【教養のための世界史】冷戦の展開

今日は、冷戦の展開です。1周目の終わりが見えてきました。

世界史チャレンジ。大学受験や教養、旅行の前になど。毎日少しずつ知っていこう。

 

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青い文字をクリックすると関連した画像検索や記事に飛びます。絵や写真だったり、続きの話、前の話です。気になったらさっと見てみましょう。

 

戦後処理

 中でも慎重に管理されたのがドイツです。また同じようなことが繰り返さないように徹底的に管理されました。まず、ナチ党の幹部を裁きます。それがニュルンベルク裁判です。中には、処刑や終身刑になる人もいました。

 

 そして、世界大戦が終わった後のドイツを4カ国で分割で管理することが決まりました。アメリカ、イギリス、フランスは西側、ソ連は東側を管理します。さらに首都のベルリンも分割管理されました。ここは西側ドイツと専用道路を通って行き来することができます。ベルリンは東側にありますが、都なのでソ連1国に任せるわけにはいかないので、このような方式になりました。

 

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 オーストリアは、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の4カ国で管理されました。しかし、ドイツほど厳重には管理していません。そのため、10年後、オーストラリア国家条約で、主権が回復しました。ただし、永世中立国となることが定められました。

 

 イタリア、ルーマニアブルガリアハンガリーフィンランドは、パリ講和会議で、領土変更や賠償金が決められました。

 

 日本では、東京裁判(極東国際軍事裁判)が開かれました。ここでは、太平洋戦争を始めた東条英機らが裁かれました。裁いていった後、戦後の日本は、GHQ(連合国軍総司令部)が支配します。最高司令官はマッカーサーで、日本政府を通じて日本国民を間接的に支配しました。

 

 彼らは、また戦争を起こさせないように日本の非軍事化と民主化を進めました。軍隊を解散させ、地主の土地を農民に分配させる農地改革や、財閥解体を実施します。さらに、日本国憲法を発布しました。この中には、戦争放棄国民主権象徴天皇制が書かれています。

 

 1951年、サンフランシスコ講和会議で、日本と連合国との講和条約が話され、サンフランシスコ平和条約で日本は主権を回復しました。

 

国際連合

 第二次世界大戦中から戦後の国際平和構想が立てられていました。大西洋上会談で基本方針が示され、ダンバードン=オークス会議で形になりました。アメリカ、イギリス、ソ連、中国の代表者により、「国際連合憲章」の原案が作成されます。

 

 ヤルタ会談では、常任理事国に拒否権が与えられることが決められ、サンフランシスコ会国際連合憲章が発表され、国際連合が創設されました。

 

 本部をニューヨークに置きました。総会では、加盟各国1票の投票権をもつ多数決制が採用されます。そして、最も大きい権限を持っている安全保障理事会にはアメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中国の常任理事国と定期的にメンバーが入れ替わる非常任理事国で構成されました。常任理事国拒否権を持っており、1ヶ国でも反対すれば、否決されてしまいます。

 

 他にも組織があります。経済社会理事会、国際労働機関(ILO)、国際司法裁判所ユネスコ世界保健機関(WHO)などがあります。

 

経済

 第二次世界大戦のきっかけは、世界恐慌でした。そのためこの反省を踏まえてアメリカが中心となり、戦後の経済秩序の再建を行っていきます。第二次世界対戦中、アメリカのブレトン=ウッズで会議が開かれました。

 

 これは戦後の経済を決める会議です。この会議で、国際通貨基金(IMF)国際復興開発銀行(IBRD)が創設されることになりました。IBRDは戦後の復興のための組織で、IMFは緊急時に経済援助を行う組織です。

 

 アメリカは大戦の被害は少ないので戦後はアメリカのドルが中心になっていきました。ドルと各国通貨の交換比率を固定する固定為替相場が導入されます。日本では1ドルにつき360円と固定されました。一定に保つことで、経済を安定させることができたのです。このような戦後の新しい経済体制をブレトン=ウッズ国際経済体制といいました。

 

 さらに、アメリカが中心となって、ガット(GATT関税および貿易に関する一般協定)と呼ばれる協定が発効されました。ブロック経済を反省して、自由で平等な国際貿易を目指すために作られたのです。1995年には、世界貿易機関(WTO)へと発展しました。自由貿易拡大のためのルール作りを行い、経済のグローバル化を促進に動いています。

  

冷戦

  第二次世界大戦後、アメリカのように資本主義経済を維持し、政治的には民主政治を取る国々を資本主義陣営といいます。彼らが警戒するのは社会主義です。

 

 それを警戒してアメリカのトルーマントルーマン=ドクトリンを発表しました。ギリシアとトルコを援助し、領国の共産主義化を阻止すると表明したのです。地理的に大事だったのです。ここは、アジアやアフリカの境界線にあたる場所だったのです。ここがソ連のような国に代わってしまった場合、周りの国に波及していく恐れがあったのです。そのため、トルーマンは阻止したかったのです。

 

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 アメリカの国務長官マーシャルは、マーシャル=プラン(ヨーロッパ経済復興援助計画)を提案しました。全ヨーロッパを対象とした経済援助を表明したのです。早く国を立て直して、社会主義革命が起きるのを防ごうと考えました。

 

 一方、ソ連中心の社会主義陣営は、コミンフォルムを発足します。これは各国の共産党が集まって情報交換を行うための組織です。また、ソ連がリーダーとなって他の国々に指示を出す場としても使われていました。しかし、一カ国だけソ連の言うことを聞かない国がありました。ユーゴスラヴィアです。途中で除名処分になりました。

 

 このように、資本主義陣営と社会主義陣営の対立があらわになっていきました。

 

 資本主義陣営であったチェコスロヴァキアでクーデタが起こりました。共産党がクーデタを起こし、当時の大統領が辞任します。そして、共産党政権が発足し、ソ連側についてしまいました。ナチスドイツに占領されていたチェコスロヴァキアを解放したのはソ連だったので、ソ連に対して友好的だったのです。

 

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 地理的にもこのままでは、社会主義勢力が西欧に波及していくかもしれないと考えた資本主義陣営は西ヨーロッパ連合条約(ブリュッセル条約)を結びました。イギリス、フランス、ベネルクス3国の計五カ国が軍事同盟を結んだのです。ベネルクス3国とはベルギー、オランダ、ルクセンブルクのことです。

 

ドイツ

 当時のドイツでは、4つの国で管理していました。そんな中、ドイツの西側地区で通貨改革が実施されます。独立の準備を始めたのです。これはソ連に無断で行われたので、ソ連は反発しました。

 

 ソ連は、ベルリン封鎖を行います。西ベルリンへの交通を遮断しました。アメリカはこれに対して、空輸することによって1年以上に渡り物資を送り続けたのです。

 

 ついに、ベルリン封鎖が解除され、それぞれが独立しました。西側は、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)に、東側は、ドイツ民主共和国(東ドイツ)として独立します。

 

 西ドイツの初代首相はアデナウアーです。彼は奇跡と呼ばれる経済復興を実現しました。

 

対立

 資本主義陣営はヨーロッパ経済協力機構(OEEC)を発足させました。これはマーシャル=プランの受け入れ機関として作られたものです。

 

 一方、社会主義陣営は、コメコン(経済相互援助会議、COMECON)を発足させました。これは、ソ連を中心とする社会主義国の経済会議で、マーシャル=プランとOEECに対抗するために作られたものです。このように経済的な対立が生まれてしまいました。

 

 さらに、資本主義陣営は、北大西洋条約機構(NATO)を発足させました。アメリカを中心とした12カ国の反共軍事同盟です。西ドイツも後に加盟しました。

 

 NATOが結成された直後に、ソ連は核実験を成功させました。アメリカに次ぐ世界で2番目の核保有国になったのです。そして、そのソ連を筆頭にワルシャワ条約機構が発足しました。NATOに対抗する形で作られた軍事同盟です。このように、経済だけでなく、軍事的な対立も生まれたのでした。

 

 

 

略図

鉄のカーテン

マーシャルプラン

NATO

朝鮮戦争

ワルシャワ条約機構