【教養のための世界史】ロシアの発展と東方問題

今日はロシアの発展と東方問題。ここでロシアの歴史が深くなってきますね。

世界史チャレンジ。大学受験や教養、旅行の前になど。毎日少しずつ知っていこう。

 

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東方問題とは、オスマン帝国における領土と民族問題をめぐる問題のこと。

 

南下政策

 

 ロシアはイギリスに対抗できるように、自分の国でも産業革命をしようとたくらみました。産業革命を迎えるためには、お金が必要です。そこで広大な土地で取れる作物を海外に売って、産業革命のための資金にしようと考えました。

 

 しかし、麦の収穫の時期(秋)からロシアの上側の港は凍り始めます。そのため、ロシアは暖かい港を求めて、南下をしていきました。

 

 ロシアはギリシア正教会のリーダーですので、ギリシア正教会が多く住むバルカン半島には入っていきやすいのです。さらに、スラブ人を多く住むので、パン=スラヴ主義を持って南下しやすいのです。

 

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 ギリシア独立戦争にロシアは首を突っ込みます。ギリシアには、イギリス、フランス、ロシア、ロマン派の文化人、バイロンドラクロワが応援しました。

 

 一方、当時ギリシアは領有していたオスマン帝国は、エジプトを仲間にして、戦います。結果、イギリス、フランス、ロシアの艦隊がオスマン帝国の艦隊を撃破して、ギリシアは独立に成功しました。このときに、ロシアは、ダーダネルス・ボスフォラスの両海峡の自由通航権を獲得しました。

 

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 ロシアは第1次エジプト=トルコ戦争にも介入します。エジプト総督ムハンマド=アリーがオスマン帝国にシリアの領有を要求しました。それにオスマン帝国は断固拒否します。これがきっかけに始まりました。エジプト側には、イギリス、フランス、オーストリアが仲間になります。一方オスマン帝国には、ロシアが南下政策の交渉をしかけました。

 

 結果、エジプトはシリアの領有権を獲得しました。そして、ロシア以外の外国軍艦が両海峡を通航することを禁止にしたのです。これでロシアは独占できました。しかし、ヨーロッパの国々はこのことに気づいていたのです。

 

 次は、第2次エジプト=トルコ戦争です。エジプトとシリアの世襲権をオスマン帝国に要求しましたことがきっかけでした。これは最悪な結果になります。ロンドン会議では、エジプトはシリアを返還しました。その代わり、エジプト・スーダン世襲権を承認されました。

 

 さらに、ロシアの南下政策に気づいたヨーロッパの各国は、すべての外国軍艦が両海峡を通航することを禁止に賛成したのです。これでロシアの1回目の南下政策は失敗してしまいました。

 

近代化

  当時のオスマン帝国がフランスに聖地イェルサレムの管理権を勝手に割譲してしまいました。これにロシアは、ギリシア正教徒の保護を口実に宣戦布告をします。クリミア戦争です。

 

 オスマン帝国側には、イギリス、フランス、サルデーニャがつきました。ロシアは単独です。そのため、オスマン帝国が勝利しました。その結果、パリ条約で、黒海の中立が決定しました。

 

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 当時の皇帝アレクサンドル2世は、クリミア戦争でまったく太刀打ちできなかったことを受けて、ロシアを近代化することを考えました。

 

 まず、農奴解放令をします。しかし、人格的自由は無償で与えられましたが、土地は有償でした。土地は買わないといけないのです。そこで、ミールという農村共同体での生活に変わっていきました。みんなで地主から土地を購入して、分割で払って言ったのです。

 

 この改革の空気にポーランドでは独立を求める反乱が起こりましたが、鎮圧されました。アレクサンドル2世は、改革を進めると民族の独立運動が起こるかもしれないと思い、徐々に皇帝独裁政治をまた強めていきます。

 

 皇帝が改革に消極的になっていく最中、ナロードニキ(人民主義者)が活動していきました。彼らは、インテリゲンティア(知識人)が中心で独自の平等社会の実現を目指します。そのために「ヴ=ナロード(人民の中へ)」を掲げて農村部に進出していきました。

 

 しかし、彼らの運動は農民にはわかりませんでした。さらに政府の弾圧もあり、運動は失敗に終わってしまいます。そこでやがて、彼らは、過激になっていきました。アレクサンドル2世を暗殺してしまいます。徐々にテロリズムがロシアで横行するようになっていきました。

 

 ロシアは南下政策を諦めていません。次は、バルカン半島をねらっていきます。そこで、再度オスマン帝国と戦います。ロシア=トルコ戦争です。きっかけは、オスマン帝国内で起きたボスニア・ヘルツェゴヴィナの反乱でした。この反乱はオスマン帝国によって鎮圧されますが、この地域はスラブ人が多く住んでいます。そこで、ロシアはパン=スラヴ主義を掲げて宣戦布告しました。

 

 結果ロシアが勝ち、サン=ステファノ条約が結ばれます。ルーマニアセルビアモンテネグロが独立しました。さらに、ブルガリア自治が与えられ、ロシアが保護しました。ロシアは南下政策を完成目前です。

 

 この条約にイギリスやオーストリアなどのヨーロッパの国々が猛反発しました。そのため、この条約をもう1度見直そうとする会議が開かれます。ベルリン会議です。主催者はビスマルクでした。

 

 これで新しくベルリン条約が結ばれます。ルーマニアセルビアモンテネグロの独立は変わりませんでしたが、ブルガリアの領土が縮小されました。また、ロシアの保護を廃止します。

 

 さらに、ボスニア・ヘルツェゴヴィナオーストリアによって統治され、キプロス島はイギリスが統治することになりました。

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 これにより、ロシアの南下は再び失敗してしまいました。この後ロシアはアジアへ進出していきます。

 

略図

 

○ロシア

ロマノフ朝

↓ ニコライ1世

↓ デカブリストの乱

ギリシア独立戦争

↓  クリミア戦争

アレクサンデル2世

↓ ロシア=トルコ戦争 → サン=ステファノ条約 → 

ニコライ2世