【教養のための世界史】ファシズムの台頭

今日はファシズムの台頭です。ヒトラーの映画で面白いのありましたね。なんでしたっけ。

世界史チャレンジ。大学受験や教養、旅行の前になど。毎日少しずつ知っていこう。

 

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青い文字をクリックすると関連した画像検索や記事に飛びます。絵や写真だったり、続きの話、前の話です。気になったらさっと見てみましょう。

 

 ナチ党

 ナチ党の正式な名前は国民社会主義ドイツ労働者党です。国民社会主義とは資本主義で発生した様々な問題点を国家を中心として解決していこうというものです。そして、このナチ党の指導者はヒトラーです。彼は、反ユダヤ主義、反共産主義で、植民地の再配分を目指しました。彼の思想や行動力で中間層や軍部から支持を受けます。

 

 ナチ党の活動にあたって、突撃隊(SA)親衛隊(SS)を組織しました。後にゲシュタポ(秘密警察)が創設されます。スパイですね。このようにヒトラーは自分の反対派を抑圧していきました。

 

 彼は、ミュンヘン一揆ヴァイマル政府の打倒を掲げ、政権獲得を目指しクーデターを起こしました。しかし、失敗に終わります。ここから彼は合法的な手段で政権を獲得を目指すようになります。

 

 当時のドイツはヒンデンブルク大統領でした。この時代に世界恐慌によって、ドイツ経済が破綻していきます。彼は効果的な対策が打てませんでした。国民はナチ党に期待を寄せるようになります。

 

 1932年選挙ナチスが第1党になります。第2党は社会民主党、第3党は共産党です。世界的な恐慌が共産党の支持を促してしまいました。そして、ヒンデンブルクヒトラーに政権を譲りました。

 

 1933年ヒトラー内閣が発足します。しかし、ヒトラーは内閣を作った直後に、即座に国会解散宣言しました。そして、選挙活動中に、国会議事堂放火事件が起こりました。前オランダの共産党員ルッベが放火したといわれます。彼とドイツ共産党とのかかわりについては審議不明です。

 

 しかし、ヒトラーは、この事件をきっかけにドイツ共産党の危険性を国民に訴えます。そして、共産党を弾圧し、共産党が持っていた議席数をナチに吸収していきました。

 

 議席数を伸ばしたヒトラーは、全権委任法を制定します。政府に立法権を委ねるというものです。好きなときに法律を作ることができるようになったのです。これで彼は行政、立法の2つの力を握ったことになりました。これでヴァイマール憲法は事実上停止され、ヒトラーが権力を握ったドイツは第三帝国と呼ばれるようになります。

 

 全権委任法が制定された後、ヒンデンブルクが死にます。そのため、大統領、首相、党首の全権を握ったことになります。彼は総統フューラーと呼ばれるようになりました。

 

 彼は、経済政策を通じて国民の支持を得ました。まず、アウトバーンの建設を行います。アウトバーンとは、ドイツとオーストリア間を接続した高速自動車道路網のことです。これは一種の公共事業として失業者に仕事を与えました。

 

 さらに、1930年代後半からは、四ヵ年計画で軍事優先の生産活動を行いました。武器を作る工場での仕事を失業者に与えます。これらにより失業者は減って国民の支持を得たのでした。

 

 また、彼は国民主義(ナショナリズム)を利用した国民のまとめ方を採用していきます。ドイツ人はみな仲間という考え方です。そして、それ以外の民族を敵視させたのです。中でもユダヤを敵視しました。

 

 ナチスドイツで行われたユダヤ人大虐殺をホロコーストといいます。各地にゲットーという強制隔離居住区を作り、ユダヤ人をそこに押し込めていきました。また、強制収容所を各地に設立し、そこへ送り、ユダヤ人絶滅させようとしたといわれています。

 

 現在でもナチスドイツが作った強制収容所が、負の遺産として、ポーランド南部のアウシュヴィッツにあります。悲惨な歴史としてユネスコ世界遺産として登録してあるのです。

 

軍備拡大

 ヒトラーは、ドイツにヴィルサイユ体制で軍備の制限が課されたことに不満を持っていました。そこで、大国間の軍備の平等権を主張したのです。イギリスやフランスの並みに軍備を増強したかったのです。しかし、国際連盟はその主張を認めませんでした。

 

 そこで、国際連盟を脱退してしまいます。その後、ザール編入しました。ここは、国際連盟の管理下に置かれていた自由都市で、15年後に国民投票で、ドイツ領となるかフランス領となるかを決定すると決まっていまっていたのです。そこで、15年後にドイツ領になることが決まったので編入しました。

 

 さらに、再軍備宣言を行いました。徴兵制を復活し、軍備を増強することを宣言したのです。これに対して周りの国々は警戒しました。

 

 第一次大戦後、ドイツにかなりの制裁を加えたのはフランスです。そのためフランスが一番焦ります。フランスは、仏ソ相互援助条約を締結しました。ソ連と手を組むことでドイツを挟み撃ちにしたのです。その後、チェコスロヴァキアとも同盟を組みました。

 

 なんとイギリスは、英独海軍協定を結び、ドイツの再軍備を容認したのです。フランスがソ連と手を組んだことで、社会主義が広がること恐れて、あえて容認しました。ヒトラーは反共産ですのでそれに期待したのです。

 

 その後、ヒトラーは、ラインラント進駐を行います。ロカルノ条約で軍隊は入れないと約束したにもかかわらず、ラインラントに軍隊を進めました。そして、ヴェルサイユ条約ロカルノ条約を破棄したのです。

 

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協力体制

  1935年のコミンテルン第7回大会では、共産党以外は敵というスタンスからファシズム以外は味方というスタンスに変わりました。ファシズム勢力を抑えるために、各国の共産党はあらゆる反ファシズム勢力と協力していきます。このように出来た組織のことを人民戦線と呼びます。

 

 フランスでは、ブルムが中心となり、人民戦線内閣が1936年に出来ました。フランスだけではありません。

 

 スペインでは、世界恐慌の最中、スペイン=ブルボン朝が完全に崩壊し、王様がいなくなりました。そして、共和政に移ります。そんな中、ファシズム政党が勢いを拡大させていきます。そこで、アサーニャを中心にサーニャ人民戦線内閣が出来ました。社会主義的な改革を実施し、ファシズムが拡大するのを抑えようとします。

 

 ファシズム国家の中でも、当時、ドイツはヨーロッパ内で孤立していました。国際連盟を脱退し、再軍備を宣言し、ロカルノ条約を破ったからです。

 

 これを追いかけるように、イタリアはエチオピアに侵入しました。ムッソリーニは、景気回復にうまくいかず、焦っていました。そのため、恐慌による国内の経済危機から国民の目をそらすために行ったのです。しかし、これに対し国際連盟は非難し、経済制裁を実施しました。徐々にイタリアも国際的に孤立していきます。

 

 しかし、この孤立した2国が急速に接近した出来事がありました。それがスペイン内戦です。アサーニャ人民戦線内閣は社会主義な改革を行っていましたが、それを快く思わない人もいました。そして、軍人フランコは反発を起こしたのです。彼はファシズム的な政党の支持者でした。

 

 このスペインの内戦にさまざまな国が干渉していきます。フランコ側には、ドイツ、イタリアのファシズム国が付きました。一方、アサーニャ側には、ソ連国際義勇軍が付きました。この中には、アメリカの作家、ヘミングウェーも参加しました。

 

 これは、社会主義ファシズムとの対決です。これで他の国は動けなくなりました。それは、ファシズム国がソ連社会主義を倒してくれるかもしれないと期待したからです。

 

 その結果、20カ国以上が、不干渉政策を取りました。イギリス、フランスも内戦に不干渉を宣言します。

 

 そこで、ヒトラーは、ペルリン=ローマ枢軸を成立させました。ドイツとイタリアの同盟のことです。さらに、当時孤立していた日本にも接近し、ドイツ、イタリア、日本で三国防共協定も成立させました。これにより、ソ連をはさみ込む同盟を作ったということです。そして、イタリアはついに、国際連盟を脱退してしまいました。

 

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 スペイン内戦では、ドイツ空軍がゲルニカに無差別爆撃を行いました。ゲルニカ村の一般民衆を襲ったのです。これにピカソは『ゲルニカ』という絵を描いて抗議しました。そして、首都マドリードが陥落し、フランコ独裁政権が成立しました。

 

略図

○ドイツ

ナチ党

↓ ミュンヘン一揆

世界恐慌

ヒトラー政権

↓ 再軍備宣言

↓  ラインラント進駐

 

○イタリア

ムッソリーニ

↓ エチオピア進行