【教養のための世界史】秦、漢

今日は中国史の続き。王朝を書かせられるテストをしたなあと思い出した。

世界史チャレンジ。大学受験や教養、旅行の前になど。毎日少しずつ知っていこう。

 

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あらすじ

 中国を最初に統一したのは秦の政でした。彼は始皇帝を名乗り、様々な改革をしますが、急すぎたために、彼の死後、反乱が起きます。

 

 反乱後、劉邦前漢を建国します。秦の失敗を活かし改革をしていきました。長く続きましたが、クーデターにより新になります。

 

 その後、漢が再建され後漢にできました。西側地域との交易で大きな収入があったため200年も続きますが、社会不安から黄巾の乱が起こります。豪族たちが鎮圧したため、各地の豪族たちが自立する群雄割拠の時代になっていきました。

 

地図

 まずは、地図の確認です。舞台の中国は赤で囲まれた箇所です。

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秦 

 前4世紀ごろ、秦の孝公(こうこう)が都を咸陽(かんよう)に移します。孝公には宰相の商鞅(しょうおう)がいました。彼は様々な国政改革を実施しました。その総称を変法(へんぽう)といいます。そして、中央集権化を目指していきました。これにより、秦は強くなっていったわけです。赤で囲まれたところがだいたい秦の箇所です。

 

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 前221年、秦王のは、中国初めて統一します。領土が大きくなりました。そして、彼は中国史上初めて、皇帝という称号を使います。そのため彼のことを始皇帝と呼ぶことになります。

 

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 まずは、内政から見ていきましょう。始皇帝の時代、郡県制という地方統治をしていました。全国を郡に分けて、郡の下に県をおき、任命した官吏を派遣するというものです。

 

 また、思想、言論の統制のために、焚書・坑儒を行います。自分の都合に合わない考えの書物を焼き払ったり、始皇帝に批判的な儒家を生き埋めにしました。さらに、全国を統一したので、貨幣も統一します。それが半両銭です。

 

 この始皇帝の力の強さを象徴するのが、兵馬俑(画像)を副葬したということです。彼の死後、彼の墓に兵隊とそっくりな等身大の焼き物を埋めたのでした。

 

 次は外征です。まず、匈奴対策として、万里の長城の修築を行います。また、ベトナム遠征をして、南海郡を設置しました。

 

 このように彼はさまざまな改革を一気に実施していきます。そのため、人々はその改革についていけません。この不満は彼の死後爆発します。

 

 前209年に、陳勝呉広の乱(前209~前208)が起きました。中国史上最初の農民反乱になります。

 

 しかし、秦の統治は各地に及ばなくなってきています。そして、次のリーダーをめぐり、楚の名家出身の項羽と農民出身の劉邦の戦いになります。結果、劉邦が勝ちました。

 

前漢

  劉邦前漢の初代の建国者として高祖(202~195)という名前で歴史書に名を残しました。ちなみに皇帝の名前は生前行ったことを評価してつけられます。

 

 前漢の都は長安で赤で囲った箇所が前漢の領土です。

 

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 高祖は秦の失敗を活かして郡国制を行いました。直轄地には郡県制、それ以外には封建制を施行したのです。このようにミックスすることでうまく国をまとめていきました。ただ、匈奴冒頓単于(ぼくとつぜんう)に敗北してしまいます。

 

 高祖の死後、幼い皇帝や病弱な皇帝が続いたため、諸侯たちは皇帝のいうことを聞かなくなっていきました。

 

 6代目にまともな皇帝である景帝(前157~前141)が出てきました。このとき、諸侯の力を抑えるため、諸侯の領土削減と抑圧を試みます。すると当然反発が生まれます。呉楚七国の乱(前154)です。しかしそれは鎮圧されてしまいました。ここで、皇帝の言うことをきかせる制度が作られるようになったわけです。

 

武帝

 7代目の皇帝は武帝(前141~前87)です。諸侯たちをつぶしていったので、実質的に郡県制的統治へ移行していきました。さらに、役人を雇う制度の郷挙里選(きょうきょりせん)を始めます。地方にいる優秀な人材を地方長官が中央に推薦するものです。

 

 また、董仲舒(とうちゅうじょ)によって、儒学を官学化されます。郷挙里選で選ばれた人に儒学を徹底的に学んでもらうということです。また、五経博士(ごきょうはくし)を設置しました。

 

 郡県制的統治に変えることにより、役人の数が足りなくなります。なので、郷挙里選によって、役人を増やします。彼らには儒学を学んでもらいます。儒学は目上の人の礼儀を重視するので、皇帝に対して従順な役員になっていきます。このように武帝は地方の統治をしていました。

 

 改革はまだあります。塩、鉄、酒の専売にして、利益を上げます。国しか売ってはいけないということです。さらに、物価の調整と安定をはかるため均輸と平準(きんゆとへいじゅん)の実施をします。そして、貨幣を新しく鋳造します。五銖銭(ごしゅせん)になりました。政治だけでなく、経済政策も行ったのですね。

 

  次は対外の話です。武帝張騫(ちょうけん)を匈奴挟撃のための同盟締結のために月氏(だいげっし)に派遣します。大月氏は西にあるらしいとしかわかりませんので苦労しました。13年間探したといわれています。やっと見つけますが、同盟を拒否されました。近隣の国々も拒否されます。

 

 散々な結果でしたが、さまよったことでその地域の情勢がわかったのです。中国からこの地域に行き、イランと取引ができるとわかりました。つまり、重要な貿易ルートを発見したのです。このルートはシルクロードと呼ばれるようになります。

 

 前129年、匈奴を討伐し、東西交易路の重要地を確保します。そして、西域へと進出していきます。

 

    さらに、前111年、南越(なんえつ)を征服し、日南郡(にちなん)を設置します。また、前108年、衛満(えいまん)が建国した衛氏朝鮮を征服し、朝鮮4郡を設置します。楽浪郡(らくろうぐん)が有名です。

 

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 まだあります。張騫の情報から脚が早い馬がいるということがわかりました。汗血馬(かんけつば)です。1日1000キロ走るそうです。その馬も獲得しました。

 

後漢

 武帝の死後、前漢は衰退していきます。積極的な戦争のために、お金がなくなっていったのです、そのため、豪族(ごうぞく)宦官(かんがん)外戚(がいせき)が力をつけてきて、皇帝の政治を邪魔していきました。豪族は地方の実力者のことです。宦官後宮に使えた去勢された男性のことです。外戚は、皇后や后の親族のことです。

 

 前漢外戚王莽(おうもう)のクーデターによって滅ぼされます。そして、新(8~23)が建国されます。都が長安です。彼は周の時代に戻そう(復古主義)としたり、土地を国有化しようとしたりして、豪族の反発を生みます。

 

 そして、18年に赤眉の乱(せきび)によって、新は滅亡してしまいます。8から23年のたった15年でした。

 

 新が滅亡した後、漢が再建されます。後漢です。建国したのは、劉秀(りゅうしゅう)光武帝(こうぶてい)といわれます。都は洛陽です。建国のために豪族の力を借りて外戚を排除しました。このため皇帝の力は弱いのです。

 

 しかし、後漢は200年も続きます。それは、西側地域との交易で大きな収入があったからです。そのため、王朝が存続できました。

 

 光武帝のときは、倭人との交流がありました。日本人のことです。このときに渡されたものが、金印です。「漢委奴国王」(→画像)という印があり、中国に認められたこともわかっています。

 

 大きな収入がある西側との貿易は重要視されていたため、東西貿易は発展していきます。91年、班超(はんちょう)は警備のため西域都護(せいいきとご)へ就任します。彼は部下の甘英(かんえい)大秦(たいしん)へ派遣されます。ローマ帝国のことです。しかし、辿り着くことはありませんでした。

 

 ローマへたどり着くことはありませんでしたが、ローマからこちらへ来てくれました。大秦王安敦(たいしんおうあんとん)の使者が日南郡へ来訪します。大秦王安敦とはマルクス=アウレリウス=アントニヌスのことです。

 

 その後、東西交易が徐々に衰退してくると、後漢の支配に陰りがみえてきて、社会不安が拡大していきます。166年、169年に党錮の禁(とうこのきん)という事件が発生します。宦官が官僚を逮捕し、投獄し、処刑してしまうというものです。権力欲しさにクーデターまがいなものを起こしたのです。

 

 ついに、184年、黄巾の乱(おうきんのらん)が起こります。太平道という宗教を作った張角(ちょうかく)によってです。華北一帯に波及しますが、豪族の協力によって鎮圧されます。これにより、各地の豪族たちが自立する群雄割拠の時代になっていきました。

 

略図

仰韶文化

竜山文化

西周

春秋

戦国

前漢

後漢

 

今日はここまで。ではまた次回!

 

 

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