今日も中国史の続き。そういれば中国の流れを覚える歌ありましたよね。
世界史チャレンジ。大学受験や教養、旅行の前になど。毎日少しずつ知っていこう。
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あらすじ
中国は魏・蜀・呉の三国時代を迎えます。魏は西晋になり、中国を統一しました。
しかし、異民族が入ってきて、北側は混乱状態になり、五胡十六国の時代になります。この国々を統一したのは北魏でした。
これ以降、北にできた王朝を北朝、南にできた王朝を南朝といい、様々な王朝で出てきます。この混乱は300年も続きました。
地図
まずは地図で確認しましょう。赤で囲まれた箇所が中国でここが今日の舞台です。
三国時代
後漢の滅亡後、中国には3つの国が出来ます。魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)です
曹操(そうそう)(216~220)は、屯田制を実施して華北の統治の基盤を作ります。中国の北側を華北といいます。
そして、曹丕(そうひ)(220~226)が魏の初代皇帝になります。彼は、九品中正という新しい官吏登用制度を整えます。派遣された中正官が、地方の人材を9等級に評定するものです。
劉備は、四川省に蜀を建国します。しかし、263年、魏によって滅ぼされます。
孫権(そんけん)は、江南地方に呉を建国します。この3つの国が争っていました。
265年、司馬炎(しばえん)は、魏から皇帝の地位を譲り受けます。そして、都が洛陽の西晋(265~316)を建国します。この西晋が280年、呉を征服します。これにより中国統一が完成しました。また、占田・課田法(せんでん・かでん)という新しい土地制度を実施しました。
司馬炎の死後、八王の乱(はちおう)が起きます。皇帝の地位をめぐって内乱が起きてしまったのです。外戚と晋の一族らが内紛状態になってしまいました。
彼らは勝ちたい一身で異民族の力を借りました。そのため、異民族が中国国内に入っていきます。そして、最終的に316年、匈奴により滅亡してしまいました。この後、多くの異民族が入る時代がやってきます。
五胡十六国の時代です。五胡とは、匈奴・鮮卑・羯・氐・羌(きょうど・せんぴ・けつ・てい・きょう)のことです。この異民族が16の国を作ったのでした。
一方、敗れた西晋の一族を率いて司馬睿(しばえい)は、建康(けんこう)(南京)に東晋(317~420)を建国します。統一したかに見えた中国はまた南北に分かれてしまいました。
北魏
華北の五胡十六国を統一したのは、北魏(386~534)です。鮮卑の国家です。建国者は拓跋氏(たくばつし)で、都は平城(へいじょう)です。
そして、太武帝(たいぶてい)(423~52)のときに華北を統一しました。彼の時は、柔然(じゅうぜん)と対立していました。また、中国の北側をまとめあげるために、寇謙之(こうけんし)を重用し、道教を国教化しました。
次は、孝文帝(こうぶんてい)(471~499)です。彼はさらに華北をまとめ上げるために、土地制度の均田制、村落制度の三長制を行いました。
また、洛陽に都を移し、漢化政策を行います。しかし、反発を生んで衰退していき分裂します。
北魏は東魏と西魏に分かれます。2国は対立していましたが、2つとも、部下に王朝を乗っ取られてしまいます。東魏は北斉に、西魏は北周になります。そして、再度戦い勝ったのは北周です。しかし、北周は隋に乗っ取られてしまいました。
南朝
話は戻って、北魏の頃です。中国の人々は、南側に移っていきます。そして、南側を中心に王朝が4つ出てきます。これをまとめて南朝といいます。一方、北魏以降、北側を北朝といいます。南朝は都を建康として、宋→斉→梁→陳(そう・せい・りょう・ちん)と変わっていきました。
この時代には江南の開発が進みました。江南とは長江以南のことです。また、門閥貴族(もんばつきぞく)が台頭してきます。門閥貴族は「上品に寒門なく、下品に勢族なし」と表されました。
略図
仰韶文化
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竜山文化
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夏
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殷
↓
↓
春秋
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戦国
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秦
↓
↓
新
↓
↓
魏 / 呉 / 蜀 (三国時代)
↓
晋
↓
↓ ↓
宋 北魏
↓ ↓
斉 ↓
梁 ↓ ↓
↓ ↓ ↓
↓
隋
今日はここまで。また次回!