今日は、第二次世界大戦後の東南アジアです。テーマ史は飛ばすので、これで1周です。
世界史チャレンジ。大学受験や教養、旅行の前になど。毎日少しずつ知っていこう。
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ベトナム
第二次世界大戦中、ベトナムは日本の占領下にありました。しかし、日本が敗れ撤退していくと、ベトナムを独立させようと、ベトナム独立同盟(ベトミン)の指導者であったホーチミンがベトナム民主共和国を成立させました。彼は、政治的には、ソ連側の社会主義の考え方を持つ人です。
しかし、フランスは、この国を認めません。フランスはまた占領しようと軍隊を動かしました。それをインドシナ戦争といいます。フランスはホーチミンに対抗して、ベトナム国を作りました。南ベトナムにでき、主席はバオダイです。これでベトナムは2つの国に分かれてしまいました。
ディエンビエンフーでフランス軍は大敗してしまいます。そこで、フランスはインドシナ戦争を終わらせるために、ジュネーヴ会議を開きました。ここで、ジュネーヴ休戦協定が作られます。北緯17度線を暫定的な軍事境界線とすることが決まりました。
そのインドシナ戦争後、アメリカが介入していきます。北ベトナムのホーチミンは社会主義者なので、このままホーチミンが勝つと社会主義の波が東南アジアに襲うかもしれないと考えたのです。
アメリカは東南アジア条約機構(SEATO)を結成しました。これは反共軍事同盟で、ホーチミンの社会主義を警戒して作ったものです。
南側にあったベトナム国は、ベトナム共和国になりました。リーダーはゴ=ディン=ジエム大統領です。彼は南北統一選挙を拒否し、親米反共の独裁政治を始めました。これで南北ベトナムの統一は先送りされる形になりました。アメリカが操っていたのです。
しかし、ゴ=ディン=ジエムは良い政治をしなかったために民衆から嫌われてしまいます。そこでできた組織が南ベトナム解放民族戦線でした。北ベトナムとくっつきたいと思ってできた組織です。
これに加えて、南ベトナムでクーデタが頻発し、その最中ゴ=ディン=ジエムが暗殺されてしまいました。しかし、クーデタは終わらず、リーダーがころころ代わっていきました。このままでは、南ベトナムがつぶれて併合されてしまいます。
慌てたアメリカは直接動いていきます。ベトナム戦争が本格的に始まりました。アメリカは北ベトナムに爆撃を開始します。アメリカ、韓国、フィリピン、オーストラリアなどの50万人以上の軍を派遣し、南ベトナム解放民族戦線と戦いました。
ベトナム戦争は泥沼化していきます。南ベトナム解放民族戦線が各地で猛反撃を開始します。彼らはゲリラ戦を展開します。武器を持って戦うのではなく、一般の農民の格好をしているので見分けがつきません。
その後、ベトナムのある村でのアメリカ軍による虐殺の映像が流れてしまいます。これによって、ベトナム反戦運動が高まりました。アメリカ国内をはじめ欧州、日本でも展開していきます。それによりアメリカは国際的に孤立し、経済的にも苦しい状況になっていきました。
これ以上の戦争の介入を諦め、パリ和平会談を開催します。アメリカのジョンソン大統領が北爆の部分停止を表明したことで開催されます。しかし、会談は難航しました。
次の大統領のニクソンはベトナム戦争を終わらせるために、中国を訪問します。当時の中国は、社会主義国家だったので、仲介してほしかったのです。
そして翌年、ベトナム和平協定が締結され、アメリカ軍のベトナム撤退が進んでいきます。放置された南ベトナムはサイゴンを攻略され、南ベトナム政府は壊滅しました。
これにより、ベトナム社会主義共和国が成立しました。そして、1980年代からはドイモイという新しい経済システムを導入し、改革・開放路線をとって経済的にも新たな成長を見せました。
インドネシア
日本の敗戦後、東南アジアは独立をしていきました。インドネシア共和国が独立し、首都をジャカルタに置きます。初代大統領はスカルノです。
彼は九・三〇事件をきっかけに、権力を失い、インドネシアの軍部保守派が実権を掌握するようになりました。その指導者が次の大統領のスハルトです。彼は、反共、親米路線を徹底していきました。
ベトナム戦争後の東南アジアの社会主義化を防ぐために、東南アジア諸国連合(ASEAN)を結成しました。
彼の時代には、インドネシアが支配する東ティモールやアチェなどの地域で独立を求める動きがありました。最終的に、彼は、アジア通貨危機の混乱を収束できずに退陣してしまいます。
フィリピン
日本の敗戦後、東南アジアは独立をしていきました。フィリピン共和国が独立し、首都をマニラに置きます。
戦後のフィリピンを率いたのがマルコス大統領でした。彼は、反共、親米路線を徹底し、開発独裁をします。しかし、あまり経済は上向きませんでした。そのため、民主化を求めて、反政府運動が高まりました。
さらに、フィリピン内にいる少数派のイスラーム教徒たちが自分たちの国を求めて抵抗運動や武装テロを行っていました。最終的に、マルコス大統領は失脚してしまいます。
カンボジア
インドシナ戦争後、カンボジアはフランスから独立しました。首都はフノンヘンです。
王政国家となり、国王はシハヌークです。彼は社会主義路線になっていきました。そのため、親中の外交を展開します。
アメリカは、社会主義国家になってしまうのを恐れて、ベトナム戦争にまぎれて、軍隊を派遣しました。これによりシハヌークが追放され、親米派のロン=ノル政権が誕生します。
王様がいなくなったので、当時のカンボジアの国名を民主カンプチア(民主カンボジア)といいます。ベトナム戦争後、アメリカの軍隊が撤退すると、ロン=ノルは後ろ盾を失ってしまい、ポル=ポト政権に代わりました。
彼は親中の外交を展開します。さらに、中国をモデルにした国作りを目指しました。その一環として、政治組織の赤色クメール(せきしょく)が結成されます。農村を基盤とする極端な共産主義社会の建設へと動いていきました。
しかしポル=ポトのやり方に反発する人が出てきます。その人たちが集まって、ヘン=サムリン政権が出来ました。彼らは、ポル=ポトを倒すために、ベトナムの支援を受けました。ベトナム軍がカンボジアに侵攻します。
これにより、ポル=ポト政権は崩壊し、ヘン=サムリンがカンボジアの新しいリーダーになりました。しかし、これを中国が批判します。そこで、中越(中国=ベトナム)戦争が起こりました。最終的に、ベトナムが勝利します。
ラオス
インドシナ戦争後、ラオスはフランスから独立しました。首都はビエンチャンです。
独立後は、政情不安定が続きました。するとアメリカは、社会主義国家になるのではないか考えます。そのため、ベトナム戦争中、ラオスに軍隊を侵攻させました。
マレーシア
イギリスから自治領としてマラヤ連邦は独立しました。そして、マラヤ連邦とシンガポールなどの周辺地域を含めて、マレーシア連邦が成立します。
ここでは、貧富の差を解消するために、現地のマレー人を優遇する経済政策を取りました。しかし、民族対立が起きます。華僑がこれに対立したのです。そして、マレーシア連邦からの独立を目指しました。それがシンガポールです。
1965年に、シンガポールが分離、独立しました。その後、経済的に発展を遂げていきます。そして、新興工業経済地域(NIES)の一員になりました。発展途上国の中から急速な工業化に成功し、高い経済成長率を実現した国のことをNIESと言います。
ミャンマー(ビルマ)
ビルマはイギリスから独立しました。
略図
○ベトナム
↓
北 / ベトナム共和国 (アメリカ) と 南 / 南ベトナム解放民族戦線、ベトナム民主共和国 / ソ連と中国
↓
↓
↓ スカルノ
↓ 九・三事件
↓ シハヌーク
↓ ポル=ポト