【教養のための世界史】五代十国・ 宋

またもどって来て今日は中国史。中国史は一気にしてくれるんですよね。ありがたい。

 世界史チャレンジ。大学受験や教養、旅行の前になど。毎日少しずつ知っていこう。

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あらすじ

 唐王朝が滅亡した後、五代十国時代という混乱の時代を迎えます。この混乱を鎮めたのが北宗でした。北宗は、今までの王朝と違い交易主体の国家体制を取ったために財政は潤っています。そのため、様々なものが発達していきました。

 

 しかし、北方民族が侵入してきます。金が宗の北側を支配し、宗の一族の一部は南に逃げて南宋を立てました。

 

地図

 まずは今日やる舞台がどこか確認しましょう。赤で囲ったところが中国です。

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五代十国時代

 唐王朝が滅亡した後、五代十国時代(907~979)になります。まず朱全忠(しゅぜんちゅう)が後梁(こうりょう)を開封(かいほう)に建国します。次は後唐になります。次は後晋です。契丹の支援で建国したため、燕雲十六州を渡します。これは異民族を防ぐ長城ごとあげてしまったようなものでした。次は、後漢(こうかん)。都は開封です。その次は後周です。都は開封です。

 

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 唐末から五代の混乱で旧貴族は没落してしまいます。そのため荘園は崩壊してしまいました。すると軍人と結託した新興地主層や士人層が台頭していきます。

 

 この時代は藩鎮(はんちん)が各地に成立して自分で王朝を建てようとしていた時代でした。そして、没落していった農民は佃戸(でんこ)と呼ばれるようになります。

 

北宋

 この混乱の時代を鎮めたのは北宋(960~1127)です。都は開封です。開封は貿易都市で、お金ありました。これがこれまでと違いました。

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 北宋を建国したのは趙匡胤(ちょうきょういん)です。彼は今までの武力に頼る政治を反省して、文治主義へ移行しました。軍人でない人が政治をするということです。また、科挙の最終試験として殿試(でんし)を行うようになりました。人事権を握ったということです。さらに、節度使の数を削減して軍人の数を減らしていきました。これで五代十国の混乱の時代から安定の時代になっていきました。

 

周辺民族

  北宋時代の周辺民族には、遼(契丹)(916~1125)がいました。耶律阿保機(やりつあぼき)が建国しました。北宋は遼が攻めてこないように澶淵の盟(せんえいのめい)を結びました。北宋は毎年、遼に銀10万両と絹20万匹の歳賜を贈ったのです。

 

 遼は二重統治体制を取っていました。遊牧、狩猟民と農耕民とを分けて統治していました。しかし、金の攻撃により滅亡し、西へ逃げて、西遼(せいりょう)という国に変わります。建国者は耶律大石(やりつたいせき)です。

 

 次は、西夏(せいか)です。建国者は李元昊(りげんこう)です。タングート族の国家です。

 

 そして、です。女真族を率いて完顔阿骨打(わんやんあぐだ)が建国します。女真族はもともと契丹の支配を受けていましたが、そこから独立しました。また、道教をモデルに全真教という新しい宗教も登場しました。さらに、猛安・謀克(もうあん・ぼうこく)という自分たちをまとめるための工夫も行っていました。

 

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改革

 北宋開封は貿易都市で、お金ありました。そのため、お金に頼った政治をしてきました。官僚を多く使うのでもちろんお金がかかります。さらに、武断政治をやめたため、地方の軍はまったくダメでした。そのため、周辺民族に対しては、澶淵の盟を結ぶなどを行ってきました。しかし、やがて北宗は財政が逼迫していきます。

 

 王安石(おうあんせき)は宰相に任命され、新法という改革を行っていきます。青苗法(せいびょう)、均輸法、市易法(しえき)、募役法の国を富ませる政策と保甲法(ほこう)、保馬法(ほば)のお金を掛けずに強くする政策がありました。彼は貧しい人を助け、お金を持っている人からお金を持ってくる改革を行ったのでした。

 

 当時、地主が高利貸しで民衆を苦しめていたので、民衆への低利融資政策である青苗法が出されました。しかし、官僚には地主出身が多いので、これに反発するものも出てきました。

 

 それが司馬光(しばこう)です。彼は旧法党を作って、王安石の改革を支持する新法党と対立します。最終的に旧法党が勝ちます。そして、王安石の改革を次々とつぶしていきました。そのため、北宋の財政改革はうまくいかず、衰退していってしまいます。

 

滅亡

 そして、靖康の変(せいこう)で金が開封を占領し、徽宗・欽宗(きそう・きんそう)親子らを連行してしまいました。これで北宋王朝は滅亡してしまいました。しかし、残された宗の一族は南に逃げていきます。そして、高宗が都を臨安にして南宋を建て直しました。

 

 ここで、金に対して復讐するのかしないのかで意見がわかれてしまいます。主戦派の岳飛と和平派の秦檜(しんかい)です。最終的に秦檜が勝ち、金と和議を締結し、国境が淮河に決まりました。

 

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社会経済

 宗の時代には、新しい地主が台頭していきます。形勢戸(けいせいこ)です。彼らは佃戸と呼ばれる小作人を使用していました。また、形勢戸はお金があるので、ここから多く官僚が出て行きます。科挙を受けるのにお金を出すことができたのです。そして、形勢戸から出た官僚のことを士大夫(しだいふ)と呼ぶようになります。儒学教養を身に付けた政治的、社会的指導者層のことです。

 

農業

 宋は、占城稲(せんじょうとう)という日照りに強い丈夫で早く育つ稲が東南アジアから伝わってきました。そのため、長江下流域が稲作地帯の中心地となりました。そこで、「蘇湖熟すれば天下足る」と言われるようになります。

 

都市

 唐末から出来ていった草市から鎮(ちん)へと発達していきます。都市の内部では、という組合が出来ました。行は商人の組合、作は手工業の組合です。また、代表的な都市は、景徳鎮(けいとくちん)です。宋磁の生産地です。海外にも輸出されました。

 

 さらに、銅銭という東アジア全域に輸出され広く使用されるお金を作りました。また、交子会子といった紙幣も登場します。

 

 宋王朝は陸のルートに異民族がいるため、海の貿易が盛んになります。そのため、貿易を管理するための市舶司を増設しました。そして、広州()泉州()明州()などの貿易港が発達していきます。

 

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 広州北宋時代最大の貿易港でした。泉州は、南宋時代には貿易額が広州を越えるくらい栄えました。明州は、現在の寧波で、日本の遣唐使勘合貿易船の寄港地でした。

 

略図

五代十国   /            遼

↓              ↓

北宋                     ↓

↓          ↓    ↓ 

↓       西夏      ↓

南宋 / 金  ↓  金

↓    ↓   ↓    ↓

↓    モンゴル

↓     ↓

 モンゴル

 

今日はここまで。ではまた次回!

 

 

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