今日は東ヨーロッパ中世世界の成立です。ポーランドとローランドは1文字違う。
世界史チャレンジ。大学受験や教養、旅行の前になど。毎日少しずつ知っていこう。
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あらすじ
東西に分裂して東側に出来たビザンツ帝国は、ローマを復活させようと領土を拡大していきました。しかし、イスラーム勢力などの侵入で領土は縮小していきます。そして、1453年、オスマン帝国に滅ぼされてしまいました。
東ヨーロッパにはスラヴ系の民族が建国していきます。中でも東スラブにはロシアの母体であるモスクワ大公国ができ、ビザンツ帝国を受け継ぐことになりました。
地図
まずは、今日やる話の地域を地図で確認しましょう。
ビザンツ帝国
395年に東西にローマ帝国が分裂します。東側を別名をビザンツ帝国といいます。
まず、ユスティニアヌス大帝(527~566)は、ローマを復活させようとします。つまり、広大な領土を取り戻そうとします(最終的に青い範囲)。北アフリカのヴァンダル王国を征服、イタリア半島の東ゴート王国を征服、西ゴート王国からイベリア半島の南部を奪取し、ササン朝ペルシアのホスロー1世と抗争を続けました。(前←ゲルマン人大移動)
政治面においてもローマを復活させようとしました。皇帝が正教一致の最高権力者として君臨します。コンスタンティヌス帝と同じやり方です。さらに、『ローマ法大全』の編纂をします。
また、都のコンスタンティノープルにハギア=ソフィア聖堂を建て直し、絹織物業の育成し国家の重要産業にしていきました。
縮小
彼の死後、異民族の侵入が盛んになります。ランゴバルド族、ササン朝、アヴァール人、ブルガール人、イスラーム勢力などです。これにより、ビザンツ帝国の領土は小さくなりました(最終的に青いところ)。
そして、国家を守るために、軍管区制(テマ制)、屯田兵制をセットで行いました。軍管区制は、領土を軍管区に分け、指令官に軍事、行政権を与え統括するものです。中国の郡県制とほぼ同じです。
屯田兵制は、兵士に一定の土地保有を義務付け世襲の農民兵とするものです。兵士に土地を与えることで、自分の土地を守るようになるということです。
領土が小さくなるにつれて、公用語がラテン語からギリシア語になりました。人口のほとんどがギリシア人になったのです。そのため、キリスト教もギリシアの文化がくっついて、ギリシア正教会と呼ばれるようになりました。
レオン3世の頃になると、聖像禁止令を発布します。イスラームがビザンツを攻めていた理由として聖像が理由にありました。イスラーム教は聖像崇拝を厳格に禁止します。しかし、ビザンツ帝国では、聖像が使われていました。そのため、攻めて来たのです。(前←ローマ=カトリック教会の発展)
すべての聖画像(イコン)の製作、崇拝を禁止しました。そして、修道院の財産を没収し、戦費に充てました。しかし、聖像を使用して布教活動をしていたローマ教会と対立することになってしまいます。聖像崇拝論争です。
イスラーム勢力
11世紀後半、イスラーム勢力であったセルジューク朝が圧迫していきます。ビザンツ帝国は小アジアを奪い取られてしまったのです。なので、ビザンツ帝国はピンチになりました。これが十字軍の派遣のきっかけになります。(前←セルジューク朝のはじまり) (前←十字軍)
そして、プロノイア制を採用しました。有力貴族に国有地、住民の管理を任せて、軍役奉仕の義務を課します。統治を諦めたのです。
しかし、第4回十字軍は、ヴェネツィア商人の策略によって、コンスタンティノープルを占領して、ラテン帝国を建国してしまいます。そして、ビザンツ帝国は一時滅亡状態になります。しかしラテン帝国を追い返しますが、最終的に、オスマン帝国のメフメト2世により、コンスタンティノープルが陥落し、ビザンツ帝国は1453年に滅亡してしまいました。
東ヨーロッパ
次は、スラヴ人の話です。まずは、西スラヴ人です。西スラヴは、西ローマが近かったために、カトリックを受容します。西スラヴには、ポーランド人がいます。そして、隣のリトアニア大公国と合体して、ヤゲウォ朝(1386~1572)ができます。
ポーランド人以外にも、チェック人がいました。彼らは、ベーメン(ボヘミア)王国をつくりました。また、スロヴァキア人もいました。
次は、南スラヴ人です。南スラヴはカトリックとギリシア正教会が合わさった地域です。たとえば、セルビアはギリシア正教です。クロアティア人とスロヴァニア人はカトリックです。
次は、東スラヴ人です。彼らが住む地域に最初に乗り込んで来たのは、ノルマン人のリューリクです。そして、ノヴゴロド国(862)を建国します。次第にスラヴ化します。(前←ノルマン人)
その後に登場するのがキエフ公国です。キエフ公国のウラディミル1世は、ギリシア正教を国教化します。(前←ノルマン人)
その後、中国方面からモンゴル人がやってきます。そして、この地域を支配してしまいました。これをタタールのくびきといいます。
しばらくモンゴルの支配でしたが、その支配から抜け出したのは、モスクワ大公国(14~16世紀)です。
このモスクワ大公国のイヴァン3世(1462~1505)は、ビザンツ皇女と結婚しました。ちょうどこの頃、ビザンツ帝国は滅んでしまいます。そのため、彼はビザンツ帝国が持っていた称号、ギリシア正教会の指導権を受け継ぐと主張し、ツァーリ(皇帝)という称号を自称します。
そして、彼の子どものイヴァン4世(1533~84)はツァーリの称号を正式に採用しました。ここからロシアがビザンツ帝国の後釜となり、皇帝の称号とギリシア正教会の指導権を握る形になりました。
略図
↓
東ローマ帝国 (ラテン帝国)
↓ ユスティニアヌス
↓ バシレイオス
↓
ラテン帝国
↓
○ポーランド人
↓
ヤゲヴォ朝
↓
↓
ポーランド分割
○チェック人
↓
ベーメン王国
↓
○南スラブ人
↓
オスマン帝国の支配
↓
↓
○ノルマン人
↓
↓
キエフ公国
↓
キプチャクハン国
↓
↓
↓ イヴァン3世
↓ イヴァン4世
今日はここまで。ではまた次回!