今日は、東南アジアの植民地化とロシアの進出です。東南アジアが分かりづらいのは、植民地化されて歴史がぶつ切りになるからですね。地図を確認せねば。
世界史チャレンジ。大学受験や教養、旅行の前になど。毎日少しずつ知っていこう。
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あらすじ
フランスは中国進出のために東南アジアを拠点にしたいと考えます。そこでベトナムに狙いをつけました。しかし、清はベトナムの兄貴のようなものなので、助けに入りますが、負けてしまいます。勝ったフランスはベトナムとカンボジアとラオスでインドシナ連邦という大きな植民地を作ったのでした。
オランダはジャワ・スマトラ島を中心に進出していきます。苦戦を強いられますがなんとか成功し、オランダ領東インドが完成しました。
イギリスは、インドと中国をつなぐのに便利な中継地点を狙いました。マレー半島とミャンマーです。マレー半島では、最初海峡植民地を作り、領土を拡大し、マレー連合州になりました。さらに、ミャンマーを併合し、インド帝国と合体させたのです。
東南アジアの場所
まずは、東南アジアの植民地化の話からです。東南アジアはどこにあるかわかるでしょうか。地図を確認していきましょう。
東南アジアは赤く囲まれた地域のことです。この地域が植民地化される話です。
この地域は、フランス、イギリス、オランダなどが積極的に東南アジアに入って来ます。
フランスの進出
当時フランスのナポレオン3世はインドシナに進出しようとしていました。インドシナとは、東南アジアの中でも、現在のベトナム、カンボジア、ラオスといった国々のことです。まずはベトナムから見ていきましょう。
当時のベトナムには阮朝がありました。(前←東南アジアの諸王国(ベトナムの歴史))場所は赤で囲まれた部分です。
建国したのは阮福暎です。フランス人宣教師ピニョーの軍事支援によりベトナムを統一に成功し建国したのです。そして、阮福暎は今まで通り、清へ朝貢を行い朝貢国になりました。中国からは越南国と呼ばれるようになりました。
ここをなぜフランスは狙ったのでしょう。それは、中国のアロー戦争でフランスは中国進出を始めたからです。しかし中国へ行くにも中継基地がありません。そこでベトナムを狙ったわけです。
ナポレオン3世は、スペイン人宣教師殺害事件を口実にベトナムに出兵しました。そして、サイゴン条約でサイゴンを手に入れたのです。これが仏越戦争(1858~62)です。
その後、1863年にカンボジアも保護国化しました。青で囲まれたところがカンボジアです。(前← 東南アジアの諸王国(カンボジアの歴史))。ここも中国へ行くための拠点として狙われたわけです。
フランスはベトナムへの支配を強めていきました。1883年、フランスはベトナムとユエ条約を結びます。これにより、ベトナムの保護国化が決まりました。
このベトナムの保護国化に清が待ったをかけます。ベトナムは清の朝貢国でしたね。清はベトナムへの宋主権を主張しました。宗主権とは、支配化の国に外交や軍事、内政などに干渉するための権利のことです。
これが清仏戦争(1884~85)へと発展していきます。この結果フランスが勝利し、清と天津条約を結びます。これにより、清はベトナムの宋主権を放棄することになりました。
1887年にベトナムとカンボジアでフランス領インドシナ連邦を結成します。さらに1899年にラオスを編入しました。茶色の箇所がラオスです。
オランダの進出
オランダはイギリスと東南アジアに関する協定を1824年に結んでいました。イギリス=オランダ協定です。マラッカ海峡を境界に、上がイギリス、下がオランダの勢力圏だと決めたのです。
そのため、オランダはまず、ジャワ島を狙っていきます。ジャワの住民が反発したジャワ戦争(1825~1830)がありましたが、それを鎮圧します。青い箇所がジャワ島です。(前←東南アジアの諸王国(ジャワ島の歴史))
しかし、オランダはこの戦争を鎮圧するのに苦戦し、財政が圧迫され、お金がなくなってしまいます。これを解決するために、ヨーロッパに輸出するための、コーヒーやサトウキビなどの商品作物などをジャワ島で強制的に作らせようと考えました。これを強制栽培制度と言います。
普段作っている作物の代わりに強制的に商品作物を作らされ、その商品はヨーロッパへ持っていかれることからどんどんジャワ島では不満が高まっていきます。
そこでアチェ戦争(1873~1912)が起こりました。スマトラ島にあるアチェ王国がオランダに対して抵抗しました。(前←東南アジアの諸王国(スマトラ島の歴史))。農民を中心とするゲリラ戦で苦戦しますが、なんとかオランダは勝利を収めます。茶色で囲ったところがスマトラ島です。
これにより、オランダ領東インドが完成しました。現在のほぼインドネシアと同じ領土になります。
イギリスの東南アジア進出
イギリスにとって重要な植民地はインドです。そして、アヘン戦争以降中国へと進出していきます。
赤い箇所がインドで青い箇所が中国です。イギリスはこの2つをアクセスするにあたって、マレー半島やミャンマーを中継地点にしようと考えたのです。
赤く囲まれた箇所がマレー半島です。(前←東南アジアの諸王国(マレー半島の歴史))まず、イギリスは、ペナン、シンガポール、マラッカを獲得しました。そして、この3つを合わせて、海峡植民地を成立します。
さらに赤いところが足されて、1895年にマレー連合州が成立しました。現在のマレーシアの母体になります。ここは、インドからも中国からもアクセスが良いので、移り住む人が多く出てきました。そして、華僑中心に錫開発や、印僑中心にゴムのプランテーションが行われました。
次はミャンマーです。(前←東南アジアの諸王国(ミャンマーの歴史))。イギリスは3回ものビルマ戦争によって、当時ミャンマーにあったコンバウン朝を滅ぼしました。そして、1886年その土地をインド帝国に併合したのです。青で囲まれたところがビルマです。
簡略図
○ジャワ島
オランダ
イギリス
○ビルマ
↓ イギリス
○フィリピン
スペイン
フランス
○タイ
生き残った。
○ロシア
アレクサンデル2世
↓ アイグン条約
↓ 北京条約
↓ イリ条約