーストリアを撃破しました。この結果、第3回対仏大同盟は消滅したのです。
1806年、ナポレオンはライン同盟を結成しました。西南ドイツ諸侯とナボレオンの同盟です。これにより、神聖ローマが消滅してしまいました。
次に、大陸封鎖令と発布しました。大陸諸国とイギリスの通商や交通を全面的に禁止しました。プロイセンを倒し、ベルリンで発表したため、ベルリン勅令とも言われます。
そして、敗れたプロイセンはティルジット条約で莫大な賠償金と領土の大半を割譲させられました。このようにナポレオンはヨーロッパ各地に遠征していったのです。
終焉
ヨーロッパ各地ではナポレオンを追い出す動きが出てきます。プロイセンでは、首相シュタイン、ハルデンベルクは、近代化のため、農民解放、行政機構の改革、営業の自由化などを行いました。さらに、フィヒテは「ドイツ国民に告ぐ」でフランスに対する危機感を大々的にアピールしていきます。
スペインでは、ナポレオンの兄が国王に即位したことに対して、農民が主体となってゲリラ戦で抵抗しました。このときの絵がゴアが書いた1808年5月3日です。
ロシアはナポレオンの命令(大陸封鎖令)に違反して、イギリスと貿易をしていました。これに対して、ナポレオンはロシア遠征をします。しかし、ロシアの焦土戦術により失敗しました。焦土戦術とは、ナポレオン軍が町に入ってきた瞬間に町ごと焼き払ったのです。これにより60万人もいた軍が壊滅状態となりました。
ナポレオン軍をつぶすなら今だという空気がヨーロッパに漂っていきます。そして、ライプツィピの戦いが起こります。ヨーロッパの連合軍がついにナポレオンを破りました。ナポレオンは皇帝を退位し、エルバ島へ島流しになります。
ナポレオンが居なくなったフランスでは、ブルボン朝が復活します。絶対王政が復活したのです。フランスの市民はもちろん嫌がります。これに対して、ナポレオンはエルバ島を脱出し、パリに帰国し、再度皇帝に復活しました。
ナポレオンが復活したことで、ヨーロッパの国々が再び攻めて行きます。ワーテルローの戦いで負けてしまって、ナポレオンは再度退位し、セントヘレナ島へ流刑になってしまいました。
ナポレオンが各地を支配したことで、自分は○○人だからフランスに支配されるのはおかしいという感情が出てきます。このナポレオンの時代は、国民意識が芽生えていった時代でもあったのです。
略図
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