今日は帝政ローマ。領土がいきなり大きくなりすぎ。
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あらすじ
オクタウィアヌスから始まった元首政はとても平和でした。次の五賢帝時代までそれは続きます。パックス=ロマーナと呼ばれるほどでした。
しかし3世紀にローマは混乱の時代を迎えます。これに対処するために、専制君主制になりました。また、宗教の力を借りて団結しますが、時すでに遅く、395年にローマは東西に分裂してしまいます。
キリスト教は迫害の歴史を辿りますが、次第に数が増え、公認の流れになっていきます。また、キリスト教の解釈を決めるために3つの会議も行われました。
概観
今日は赤で囲まれたところの歴史をやります。
地図
まずは地図の確認です。今日の舞台はこの赤で囲まれた部分です。ローマですね。
そして拡大したのがこちら。
元首政
オクタウィアヌスは アクティウムの海戦でアントニウスとクレオパトラの連合軍を破り、ローマの混乱を収束させていきます。
前27年、オクタウィアヌスは元老院からアウグストゥス(尊厳者)の称号をもらいます。反対した元老院も降参という感じでしょう。しかし、直後に彼はプリンケプスを自称しました。市民の中の第一人者という意味です。自分は市民の一人ということを強調したのです。カエサルのようにならないように独裁を隠したわけですね。この政治をプリンキパトゥス(元首政)(前27~284)といいます。形式上は共和政ですが、実際は皇帝独裁です。彼以降、皇帝はみなプリンケプスと称しました。
五賢帝
96~180年は五賢帝の時代になり、繁栄していきます。
1人目のネルウァ帝(96~98)は、優秀は人物を自分の養子にして、皇帝の地位を譲しました。常に賢い人が皇帝になるようにしました。
2人目はトラヤヌス帝(98~117)です。ローマは最大領土になります。赤で囲まれた部分が領土です。すごい領土ですね。
3人目は、ハドリアヌス帝です。帝国各地を巡遊し、国内の安定に努めました。さらに領土が大きくなったことで守備を徹底しないといけません。そこで長城を作りました。
4人目は、アントニヌス=ピウス帝(138~161)です。非常に安定していたので、覚えることはありません。
5人目は、マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝(161~180)です。彼は『自省録』を書き、哲学者とも知られています。彼は、養子を取らずに自分の息子に地位を譲ってしまいました。その息子がよくなかったのですね。そのため、五賢帝時代はここで終わってしまいました。
パクス=ロマーナ
アウグストゥスから五賢帝までの期間をパクス=ロマーナ(ローマの平和)といいます。とても繁栄して期間です。その理由は、3つです。
1つ目はローマは季節風(1~2世紀)を利用した貿易をしたからです。
次にロンドン、パリ、ウィーンなどのローマ風都市を建設したからです。現在でも有名なくらい良い街づくりでした。
最後にコロナトゥスを利用したからです。コロナトゥスは、コロヌス(小作人)を使役した大土地制度のことです。かつては奴隷を使っていましたが、征服戦争はもうないので、奴隷は連れてこれません。価格も急騰していきます。
さらに、奴隷には人権なんてものはないので、非効率に働きます。そのため、コロヌス(小作人)に変えたのです。人という字がついているように、彼らは結婚もできますし、子どもも生むことができました。このようにすれば農業人口は減りませんね。
危機
ローマは3世紀に危機を迎えます。交易が繁栄したことで、属州が豊かになり、自立した地方の軍が独自の皇帝を支持するようになっていきました。
また、北方のゲルマン人や東方のササン朝ペルシアの侵入があります。さらに、ウァレリアヌス帝(253~260)はササン朝に捕まってしまいました。これに対処するために、地方の軍はさらに強化することになります。すると、軍の中から皇帝に担ぎ上げられる人も出てきました。(前←ササン朝)
これらが背景にあり、235~284年の約50年の間に26人もの皇帝が出てきます。これが軍人皇帝時代です。
これに対処するために、専制君主政が始まります。
ディオクレティアヌス帝(284~305)は四帝分治制(テトラルキア)で帝国を4つに分け、4人の皇帝を配備しました。ローマは領土が大きいので、分割して統治するようになったのです。
また、皇帝崇拝の強制をし、自分を権威付けるようとします。しかし、キリスト教徒は従いません。そこで迫害を受けますが、キリスト教徒の数は増えていきます。
ついに、コンスタンティヌス帝は、ミラノ勅令を発布して、キリスト教を公認します。また、彼はコンスタンティノープルへ遷都します。
さらに、テオドシウス帝は、キリスト教の国教化をしました。すべての異教信仰を禁止します。これにより国をまとめようとしますが、395年にテオドシウス帝の死後、ローマは東西に分裂しました。
キリスト教
キリスト教の教えを作った人は、イエスです。パレスチナで生まれました。(パレスチナはだいたい赤で囲まれた箇所)。パレスチナでは、当時ユダヤ教が浸透していました。そして、その中でもパリサイ派が勢力を持っています。パリサイ派は律法を厳格に遵守しました。しかし、イエスは本当にユダヤ教で人々が救われたのかと疑問に思ったのです。(前←ユダヤ教のはじまり)
やがて、イエスは自分はメシアであると自覚するようになります。メシアとはギリシア語で救世主という意味です。そして、彼は2つの教えを広めまていきました。性別・民族・貧富をこえた「神の絶対愛」と「隣人愛」を説いて周ります。
ところが、このイエスの活動はパリサイ派から疎まれてしまったのです。そして、結局、イエスは十字架に掛けられて死刑(30年)なります。
イエスの死後、使徒たちはイエスの教えを広めていきました。使徒とは、イエスの弟子のことです。まず一番弟子のペテロは、ローマ伝道に尽力します。
次に、パウロは、ローマの市民権を持っていました。そのため、自由に各地へ移動できます。そのため、東方各地を伝道し、異邦人の使徒と呼ばれました。これらの活動により、キリスト教の教えはどんどん広まっていきます。ちなみにキリスト教とは、イエスをキリストと認め、その教えを信じる宗教のことですよ。
そして、イエスはじめ、弟子たちの活動をまとめた新約聖書ができました。この聖書には色んな物語が収録されています。イエスの言行録である『福音書』とペテロやパウロなどの活動を記録した『使徒行伝』などがあります。
迫害から公認
このようにできたキリスト教は迫害の歴史を辿ります。それはキリスト教徒が皇帝崇拝を拒否するからです。当時のローマでは良き皇帝は死後に神として崇められていました。それを嫌がったのです。さらに、ローマは多神教が広まっていたので、そこに馴染めなかったのも理由にありました。
まず、ネロ帝に迫害されます(64)。しかし、これは皇帝崇拝とは関係ありません。ローマの大火事の責任を転嫁します。このときに、ペテロ、パウロは殉教したといわれています。
次に、303~313年、ディオクレティアヌス帝はキリスト教を大迫害します。彼は皇帝崇拝を強制した人ですね。それに従わなかったので、迫害したのです。
さらに、4世紀後半に、ユリアヌス帝は、キリスト教が認められた後に迫害をしたので背教者とよばれました。
このように迫害されますが、キリスト教の数は一向に減りません。それは、カタコンベ(→画像)と呼ばれる墓の地下に作った避難所、礼拝所で逃げていたからです。さらに平等思想は、奴隷・女性・下層市民などの貧民の心にぐいっと刺さったのでしょう。
その後、いよいよ公認の動きになります。コンスタンティヌス帝が313年にミラノ勅令を出しました。数が増え続けるキリスト教を逆に利用して統治するのに活かせないかと考えたのです。そして、ついにテオドシウス帝が392年にキリスト教を国教化しました。
解釈
話は、キリスト教の解釈をめぐる話に変わります。325年にニケーア公会議がありました。公会議とはキリスト教の宗教会議のことです。
ニケーア公会議でキリスト教の正統教義とされたのが、アタナシウス派で、三位一体説を唱えました。三位一体説とは、父なる神、子なるイエス、精霊(聖霊)の3者は同質(同質不可分)であるとする考えです。つまり、神は姿形を変えて、人の姿を借りてやってくることがあるということです。この考えは皇帝にとって都合がいいので採用されました。皇帝の中にも神がいると解釈できるので、皇帝の言うことを聞かせることができるのです。
これに対するのがアリウス派です。イエスに人性を強く強調してしまったため、結果的に異端とされてしまいました。
次に431年のエフェソス公会議では、ネストリウス派が異端とされます。それは、イエスの神性と人性とを分離してしまったからです。
最後は451年のカルケドン公会議です。そこで、イエスに神性のみを認める立場の単性論は異端とされてしまいました。
略図
アンティゴノス朝 / ギリシア諸ポリス / プトレマイオス朝エジプト /
セレウコス朝シリア
↓
↓
↓ オクタウィアヌス
↓ 五賢帝
↓ カラカラ帝
↓ ← ササン朝
↓ テオドシウス
西ローマ / 東ローマ
今日はここまで。ではまた次回!