【私大のための世界史】 帝政ローマ

大東亜帝国日東駒専成成明学獨國武、MARCH、関関同立早慶上のための世界史記事。

 

 

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青い文字をクリックすると関連した画像検索や記事に飛びます。絵や写真だったり、続きの話、前の話です。気になったらさっと見てみましょう。

 

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  こちらで軽く流れを確認するとおぼえやすくなります。

 

元首政

 オクタウィアヌスは アクティウムの海戦でアントニウスクレオパトラの連合軍を破り、ローマの混乱を収束させていきます。

 

 前27年、オクタウィアヌス元老院からアウグストゥス(尊厳者)の称号をもらいます。しかし、直後に彼はプリンケプスを自称し、プリンキパトゥス(元首政)(前27~284)が開始されます。アウグストゥス後継者に恵まれず、ディベリウスを養子にした。

 

 54年には暴君としてしられるネロ帝が17歳のときに即位した。最初は善政だったが、愛人にそそのかされて母親を殺して以降、暴君化していく。そのときに、ストア派の哲学者セネカは自殺を強要された(65)。タキトゥスの『年代記』には、ローマ市大火の責任をキリスト教徒に擦り付けたと記述してある。

 

五賢帝

 96~180年は五賢帝の時代です。

 

 

五賢帝の順番とやったことを整理しよう

 

 ネルウァ(96~98)・・・優秀は人物を自分の養子にして、皇帝の地位を譲るようにした。

 

 トラヤヌス(98~117)・・・ローマが最大領土。ヒスパニアダキアメソポタミアを征服。属州出身の貴族。

 

 ハドリアヌス・・・ブリタニアに(120km)もの長城を作る

 

 アントニヌス=ピウス帝(138~161)・・・内政を整備した。南フランスの貴族。

 

 マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝(161~180)・・・哲人皇帝(ストア哲学者)と呼ばれ、『自省録』を著した。後漢書には大秦王安敦と記されている。

 

 元老院出身のネルヴァ帝は、前帝のドミティアヌスが暗殺された後、元老院によって選ばれた。彼は優秀な軍人であったトラヤヌスを養子にします。そして、彼を次の皇帝にしました。このように優秀な子を養子にして、次の皇帝の座を譲ることでローマに平和と安定がもたらされた。

 

 アントニヌス=ピウスの時代は、官僚制が整備された。そして、平穏な時代であったため「かれの治世には歴史がない」と言われるほどである。

 

 しかし、マルクス=アウレリウス=アンドニヌス帝は自分の子コンモドゥスに皇帝の座を譲ってしまった。

 

パクス=ロマーナ

 アウグストゥスから五賢帝までの期間をパクス=ロマーナ(ローマの平和)といいます。イギリスの歴史家ギボンは『ローマ帝国衰亡史』で「人類がもっとも幸福であった時代」と書いてある。

 

  繁栄した理由

 

 ①季節風貿易(インド洋)

 

 ②ローマ風都市を建設

 

 ③コロナトゥス ※ラティフンディアと間違えないように

 

 212年には、カラカラ帝によってアントニヌス勅令が出されます。帝国内の全市民にローマ 市民権を与えました。

 

危機 

   235~284年は人皇帝時代で、約50年の間に26人もの皇帝が出てきました。

 

 また、北方のゲルマン人や東方のササン朝ペルシアの侵入があります。さらに、ウァレリアヌス帝(253~260)ササン朝に捕まってしまいました。

 

 これに対処するために、専制君主が始まります。

 

 ディオクレティアヌス帝(284~305)は、四帝分治制(テトラルキア)で帝国を4つに分け、2人の正帝と2人の副帝を配置し、帝国を再編成しました。また、ペルシア風の宮廷儀礼を採用し、自らを「ユビテルの代理人・化身」と位置づけ、皇帝崇拝の強制します。さらに、最高価格令や農業課税制度で財政改革を行いました。このような改革を進め、政治的秩序は回復していきました。

 

 ディオクレティアヌス帝の整理

  •   テトラルキア
  •   ペルシア風の宮廷儀礼の採用
  •   皇帝崇拝
  •    最高価格令
  •   農業課税制

 

 コンスタンティヌスは、コンスタンティノープルへ遷都します。また、地中海交易を安定させるため、ソリドゥス金貨(ノミスマ)を発行しました。さらに、職業・身分を固定化させるために、コロヌスの移動も禁止しています。そして、ミラノ勅令を発布し、キリスト教を公認することで、再統一を図ろうとしました。しかし、この後、ゲルマン人が侵入することでローマは再び混乱していきます。

 

 テオドシウス帝は、混乱を収拾しようとキリスト教の国教化し、すべての異教信仰を禁止しました。しかし、395年に彼の死後、東西に分裂します。

 

年表

 

共和制ローマ

帝政ローマ

 

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