今日も中国史。まだまだ続きます。遣唐使か遣隋使に小野妹子がいましたね。小野妹子の逸話は結構好きだったりします。
世界史チャレンジ。大学受験や教養、旅行の前になど。毎日少しずつ知っていこう。
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あらすじ
混乱の時代を統一したのは隋でした。このときに、次の王朝へ受け継がれるくらい完成した大三制度が完成しますが、失政のため反乱がおき、唐になります。
安定した政治を送っていましたが、6代目の皇帝、玄宗が楊貴妃を溺愛してしまい、国内は混乱し、さらに財政が逼迫していきます。最終的に節度使の朱全忠が唐を滅ぼしました。
地図
まずは、地図の確認です。話の舞台の中国は赤で囲まれた部分です。
隋
北周の外戚だった楊堅(581~604)は、隋を建国します。そして、当時北側にいた突厥(とっけつ)を攻撃し、さらに南朝の陳を滅ぼしました。589年に、ついに中国を隋は再統一します。初代皇帝は楊堅(ようけん)で、文帝と呼ばれました。都は大興城(だいこうじょう)です。赤で囲まれた部分が隋です。
598年、科挙を実施します。ペーパーテストに基づく選挙を実施します。こうすることによって、身分、家柄に関係なく優秀な人を取ることができ、貴族の高級官職の独占を防止しました。
2代皇帝は煬帝(ようだい)です。大運河の造営して、北と南をつなぎました。赤いのが大運河で華北と江南を結びました。
また、高句麗に3回遠征にいきますがすべて失敗してしまいます。ちなみに煬帝の帝はテイでなくダイと読みますが、それは、読み間違えることによって、皇帝の器ではないことを表しているそうです。
民衆をこき使ってしまったことや、遠征に失敗してしまったことで、各地に反乱が発生し、殺害されてしまいました。この後、618年に李淵(りえん)が唐を建国します。
三大制度
次に土地制度の話になります。この時代は三大制度が確立します。1つ目は土地制度である均田制です。均田制は北魏で始まりますが、それをより整備しました。
北魏の頃には成年男性、妻、耕牛、奴隷に土地を給田するものでしたが、隋では、耕牛、妻、奴隷への給田を廃止しました。この均田制によって、国家が人と土地を管理する制度が定められました。
2つ目は、税制である租調庸制です。租は穀物、調は絹、綿、麻などのことです。庸は1年に20日の労役のことです。
3つ目は、兵制である府兵制です。もとは西魏で始まったものでした。均田制で土地を配った農民から徴兵していくものです。この間は、租調庸は免除されます。
均田制によって、国家が人と土地を直接管理し、税金を課し、緊急時には兵隊になってもらうという完成された制度です。よって、唐にも受け継がれます。
唐
話は戻って、618年に李淵は、唐を建国します。赤で囲まれたのが領土で隋とそこまで変わりません。
2代目皇帝は、李世民(りせいみん)(626~649)で太宗(たいそう)と呼ばれています。彼の時代は貞観の治(じょうがんのち)という特別な言われ方があります。太宗の治世を美化、賛美した言い方で、それだけすごかったということがわかります。
彼は、中央政府の最高機関である三省を整備します。皇帝の命令である詔勅の立案、起草を担当する中書省(しゅうしょしょう)、皇帝の詔勅を審議する門下省(もんかしょう)、詔勅を施行する尚書省(しょうしょしょう)の3つになります。
尚書省は六部(りくぶ)と呼ばれる役所に指示します。六部は、吏部・戸部・礼部・兵部・ 刑部・工部[りぶ・こぶ・れいぶ・へいぶ・けいぶ・こうぶ]です。また、官吏を観察する御史台(ぎょしだい)というのもありました。
三省の中では門下省が一番権限がありました。さらに、貴族が独占していたので、自分たちに不利なものは通らないようになっていました。
太宗の時代には、律令国家体制が完成します。律は刑法、令は行政法や民法を指します。つまり、法律による統治体制が完成していきます。また、登用体制として科挙が引き継がれ、州県制が実施します。郡県制と同じです。
均田制、租調庸制、府兵制は引き継がれます。さらに、地方官庁での力役である雑徭(ざつよう)も課されます。また、東突厥を征服しました。
次は3代目の高宗(649~683)です。彼の時代は領土が最大になります。そして、中央アジアにいた西突厥を攻撃しました。
また、唐王朝は、支配化に入った異民族に羈縻政策(きび)を行っていました。各部族長に自治を与え、異民族の文化、宗教を容認するものです。しかし、官吏と軍隊を駐屯させ、異民族の自治を監督させる都護府を設置しました。これが歴代中国王朝に継承される異民族支配の形になっていきます。
動揺
高宗の死後、彼の子どもが即位しますが、使えないため廃位させられ、彼の妻である則天武后(そくてんぶこう)(690~705)が皇帝に即位します。中国史上、唯一の女帝です。
彼女は、唐の名を周に変えます。さらに、科挙官僚を積極的に登用し、従来の貴族勢力を抑圧しました。
6代目の皇帝は、玄宗(げんそう)です。彼の前半の政治は「開元の治」と呼ばれ、称賛されていました。まず、周辺異民族に備えて軍の指揮官である節度使(せつぞし)を設置します。次に、均田農民の没落、逃亡を受けて、金銭で兵を徴集する募兵制を実施します。
その後、彼は楊貴妃(ようきひ)を溺愛してしまったために、政治が乱れ、国内が混乱し、豪奢な宮廷費が唐の財政を圧迫していきました。
712年、節度使の安禄山と史思明(あんろくざんとししめい)によって、安史の乱が起き、国内は混乱に陥ってしまいます。そこで、玄宗は楊貴妃と逃げますが、部下の兵士たちに迫られます。そして、玄宗は国難の元凶であった楊貴妃を処刑しました。ヤル気がなくなった彼はそのまま退位してしまいます。
皇帝の座は、粛宗、代宗と継承されます。最終的にウイグルの支援を得て、平定しました。これらにより、均田制など諸制度が崩壊し、羈縻政策も破綻してしまいます。
780年、両税法の制定し財政を再建しようとしました。夏、秋に分けて徴税するもので、土地の所有者が税負担者になります。これによって、均田制は崩壊しました。
875年に黄巣の乱(875~884)が起こります。黄巣は塩の密売商人です。唐王朝は財政再建のために塩を専売化しようとしました。これに反発して起こったものです。さらに反乱が起きたことで貴族たちが持っている土地である荘園が荒廃し、地方の節度使が自立化していきました。
そして、この節度使たちは藩鎮と呼ばれるようになってきます。節度使のレベルアップしたもので、節度使が軍事権、財政権、民政権の3権を掌握し、自分たちが守るべき地域を支配し始めたのです。これにより唐の政治は終わってしまいました。
907年、節度使の朱全忠により唐が滅亡し、後梁を建国しました。
社会経済
唐時代には様々な外国商人と接触しました。まず、ムスリム商人です。彼らは海上貿易で活躍し、ダウ船(→画像)の使用をしました。
次は、ソグド人です。彼らは内陸の東西貿易で活躍しました。日本からも阿倍仲麻呂が留学生として中国に訪れました。彼は玄宗に好かれて、役職ももらいます。また、帰国途上に暴風で日本に帰れなくなってしまいました。
唐王朝では、様々な都市が発達していきます。都の長安は唐の最盛期には人口100万人いました。また、広州は南海貿易の拠点で、初めて海上貿易を管理する市舶司が設置されました。揚州(ようしゅう)も交易港として栄えます。
さらに、唐末から草市が発生しました。都市の城郭外に開設された非公認の市のことです。
周辺
次は周辺国との関係の話です。唐時代では、冊封体制をとっていました。中国が周辺諸国と形式上の君臣関係を結んで形成された国際秩序のことです。朝貢してきた首長に対し、官爵を与えて、その統治を承認しました。
青海、チベットの吐藩、雲南地方の南詔、東南アジアのチャンパー、シュリーヴィジャヤ、朝鮮半島の新羅、渤海国などから朝貢に来ました。
一方、異民族に対しては、羈縻政策を取っていました。各地の部族長に対して、自治を認め、都護府で管理するものです。
略図
仰韶文化
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竜山文化
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夏
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殷
↓
↓
春秋
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戦国
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秦
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新
↓
↓
魏 / 呉 / 蜀 (三国時代)
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晋
↓
↓ ↓
宋 北魏
↓ ↓
斉 ↓
梁 ↓ ↓
↓ ↓ ↓
↓
隋
↓
唐
↓
五大十国
↓
今日はここまで。ではまた次回!