【教養のための世界史】アメリカ史

アメリカの縦の通史。一気に駆け抜けていこう。

世界史チャレンジ。大学受験や教養、旅行の前になど。毎日少しずつ知っていこう。

 

f:id:nicochan0923:20210523101427p:plain

青い文字をクリックすると関連した画像検索や記事に飛びます。絵や写真だったり、続きの話、前の話です。気になったらさっと見てみましょう。

 

大航海時代

 当時のヨーロッパでは、地球は平面であると考えられていました。これが教会の見解なのです。しかし、トスカネリ地球球体説を信じていました。地球球体説とは、地球が丸いとする説のことです。それを友人のコロンブスは信じたのです。

 

f:id:nicochan0923:20210529151911j:plain


 

 

 地球が丸いのであれば、ポルトガルと別のルートでインドを目指せるのではないかと考えます。ポルトガルは上記のようにアフリカを経由してインドに到着しました。

 

 これをポルトガルに先を越されていたスペインの女王イザベラは支援します。その後、コロンブスサンサルバドルに到達しました。

 

f:id:nicochan0923:20210529154610p:plain


 コロンブスはここをインドと勘違いしてしまいました。そのため、現在、サンサルバドル島付近の島々は、西インド諸島と呼ばれています。

 

 次々と探検家が出てきます。カブラルは嵐に巻き込まれて、偶然にもブラジルへ漂着しました。スペインとポルトガルは、外に出始めたことで国を取り合いになることを避けたいと思いました。そのため、トルデシリャス条約で境界線で決めました。よって、ブラジルはポルトガル領になります。

 

f:id:nicochan0923:20210529155334j:plain

 

 アメリゴ=ヴェスプッチは、コロンブスが到着した場所はインドではなく「新大陸」であると報告します。これがアメリカの語源ですね。

 

 参考 南アフリカ(ラテンアフリカ)

    大航海時代

 

 17世紀以降は、イギリス、フランス、オランダが北米に植民地を建設していきます。 

 

13植民地

 当時ヨーロッパでは、カルヴァンの考えが各地に広まっていきました。イングランドでは、ピューリタンと呼ばれます。彼らが宗教的な迫害を受け、アメリカへ移住を始めました。

 

 彼らがアメリカに移り住んで作ったのが13植民地です。これがアメリカの母体です。最初アメリカはもともとイギリスの植民地でした。13植民地はだいたいアメリカの東海岸に作られました。大西洋を挟んでイギリスがあります。

 

 まず、ヴァージニアを建設しました。その後、ピルグリム=ファーザーズが宗教的自由を求めて移住します。イギリス市民革命のときに逃げ出したピューリタンたちがさらにアメリカ大陸に移っていくと、ニューイングランド植民地が形成されました。そして、オランダのニューアムステルダムを奪って、ニューヨークと名前を変えました。最後の13植民地はジョージアです。

 

参考 宗教改革

   イギリス革命

f:id:nicochan0923:20210529203547p:plain

 

 これらは、イギリスから移ってきたので、イギリスのような習慣があります。

 

 たとえば、イギリス議会を手本に、13植民地それぞれに植民地議会を設置しました。経済的にはプランテーションを実施しました。主にアメリカ南部で行われ、労働力となるのは黒人奴隷でした。そして、商品作物を栽培し、イギリスに輸出して利益を上げていました。

 

 フランスでは、アンリ4世は、カナダの拠点としてケベックを建設をしました。さらに、ルイ14世のときには、ミシシッピ川州域にルイジアナを建設をしました。

 

 

f:id:nicochan0923:20210529204552p:plain

  イギリス本国は重商主義政策を展開しています。輸出を多くして利益を上げるものです。そのため、フランスと輸出先を巡って戦争を多くします。北米でも争いました。

 

 それを、第2次英仏百年戦争といいます。1339年にあった百年戦争を踏まえての名前ですね。

 

 まず、アン女王戦争が起こります。これはヨーロッパのスペイン継承戦争のときに、北米に持ち込んだ戦争です。勝ったのは、イギリスでした。ユトレヒト条約でイギリスが領土を多く獲得しました。アカディアジブラルタルニューファンドランドハドソン湾地方、ミノルカ島です。

 

 次は、フレンチ=インディアン戦争です。これはヨーロッパの七年戦争のときに、北米に持ち込んだ戦争です。イギリスと13植民地 vs フランスと現地のインディアンの戦いでした。結果、パリ条約でイギリスはさらに領土を広げます。カナダ、ミシシッピ川以東のルイジアナ、フロリダ(青)です。

 

f:id:nicochan0923:20210529205844p:plain

 

 この戦争によって、イギリス本国は財政難になりました。そのため、13植民地に対してあらゆる課税をかけていきます。13植民地は、これまで隣にいたフランス植民地との戦いで守ってもらうためにお金を払っていましたが、この戦争により、フランスはいなくなりました。その必要もなくなります。そのため、お金を払うのがいやなのです。ここからイギリス本国と13植民地との関係が悪化していきます。

 

 イギリス本国は、印紙法を発布します。あらゆる印刷物に課税しました。新聞、教科書、婚姻届けまでも課税したのです。それに対して、13植民地は「代表なくして課税なし」と反論します。イギリスの議会に代表を送っていないのに勝手に13植民地のことが決まってしまうのが不満なのです。その後、印紙法は廃止されます。

 

 これだけでは終わりません。次は、茶法を発布しました。イギリス東インド会社に対して北米植民地で販売する茶への免税権を与えました。これに対して、ボストン茶会事件が起こりました。茶法に反対した市民が先住民に変装し、夜に停泊していた東インド会社の船を襲撃し、積まれていたお茶の箱を全部捨ててしまったのです。

 

 英語で書くとBoston Tea Partyです。Partyは政党や仲間という意味がありますが、そのまま訳してしまって茶会になりました。

 

 イギリス本国は報復措置を取ります。ボストン港を閉鎖しました。さらにボストン港があったマサチューセッツ植民地の自治を剥奪してしまいました。これにより、13植民地は独立の気運を高めていきました。

 

独立戦争

 1774年にフィラデルフィア第1回大陸会議が開催されました。不当課税の拒否を掲げ、植民地側の団結をはかりました。

 

 レキシントの戦いからアメリカ独立戦争が始まります。第2回大陸会議ワシントンをリーダーを決めて戦っていこうとしました。しかし、13植民地内では、独立に対する意見が分かれていました。国王派、中立派、愛国派で分かれました。国王派はイギリス本国派です。

 

 まず、国内を団結させるために、トマス=ペインが書いた『コモン=センス』が出版されます。続けて、1776年7月4日にトマス=ジェファソンが独立宣言を発表します。これらにより独立の雰囲気が高まってきています。

 

  駐仏大使であるフランクリンが各国に対して支援を要請しますが、各国はまだしぶっています。そこでついに、サラトガの戦いで植民地軍が勝ちます。これをきっかけにして、フランス、スペイン、オランダが支援するようになりました。

 

 次に、エカチェリーナ2世の提唱で武装中立同盟を結びました。中には、ロシア、プロイセンスウェーデンポルトガルデンマークがいました。これにより、どちらにも手を貸さないので、間接的に支援したことになります。

 

 さらに、義勇兵というボランティア兵がやってきます。ポーランドからコシューシコ、フランスからラファイエットがやってきました。このように各国がアメリカを支援していきました。完全に流れは植民地側です。

 

 ついに、ヨークタウンの戦いで本国軍に勝利し、パリ条約で独立が認められ、ミシシッピ川以東のルイジアナを獲得しました。

 

f:id:nicochan0923:20210530110927p:plain

参考 アメリカ独立戦争 

 

独立後

 独立後のアメリカは、アメリカ連合規約を定めました。これによって国名がアメリカ合衆国となります。そして、すべての決定は各州独自で決めることができました。各州のバランスを整える政府が存在していましたが、強い権限がありません。そのため、各州の団結がなくなっていきます。そのため、このアメリカ連合規約の見直しが行われました。フィラデルフィア憲法制定会議アメリカ合衆国憲法が作られました。アメリ連邦政府の権限を強化したのです。さら三権分立が初めて憲法に規定されます。立法、行政、司法ですね。

 

 このアメリカ合衆国憲法を巡って、連邦派反連邦派に分かれました。これが共和党(連邦)と民主党(反連邦)の母体になっていきました。

 

大統領

 合衆国の初期の大統領はワシントンです。彼は反連邦派のジェファソン国務長官、連邦派のハミルトンを財務官に採用しました。連邦派と反連邦派でバランスを取ったわけです。

 

 第3代の大統領はジェファソンです。反連邦派の初勝利です。彼はミシシッピ川以西のルイジアナを買収しました。

 

 第4代のマディソン大統領の時には、アメリカ=イギリス戦争がありました。ナポレオンの大陸封鎖令に対抗してイギリスが海上封鎖を実施します。これによって、アメリカの通商を妨害してしまい、これが戦争のきっかけになってしまいました。

 

 この戦争によりイギリスとの貿易はストップします。そのため、アメリカは経済的な自立が促されました。小さな産業がポツポツと出てきたため、彼は保護関税政策で米国の初期産業を育成します。

 

 第5代大統領のモンロー大統領モンロー宣言を出しました。孤立主義を提唱したのです。

 

 第7代大統領のジャクソンジャクソニアン=デモクラシーと呼ばれる改革を実施しました。しかし、白人男性限定で黒人とインディアンのことは考えていません。たとえば、彼は先住民強制移住を制定します。先住民をミシシッピ川以西の荒地に強制的に移住させました。中でもチェロキー族の辿った道を涙の道といいます。

 

 アメリカが独立した当初の領土は東側でした。そのため西側は何があるかわかりません。こういう地域のことをフロンティアを呼んでいました。これを開拓していくことを西部開拓といいます。そして、アメリカ人がフォロンティアに行くことを当たり前だと思っていました。その考え方をマニフェスト=ディスティニーと呼びます。

 

 この考えのもと領土を拡大していきます。まず、フランスからルイジアナを買収します。そして、スペインからフロリダを買収し、テキサスを併合しました。

 

 次にアメリカ=メキシコ戦争で、カルフォルニアを獲得します。そして、カルフォニアでは金が発見されました。その金を求めて、人が押し寄せます。これがゴールド=ラッシュです。

 

f:id:nicochan0923:20210530203727p:plain

 

南北

 アメリカは、北部と南部で状況がまったく違いました。

 

 南部は、綿花を栽培して、イギリスに輸出していました(綿花プランテーション)。これを行うにあたって、すぐに輸出できるように自由貿易です。そして、綿花を栽培する労働力は奴隷でした。また、これに干渉されないように地方分権を望みます。これを政治に反映させようとするのが民主党になります。

 

 一方、北部は、商工業が発達してきました。しかし、イギリスほどではありません。そのため、保護貿易を望みます。また、黒人奴隷には反対の立場でした。解放させて、工場で働いてほしかったのです。そのため、政治に干渉できる中央集権を望みました。これを政治に反映させようとするのが共和になります。

 

 国内では奴隷制をめぐって論争が起こります。自由州奴隷州が対立していきました。自由州とは奴隷に反対の州です。一方、奴隷州は奴隷に賛成の州です。これを規定したのは、ミズーリ協定でした。北緯36度30分を境界線に以北を自由州、以南を奴隷州とモンロー大統領は決めたのです。不平等がおきないように、州の数はだいたい同じでした。

 

 しかし、この協定が破られてしまうのです。カンザスネブラスカが制定されました。カンザスネブラスカの州(新しい州が出来るとき)は自由州か奴隷州かは住民投票で決定することができるというものです。この2つは奴隷州を選びました。

 

 これに反発して、共和党が結成します。国民共和党奴隷制反対論者が合流して結成しました。また、ストウ夫人も『アンクル=トムの小屋』で奴隷制反対運動をしました。

 

南北戦争

 1861年共和党のリンカンが大統領になりました。リンカンは黒人奴隷制度を廃止しようと考えます。しかしこれに南部は抵抗しました。アメリカ合衆国から独立を宣言したのです。都をリッチモンドに置き、アメリカ連合国を建国しました。そして、反連邦主義、奴隷制擁護、自由貿易を掲げました。これアメリカ連合国アメリカ合衆国が戦うのを南北戦争といいます。

 

 戦争のはじまりは、南軍の攻撃から開戦しました。南軍が優勢です。そこで、リンカンは、ホームステッド法を制定しました。公有地で5年間定住・開墾した者に一定限度の土地を無償で与えるというものです。これにより、西部の開拓農民から支持を集めることに成功しました。

 

 さらに、奴隷解放宣言を発表しました。これにより、奴隷を解放するという目的の明確化を行い、黒人だけでなく、海外から支持を得たのです。

 

 1861年ゲティスバーグの戦いがありました。この土地でリンカンは「人民の人民による人民のための政治」と演説します。そして、1865年リッチモンドが陥落し、北軍は勝利しました。

 

 憲法修正第13条奴隷制度が廃止されました。しかし、解放した奴隷は小作人であるシェアクロッパーになってしまいます。北軍は工場の労働力として期待していたのでした。

 

 解放されたからといって幸せとは限りません。それはK・K・Kという反黒人秘密結社があったからです。彼らにおびえていたのです。

 

 経済は、北部で商工業が急成長しました。アメリカは1870年代第2次産業革命を迎えます。しかし、酷使される労働者も増えました。そこで、アメリカ労働総同盟(AFL)が結成されました。

 

 また、19世紀後半から移民が増加します。それは、工業の労働力として積極的に受け入れたからでした。1840年代後半から50年代は、アイルランド系、ドイツ系、アジア系の旧移民が入ってきます。1880年代は東欧系の新移民が入ってきました。

 

 1869年に東西を結ぶ大陸横断鉄道が開通します。これにより、政治的、経済的に統一が進みました。また、フロンティアの消滅が宣言されます。その後、アメリカは海外市場を目指し、カリブ海や中国など外へ出て行きました。

 

参考 アメリカの発展

 

カリブ海政策

 1890年代、アメリカは世界第一位の工業生産数を誇ります。しかし、良いものだけではありませんでした。それは一部の権力者やお金持ちが経済を独占したからです。一般の市民たちは失業してしまうこともありました。

 

 やがて、彼らは経済だけでなく、政治的にも発言権を持つようになっていきます。アメリカは平等の国です。そうやって独立を達成しました。そこで、これに対処するために、革新主義を採用し改革を進めます。政治・経済の独占を打破していったのです。

 

 工業生産数が1位なので、市場が必要です。そのため、第1回パン=アメリカ会議中南米の国を集めて、政治的・経済的な協力関係を築くように迫っていきました。そして、1890年、フロンティアの消滅が宣言されます。白人入植者が国内全域を網羅したわけです。これ以上国内に市場がありません。そこで、アメリカは新しい市場を求めて、外へ出て行くようになりました。これをカリブ海政策といいます。

 

 25代マッキンリー大統領は、まず近場にあるカリブ海に進出していきます。当時スペイン領だったキューバ独立運動が発生しました。スペインの軍隊は鎮圧しようと試みます。すると、ハバナ湾で米艦メイン号を爆撃する事件が起こりました。そこで、アメリカ=スペイン戦争が起こりました。この戦争は未だにアメリカの自作自演だったのではないかという話も聞こえてきます。この結果、アメリカが勝利し、領土変更が行われます。

 

f:id:nicochan0923:20210602102328p:plain

 

 アメリカはフィリピン、グアム、プエルトリコを獲得し、キューバ保護国を取り決めました。そして、太平洋の進出も試みます。ハワイ併合しました。その後、中国を狙って、ジョン=ヘイ門戸開放宣言を発表します。門戸開放、機会均等、領土保全を掲げました。

 

 次の大統領は26代セオドア=ローズヴェルトです。彼の外交方針は棍棒外交といいます。パナマをコロンビアから切り離し、パナマ運河を建設しました。カリブ海と太平洋を接続するために運河を建設したのです。

 

f:id:nicochan0923:20210602102721p:plain

 

 次は28代ウッドロー=ウィルソン大統領です。国内向けには、弱者救済のために新しい自由を提唱します。対外的には宣教師外交を提唱しました。彼はアメリカと同じように民主政を迎えれば、アメリカのように発展できると考えたのです。そこで、アメリカ風の政治を世界に伝えることは義務だと考えました。これが世界へ口出しする口実になっていきます。今でもアメリカは独裁政治を嫌いますね。

 

参考 アメリカの帝国主義

 

第一次世界大戦

 なかなか決着がつかなず焦ったドイツは、無制限潜水艦作戦を実施しました。これは、指定した水路以外を通った船は無警告で沈めるという作戦です。これに怒ったアメリカは、参戦を決定します。結果、アメリカの連合国側が勝利しました。

 

  第一次世界大戦後、連合国、つまり戦勝国パリ講和会議が開かれます。敗戦国とソヴィエトは呼ばれませんでした。この会議を率いた人物は、アメリカのウッドロー=ウィルソン十四か条の平和原則に基づく理想主義的な主張します。

 

ワシントン体制

 ドイツがいなくなり、東アジア・中国・太平洋植民地をどうするのかが問題になりました。そこでワシントン会議が開かれます。アメリカで開かれ、東アジアの新しい国際秩序を決めていこうということで開催されました。しかし、実際は、アメリカが日本の抑制も目的にしていたのです。

 

 アメリカは、日本がさらに東アジアに進出することを警戒していました。そこで、四カ国条約で、太平洋域の領土と権益の相互尊重が決まります。この結果、日本は戦争に巻き込まれることはないとして、日英同盟が解消されました。

 

 さらに、中国の主権と独立の尊重という形で、九カ国条約が結ばれました。結果、二十一カ条要求は事実上無効化してしまいます。

 

 また、ワシントン海軍軍備制限条約で、主力艦の保有比率を決めました。アメリカ: イギリス : 日本 : フランス : イタリア = 5: 5: 3: 1.67 : 1.67になります。世界大戦を反省して、アメリカが軍縮を呼びかけたのです。それだけではなく、結果的に日本の戦力も削減に成功しました。

 

国際協調

 多くの国々で不戦条約が締結されます。アメリカの国務長官ケロッグとフランスの外相ブリアンが作った条約です。「国際紛争の解決は武力によらないこと」という内容で、日本国憲法にも影響を与えました。

 

 また、第一次世界大戦を反省して、軍備の縮小が行われていきます。ロンドン軍縮会議です。ここでは、補助艦保有率が決定しました。アメリカ : イギリス : 日本 = 10 : 10 : 7弱にしたのです。しかし、これは日本の海軍の反発を買い、軍部では不満が募っていきました。

 

第一次大戦

 第一次世界大戦を勝利に導いたウィルソン大統領の時代の話です。彼は、禁酒法を制定します。また、女性参政権も与えられました。これは、総力戦で女性も活躍したからです。

 

 しかし、この時期からアメリカは、保守化が進みました。アメリカはもともとモンローのころから不干渉主義を取っていましたが、第一次世界大戦では、ヨーロッパに関与しました。これを快く思っていない人が出てきたのです。上院議員の反対もあり、ヴェルサイユ条約の批准は拒否され、折角提唱した国際連盟に不参加になってしまいました。

 

 ウィルソンの後は、共和党政権が続きます。共和党は保守的な政党で、昔に戻したり、新しい改革をしない政党です。この時期に債務国から債権国に変わりました。お金を返す側から返してもらう側になったのです。第一次世界大戦で連合国の兵器工場となり、莫大な利益を得たからですね。このころの生産方式は、大量生産・大量消費でした。そして、大衆消費社会が形成されていきます。

 

 また、アメリカ社会では、ワスプと呼ばれる人たちが力をつけてきました。WASP は ホワイト、アングロサクソン系、プロテスタントのことです。これに該当しないものは迫害されます。迫害する組織としてはK・K・Kが活動を再開しました。黒人以外にも黄色人種の人もターゲットにしていきます。

 

 さらには、サッコ・ヴァンゼッティ事件が起こりました。2人のイタリア系アナーキストへの冤罪事件です。アナーキストとは、無政府主義という意味で、国家や政府はなくなればいいという考えをもった人のことです。彼らは証拠不十分のまま死刑が決まってしまいました。WASPではないという差別が後押ししてしまったのです。

 

 また、民法を制定し、アジア系の移民は全面禁止しました。このように繁栄していく中で、自分たち以外の民族や人種を敵とするアメリカ社会の裏の顔があったのです。

 

参考 

 

世界恐慌

 1920年代のアメリカは株のブームでした。サラリーマンだけでなく、奥様や子どもまでも株の話題を口にしています。何故かわからないくらいに株は徐々に上がっていきました。株を買えば誰でも儲かる時代です。

 

 しかし、1929年10月24日の木曜日、ニューヨーク株式市場ウォール街で株式の大暴落が起こります。暗黒の木曜日という言い方をします。これにより、アメリカでは大規模な金融恐慌が発生しました。借金を何十億抱えたり、自殺する人も出ました。これが全世界に波及します。

 

 31代フーヴァー大統領は資本主義経済の自然回復力を信じて対策しません。当時はアダム=スミスの考えが浸透しており、国家の経済の介入は否定的でした。そのため、彼はフーヴァー=モラトリアムの実施しただけです。しかし、これはヨーロッパ経済を悪化させただけでした。

 

 彼の後は32代フランクリン=ローズベルトです。彼はニューディール政策を実施しました。新規まきなおしをいう意味です。国家が経済に積極的に介入していきました。

 

 まずは農業調整法(AAA)で生産制限、過剰生産物の政府買い上げを行いました。農民を助けるための政策です。また、全国産業復興法(NIRA)で企業の救済、労働者の団結権・団体交渉権を承認しました。

 

 そして、テネシー川流域開発公社(TVA)で多くの失業者を吸収することに成功しました。いわゆる公共事業です。また、全国産業復興法が違憲判決になったために、労働者の団結権・団体交渉権を改めて承認したワグナー法を制定しました。企業の介入だけが違憲だったのです。

 

 彼は世界恐慌に対応するために外交も変えていきました。善隣外交です。経済的・政治的な南北アメリカの一体化へ目指す外交方針です。そのため、キューバが独立しました。さらに、輸出を狙って、ソ連を承認しました。

 

参考 世界恐慌

 

第二次世界大戦

 第ニ次世界大戦中、フランスは負けてしまったので、残るはイギリスです。このイギリスにアメリカが支援しました。それは、ファシズムがヨーロッパを制圧することを警戒したからです。アメリカは、武器貸与法を制定し、孤立したイギリスに軍事的な支援を行いました。これにより、ドイツの進撃を食い止めることに成功したのです。

 

 その後、よ独ソ不可侵条約が破棄され、独ソ戦が始まります。ドイツは電撃作戦を決行し、当初はドイツが有利でした。

 

 しかし、ヨーロッパ国々は、これを利用して、ドイツを倒せるのではないかと思いました。そこで、首脳たちは、話し合いました。大西洋上会談(米英首脳会議)です。アメリカは、フランクリン=ローズベルト、イギリスはチャーチルでした。そして、戦後の国際秩序について話し合い、大西洋憲章を発表しました。

 

 この会談が行われている時期に、ドイツとイタリアがアメリカに宣戦布告を行います。ついに、アメリカを巻き込む大きな戦争になりました。

 

 アメリカの参戦で、イタリアとドイツは苦戦を強いられていきます。アメリカ、イギリスなどの連合軍が北アフリカに上陸し、基地を設け、ヨーロッパを攻める拠点にしました。

 

 そして、スターリングラートの戦いで、ドイツ対ソ連は、ソ連の勝利に終わります。ドイツの主力軍が敗れたことにより、連合軍は攻め込みにいきました。イチリア島に上陸し、攻め込みます。ムッソリーニは失脚し、イタリアに出来た新しい政府が無条件降伏しました。

 

 この後、テヘラン会議が行われました。アメリカのフランクリン=ローズヴェルト、イギリスのチャーチルソ連スターリンが対ドイツ戦の基本方針を話し合います。方針が固まり、いよいよドイツを倒すために動きました。

 

 ソ連軍は東欧に侵攻します。ドイツに占領されていた東欧を次々と解放していきました。そして、アメリカ、イギリスの連合軍は、パリを解放するために、北フランスのノルマンディーに上陸を開始します。最高司令官はアイゼンハワーです。

 

 パリの解放に成功し、 ドイツ軍は撤退を開始しました。この後、ヤルタ会談アメリカ、イギリス、ソ連で行われます。対ドイツ戦後の処理を話し合い、ヤルタ協定としてまとめられました。

 

 連合軍はドイツに大空襲を行い、軍隊が迫ります。ヒトラーは自殺し、ベルリンは陥落してしまいました。これにより、ドイツは無条件降伏をしました。ヨーロッパの戦いは終結したのです。

 

 ここからは、戻って日本との戦いです。日本は日独伊軍事同盟を結びました。これを同じくして、日米交渉も行われていました。アメリカとの衝突を避けたかった日本は交渉を試みますが、アメリカ側は日本側の要求を一切飲みません。

 

 日本は、アメリカにプレッシャーをかけるために、日ソ中立条約を締結させました。そして、南部フランス領インドシナへ軍を進めて、完全にインドシナ半島を日本の領土に組み込んだのです。

 

 しかし、この行動にアメリカは猛反発し、対日石油禁輸策をとりました。このとき作られた対日包囲網のことをABCDラインといいます。Aはアメリカ、Bはイギリス、Cは中国、Dはオランダのことです。日本は石油が取れませんので、石油などの資源が取れる東南アジアにさらに進出することになりました。

 

 アメリカとの交渉は決裂し、武力衝突は避けられません。そのため、日本は、アメリカ領のハワイに飛行機を飛ばして、襲撃を行います。これが真珠湾奇襲です。1941年12月8日のことです。日本の宣戦布告が送れてしまったため、奇襲ということになりました。

 

 この真珠湾奇襲をきっかけに、太平洋戦争がはじまります。そして、ドイツをイタリアはアメリカに対して宣戦布告を行いました。これで、連合国対枢軸国の形になったのです。

 

 連合国は、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中国などの反ファシズム諸国。

 

 枢軸国は、日本、ドイツ、イタリアなどのファシズム国のことです。

 

 日本は、アメリカと戦うために石油などの資源を探しに、東南アジアへ進出していきました。まずは、フィリピンを占領します。その後、マレー、シンガポール、ジャワ、スマトラビルマを占領していきました。

 

 

ミッドウェー海戦では、日本がアメリカに負けました。ここで主力の軍を失った日本は劣勢になりました。

 

 アメリカとの戦いを考える際に一番意識するのは、直接アメリカまで行くことはできないので、太平洋の島を押さえることです。しかし、ガダルカナル島を獲得できずに、撤退を余儀なくされました。そして、日本は徐々に追い込まれていったのです。

 

 この劣勢を受けて、カイロ会談が開催されました。アメリカ、イギリス、中国の首脳が集まります。ここでは、対日本戦の基本方針と日本の戦後処理について町議され、カイロ宣言が発表されました。

 

 その後、アメリカ軍は、日本本土を空襲し、沖縄本島に上陸しました。さらに日本は追い込まれていきます。そこでポツダム会談が行われました。アメリカのトルーマン、イギリスのチャーチルソ連スターリンが集まります。チャーチルは途中でアトリーに代わります。

 

 戦後のドイツ、日本の処理を協議しました。そして、日本に対し、無条件で降伏するポツダム宣言が採択されます。

 

 実は、ヤルタ会談では、アメリカのローズヴェルトスターリンによって、密約が結ばれていました。ドイツが降伏して3ヶ月たっても日本が降伏しなければ、ソ連が日本に宣戦するというものです。

 

 これを知ったトルーマンは焦りました。戦後の日本はアメリカ単体で占領したいと思っており、ソ連が参戦したら社会主義の影響を受けるかもしれないと考えたからです。

 

 ドイツが降伏したのが、5月7日なので、8月7日以降にソ連が攻撃を開始します。しかし、日本はまだ降伏しませんでした。焦ったアメリカは、ついに、8月6日に広島に原爆を投下します。人類史上初の原爆投下で、しかも無警告で行われました。

 

 それでも日本は降伏しません。そこで、ソ連が対日宣戦を行います。慌てたアメリカは翌日に、長崎に原爆を投下しました。これ以上戦争は続けられないと判断した日本は、無条件降伏を受け入れます。ここで第二次世界大戦終結しました。

 

第二次世界大戦

 世界大戦が終わった後のドイツを4カ国で分割で管理することが決まりました。アメリカ、イギリス、フランスは西側、ソ連は東側を管理します。さらに首都のベルリンも分割管理されました。ここは西側ドイツと専用道路を通って行き来することができます。ベルリンは東側にありますが、都なのでソ連1国に任せるわけにはいかないので、このような方式になりました。

 

日本では、東京裁判(極東国際軍事裁判)が開かれました。ここでは、太平洋戦争を始めた東条英機らが裁かれました。裁いていった後、戦後の日本は、GHQ(連合国軍総司令部)が支配します。最高司令官はマッカーサーで、日本政府を通じて日本国民を間接的に支配しました。

 

 彼らは、また戦争を起こさせないように日本の非軍事化と民主化を進めました。軍隊を解散させ、地主の土地を農民に分配させる農地改革や、財閥解体を実施します。さらに、日本国憲法を発布しました。この中には、戦争放棄国民主権象徴天皇制が書かれています。

 

経済

 第二次世界大戦のきっかけは、世界恐慌でした。そのためこの反省を踏まえてアメリカが中心となり、戦後の経済秩序の再建を行っていきます。第二次世界対戦中、アメリカのブレトン=ウッズで会議が開かれました。

 

 これは戦後の経済を決める会議です。この会議で、国際通貨基金(IMF)国際復興開発銀行(IBRD)が創設されることになりました。IBRDは戦後の復興のための組織で、IMFは緊急時に経済援助を行う組織です。

 

 アメリカは大戦の被害は少ないので戦後はアメリカのドルが中心になっていきました。ドルと各国通貨の交換比率を固定する固定為替相場が導入されます。日本では1ドルにつき360円と固定されました。一定に保つことで、経済を安定させることができたのです。このような戦後の新しい経済体制をブレトン=ウッズ国際経済体制といいました。

 

 さらに、アメリカが中心となって、ガット(GATT関税および貿易に関する一般協定)と呼ばれる協定が発効されました。ブロック経済を反省して、自由で平等な国際貿易を目指すために作られたのです。1995年には、世界貿易機関(WTO)へと発展しました。自由貿易拡大のためのルール作りを行い、経済のグローバル化を促進に動いています。

 

 冷戦

 

  第二次世界大戦後、アメリカのように資本主義経済を維持し、政治的には民主政治を取る国々を資本主義陣営といいます。彼らが警戒するのは社会主義です。

 

 それを警戒してアメリカのトルーマントルーマン=ドクトリンを発表しました。ギリシアとトルコを援助し、領国の共産主義化を阻止すると表明したのです。地理的に大事だったのです。ここは、アジアやアフリカの境界線にあたる場所だったのです。ここがソ連のような国に代わってしまった場合、周りの国に波及していく恐れがあったのです。そのため、トルーマンは阻止したかったのです。

 

f:id:nicochan0923:20210607200605p:plain

 

 アメリカの国務長官マーシャルは、マーシャル=プラン(ヨーロッパ経済復興援助計画)を提案しました。全ヨーロッパを対象とした経済援助を表明したのです。早く国を立て直して、社会主義革命が起きるのを防ごうと考えました。

 

 一方、ソ連中心の社会主義陣営は、コミンフォルムを発足します。これは各国の共産党が集まって情報交換を行うための組織です。また、ソ連がリーダーとなって他の国々に指示を出す場としても使われていました。しかし、一カ国だけソ連の言うことを聞かない国がありました。ユーゴスラヴィアです。途中で除名処分になりました。

 

 このように、資本主義陣営と社会主義陣営の対立があらわになっていきました。

 

 資本主義陣営はヨーロッパ経済協力機構(OEEC)を発足させました。これはマーシャル=プランの受け入れ機関として作られたものです。

 

 一方、社会主義陣営は、コメコン(経済相互援助会議、COMECON)を発足させました。これは、ソ連を中心とする社会主義国の経済会議で、マーシャル=プランとOEECに対抗するために作られたものです。このように経済的な対立が生まれてしまいました。

 

 さらに、資本主義陣営は、北大西洋条約機構(NATO)を発足させました。アメリカを中心とした12カ国の反共軍事同盟です。西ドイツも後に加盟しました。

 

 NATOが結成された直後に、ソ連は核実験を成功させました。アメリカに次ぐ世界で2番目の核保有国になったのです。そして、そのソ連を筆頭にワルシャワ条約機構が発足しました。NATOに対抗する形で作られた軍事同盟です。このように、経済だけでなく、軍事的な対立も生まれたのでした。

 

 1950年代からアメリカは、トルーマンが唱えた封じ込めではなく、巻き返しを考えました。次のアイゼンハワー大統領は、世界の国々と軍事同盟を結んでいきます。

 

 アメリカ国内でもマッカーシズムが流行していました。当時の上院議員マッカーシー共産主義者を厳しく取り締まっていたことが由来の言葉です。この取締りは赤狩りと呼ばれました。

 

 トルーマンからアイゼンハワーまでの間にアメリカは様々の軍事同盟を結んでいきました。朝鮮戦争後、日本と日米安全保障条約を結びます。日本に共産主義が広がるのを警戒して結んだのです。韓国とは、米韓相互防衛条約、台湾とは、米華相互防衛条約を結びました。

 

 さらに、太平洋安全保障条約(ANZUS)、東南アジア条約機構(SEATO)、中東条約機構(バグダード条約機構、METO)、ラテンアメリカとはアメリカ州機構(米州機構OAS)が結ばれました。このようにソ連を囲んでいざとなったときに戦えるようにしたのです。

 

f:id:nicochan0923:20210608103135j:plain

 しかし、ラテンアメリカキューバは反旗を翻しました。カストロゲバラが親米政権を倒し、社会主義革命を進めました。

 

 ケネディー大統領のときには、キューバ危機が起こります。翌年には、部分的核実験禁止条約を締結させました。核実験をある程度制限していこうと、アメリカ、イギリス、ソ連で結びます。大気圏内・宇宙空間および水中での核兵器実験を禁止しました。

 

 これは、部分的と書いてあるように地下実験は除かれました。そのため、フランスや中国は、核の独占を狙った条約であると非難しました。

 

 国内に関しては、ニューフロンティア政策を打ち出しました。西部開拓時代のようなフロンティア精神をもってほしいと国民に協力を呼びかけたのです。

 

 この時期は、黒人解放運動が起こりました。当時黒人は奴隷としては解放されていましたが、差別が続いていたのです。この黒人の差別をなくそうとキング牧師を筆頭に運動が起こりました。彼は、ガンディーと同じ、非暴力・非服従を掲げました。ケネディーは、彼に共感し、差別のないアメリカにしていくと目指しました。しかし、その後、ケネディーは、テキサス州のダラスで暗殺されてしまいます。

 

 任期の半分で暗殺されてしまったので、当時の副大統領ジョンソンが大統領に就任しました。彼は、「偉大な社会」計画を打ち出します。ケネディーの意思を継ぎ、アメリカから差別と貧困をなくすことを提唱しました。このときに、公民権が制定されます。人種・宗教・性別・出身国などによる差別を禁止しました。

 

 しかし、彼はベトナム介入を行ったので財政は圧迫されてしまいました。当時社会主義勢力が拡大していたベトナムに対して、爆撃を開始し、本格的に介入していったのです。

 

 アメリカの兵隊がベトナムの市民に銃を突きつけている様子が新聞に掲載されると、国内で反戦運動が活発化していきました。これは、国内だけでなく、全世界に波及していきます。これでアメリカは国際的に孤立していきました。さらに、黒人解放運動とも合流し、一大運動になったのです。

 

 このように財政が悪化し、国際的に信用も失い、様々な面で危機に直面することになりました。

 

 1970年代には、2つの大規模な経済危機を迎えます。1つ目は、ドル危機(ドル=ショック)です。アメリカが金とドルの交換を停止しました。これは、ブレトン=ウッズ国際経済体制の崩壊を意味します。ベトナム戦争でお金を使いすぎたために起こりました。これに2つ目の第1次石油危機(オイル=ショック)が加わります。

  

 この経済危機に慌てた欧米諸国は、サミット(先進国首脳会議)を開催しました。欧米諸国が協力して世界の経済問題に対処するために協議したのです。

 

 ジョンソンの次は、ニクソン大統領です。彼のときには、ウォーターゲート事件が発生しました。ライバルの民主党の事務所に盗聴器の設置を指示したことが発覚したのです。これによりニクソンは辞任してしまいました。

 

 次の大統領は、カーターです。彼は人権外交を展開しました。さらに、米中国交正常化を実現します。最初はうまくいっていましたが、ソ連アフガニスタンに軍事侵攻したため、ソ連との関係が悪化してしまいました。不運なことに、この時期に第2次石油危機が到来してしまいます。

 

  次は、レーガン大統領です。彼はこれらの危機に対処するために、新自由主義を提唱しました。「小さな政府」を目指します。フランクリンローズヴェルトのように国家が積極的に経済に介入することを少なくしたのです。

 

 しかし、同時に経済摩擦が発生してしまいました。日本の製品がアメリカに入ってくるのに、アメリカの製品がなかなか日本に行きません。これにより、アメリカの輸入が赤字になっていったのです。財政も貿易も赤字なので双子の赤字と呼ばれます。

 

 アメリカの財政はピンチになり、プラザ合意が結ばれました。これにより、アメリカがドル安になるようにしたのです。

 

 次はクリントン大統領です。彼はアメリカの貿易を成長させるために、自由貿易を拡大しようとしました。北米自由貿易協定NAFTAを締結させます。アメリカ、カナダ、メキシコによる自由貿易協定です。

 

  これによりメキシコにアメリカの安い穀物が入ってきました。そこで、農家は都市労働者になってしまい、数が多くなったことから、賃金が減ってしまったのです。

 

 また、彼はインターネットを民間に開放しました。インターネットはもともと軍事機密のものでした。それを民間に開放したため、情報技術(IT)革命を迎え、コンピュータ携帯電話の分野で発達します。これでアメリカの経済は急成長を迎えました。

 

 彼の後、ブッシュ(子)大統領です。彼の就任直後に同時多発テロ事件が起きました。2001年9月11日、世界貿易センタービルペンタゴンに旅客機が追突したのです。これを受けて、彼は「対テロ戦争」を宣言しました。そこで、主犯を国際テロ組織アル=カーイダであると断定します。この組織の指導者はビン=ラーディンです。

 

 彼はアル=カーイダを捕まえるために、報復戦争を行いました。その組織が隠れていたアフガニスタンに攻撃をします。当時アフガニスタンではイスラム武装組織のターリバーンが政権を取っていました。このターリバーンがアル=カーイダをかくまっているという情報を得て攻撃したのです。これで、ターリバーン政権を崩壊させることに成功しました。

 

 ここまでは、周りの同意を得られましたが、この後、彼は不思議な動きをとります。イラクのサダム=フセイン大統領が大量破壊兵器を持っていると言って、イラクに攻撃をしかけました。これがイラク戦争です。イギリスも日本もこの動きに追随しました。しかし、フランスなどの国はこれを批判したのです。結果、フセイン政権が崩壊し、イラクに民主政治が広がることとなりました。

 

 日本は、このブッシュの動きを全面的に支援しました。小泉純一郎内閣のときに、イラク復興支援特別措置法が可決されます。自衛隊の海外派遣が決まりました。

 

 しかし、戦争を進めたことで、アメリカの経済は、ピンチになっていきます。2008年国際金融危機が起こりました。リーマンショックです。世界恐慌を超える不況が世界に到来したため、G20と呼ばれる金融に関する国際会議を開催しました。

 

 彼の後は、オバマ大統領になります。アメリカ初の黒人大統領です。彼は就任後のプラハで行われた演説で、核兵器廃絶演説を行いました。これにより、ノーベル平和賞を受賞します。

 

 前の時代から、国連平和維持活動(PKO)非政府組織(NGO)の活動が目立つようになっていきました。