今日は、第二次世界大戦後の欧米諸国です。私たちは、歴史の中を生きているのですね。
世界史チャレンジ。大学受験や教養、旅行の前になど。毎日少しずつ知っていこう。
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イギリス
イギリスは第二次世界大戦が終わるころ、アトリー内閣に変わりました。彼は疲弊したイギリスを立て直すために、重要産業を国有化します。イングランド銀行や石炭産業を保護しようと考えました。さらに、社会福祉制度の充実を行います。この社会福祉制度をゆりかごから墓場までというように表現しました。生まれて方から死ぬまで国が生活を保障してくれることを目指したのです。
第二次世界大戦が終わるとイギリスから独立を求める動きができてきます。エールがイギリス連邦から離脱し、アイルランドと改称しました。
1979年からはサッチャーが首相になります。イギリス史上初の女性首相です。彼女は「イギリス病」の克服を目指しました。当時発生した不況をイギリス病といいました。そのため、新自由主義をとります。社会福祉を削減し、国有企業を民営化します。そして、自由競争を奨励しました。このように小さな政府に変えていったのです。
しかし、このイギリスに対し、アルゼンチンが戦争をしかけました。当時イギリスが持っていたフォークランドという島をアルゼンチンが占領したのです。これに対し、軍隊を送って、制圧したのです。これをフォークランド戦争といいます。
アメリカ
1950年代からアメリカは、トルーマンが唱えた封じ込めではなく、巻き返しを考えました。次のアイゼンハワー大統領は、世界の国々と軍事同盟を結んでいきます。
アメリカ国内でもマッカーシズムが流行していました。当時の上院議員マッカーシーが共産主義者を厳しく取り締まっていたことが由来の言葉です。この取締りは赤狩りと呼ばれました。
トルーマンからアイゼンハワーまでの間にアメリカは様々の軍事同盟を結んでいきました。朝鮮戦争後、日本と日米安全保障条約を結びます。日本に共産主義が広がるのを警戒して結んだのです。韓国とは、米韓相互防衛条約、台湾とは、米華相互防衛条約を結びました。
さらに、太平洋安全保障条約(ANZUS)、東南アジア条約機構(SEATO)、中東条約機構(バグダード条約機構、METO)、アメリカ州機構(米州機構、OAS)が結ばれました。このようにソ連を囲んでいざとなったときに戦えるようにしたのです。
ケネディー大統領のときには、キューバ危機が起こりました。翌年には、部分的核実験禁止条約を締結させました。核実験をある程度制限していこうと、アメリカ、イギリス、ソ連で結びます。大気圏内・宇宙空間および水中での核兵器実験を禁止しました。
これは、部分的と書いてあるように地下実験は除かれました。そのため、フランスや中国は、核の独占を狙った条約であると非難しました。
国内に関しては、ニューフロンティア政策を打ち出しました。西部開拓時代のようなフロンティア精神をもってほしいと国民に協力を呼びかけたのです。
この時期は、黒人解放運動が起こりました。当時黒人は奴隷としては解放されていましたが、差別が続いていたのです。この黒人の差別をなくそうとキング牧師を筆頭に運動が起こりました。彼は、ガンディーと同じ、非暴力・非服従を掲げました。ケネディーは、彼に共感し、差別のないアメリカにしていくと目指しました。しかし、その後、ケネディーは、テキサス州のダラスで暗殺されてしまいます。
任期の半分で暗殺されてしまったので、当時の副大統領ジョンソンが大統領に就任しました。彼は、「偉大な社会」計画を打ち出します。ケネディーの意思を継ぎ、アメリカから差別と貧困をなくすことを提唱しました。このときに、公民権法が制定されます。人種・宗教・性別・出身国などによる差別を禁止しました。
しかし、彼はベトナム介入を行ったので財政は圧迫されてしまいました。当時社会主義勢力が拡大していたベトナムに対して、爆撃を開始し、本格的に介入していったのです。
アメリカの兵隊がベトナムの市民に銃を突きつけている様子が新聞に掲載されると、国内で反戦運動が活発化していきました。これは、国内だけでなく、全世界に波及していきます。これでアメリカは国際的に孤立していきました。さらに、黒人解放運動とも合流し、一大運動になったのです。
このように財政が悪化し、国際的に信用も失い、様々な面で危機に直面することになりました。
1970年代には、2つの大規模な経済危機を迎えます。1つ目は、ドル危機(ドル=ショック)です。アメリカが金とドルの交換を停止しました。これは、ブレトン=ウッズ国際経済体制の崩壊を意味します。ベトナム戦争でお金を使いすぎたために起こりました。これに2つ目の第1次石油危機(オイル=ショック)が加わります。
この経済危機に慌てた欧米諸国は、サミット(先進国首脳会議)を開催しました。欧米諸国が協力して世界の経済問題に対処するために協議したのです。
ジョンソンの次は、ニクソン大統領です。彼のときには、ウォーターゲート事件が発生しました。ライバルの民主党の事務所に盗聴器の設置を指示したことが発覚したのです。これによりニクソンは辞任してしまいました。
次の大統領は、カーターです。彼は人権外交を展開しました。さらに、米中国交正常化を実現します。最初はうまくいっていましたが、ソ連がアフガニスタンに軍事侵攻したため、ソ連との関係が悪化してしまいました。不運なことに、この時期に第2次石油危機が到来してしまいます。
次は、レーガン大統領です。彼はこれらの危機に対処するために、新自由主義を提唱しました。「小さな政府」を目指します。フランクリンローズヴェルトのように国家が積極的に経済に介入することを少なくしたのです。
しかし、同時に経済摩擦が発生してしまいました。日本の製品がアメリカに入ってくるのに、アメリカの製品がなかなか日本に行きません。これにより、アメリカの輸入が赤字になっていったのです。財政も貿易も赤字なので双子の赤字と呼ばれます。
アメリカの財政はピンチになり、プラザ合意が結ばれました。これにより、アメリカがドル安になるようにしたのです。
次はクリントン大統領です。彼はアメリカの貿易を成長させるために、自由貿易を拡大しようとしました。北米自由貿易協定(NAFTA)を締結させます。アメリカ、カナダ、メキシコによる自由貿易協定です。
これによりメキシコにアメリカの安い穀物が入ってきました。そこで、農家は都市労働者になってしまい、数が多くなったことから、賃金が減ってしまったのです。
また、彼はインターネットを民間に開放しました。インターネットはもともと軍事機密のものでした。それを民間に開放したため、情報技術(IT)革命を迎え、コンピュータや携帯電話の分野で発達します。これでアメリカの経済は急成長を迎えました。
彼の後、ブッシュ(子)大統領です。彼の就任直後に同時多発テロ事件が起きました。2001年9月11日、世界貿易センタービル、ペンタゴンに旅客機が追突したのです。これを受けて、彼は「対テロ戦争」を宣言しました。そこで、主犯を国際テロ組織アル=カーイダであると断定します。この組織の指導者はビン=ラーディンです。
彼はアル=カーイダを捕まえるために、報復戦争を行いました。その組織が隠れていたアフガニスタンに攻撃をします。当時アフガニスタンではイスラム武装組織のターリバーンが政権を取っていました。このターリバーンがアル=カーイダをかくまっているという情報を得て攻撃したのです。これで、ターリバーン政権を崩壊させることに成功しました。
ここまでは、周りの同意を得られましたが、この後、彼は不思議な動きをとります。イラクのサダム=フセイン大統領が大量破壊兵器を持っていると言って、イラクに攻撃をしかけました。これがイラク戦争です。イギリスも日本もこの動きに追随しました。しかし、フランスなどの国はこれを批判したのです。結果、フセイン政権が崩壊し、イラクに民主政治が広がることとなりました。
日本は、このブッシュの動きを全面的に支援しました。小泉純一郎内閣のときに、イラク復興支援特別措置法が可決されます。自衛隊の海外派遣が決まりました。
しかし、戦争を進めたことで、アメリカの経済は、ピンチになっていきます。2008年国際金融危機が起こりました。リーマンショックです。世界恐慌を超える不況が世界に到来したため、G20と呼ばれる金融に関する国際会議を開催しました。
彼の後は、オバマ大統領になります。アメリカ初の黒人大統領です。彼は就任後のプラハで行われた演説で、核兵器廃絶演説を行いました。これにより、ノーベル平和賞を受賞します。
前の時代から、国連平和維持活動(PKO)や非政府組織(NGO)の活動が目立つようになっていきました。
フランス
第二次世界大戦後、第四共和政が始まります。議会制内閣を採用しますが、フランス共産党が勢力拡大しました。貧しい人たちを助ける共産党の支持が増えていったのです。
この第四共和政下では、フランスは混乱する一方でした。インドシナやウルジェリアはこの時期に独立問題から戦争を起こしています。これを抑えることができませんでした。このままではフランスは分裂してしまいます。
この状況に立ち上がったのがド=ゴールです。彼は、第五共和政を開始しました。混乱しているのは、長く話し合っているからで、フランスを再建するには、大統領に大きな権限を持たせ、その権限で立て直す必要があると彼は思ったのです。これにより、フランスの混乱は収束していくことになります。
その際、アメリカやイギリスに頼らない、独自の外交を展開していきました。フランス発展のためには、アメリカ、イギリスに左右されない政策が必要だと考えたのです。
そこで、アメリカに軍事力を頼らないように核を保有しました。さらに、アルジェリアの独立を承認します。また、中華人民共和国も承認し、NATOからも脱退しました。このようにアメリカ、イギリスから距離を置いたのです。
このようにド=ゴールが強い力で混乱を収束させていきますが、これに独裁ではないかと批判する風潮が生まれていきました。そのため、五月危機が発生しました。学生、労働者、市民らによる大規模な反ド=ゴール運動です。これにより、翌年、ド=ドールは退陣することになりました。
イタリア
第二次世界大戦後、王政を廃止し、共和政になります。そして、イタリアでもイタリア共産党が勢力を拡大しました。さらに、西欧最大の共産党ができました。
東ヨーロッパ
東ヨーロッパの国々のほとんどが第二次世界大戦中、ソ連のおかげでナチスドイツを追い出すことに成功しました。そのため、第二次世界大戦後の東ヨーロッパはソ連の影響を強く受けていきます。
ポーランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、アルバニアは人民民主主義をスローガンに新しい国作りを目指そうとします。しかし、これらの国は最終的にソ連の衛星国になっていきました。衛星国とは、あやつり国家ということです。
ただ、ユーゴスラヴィアは自力でドイツを追い出したので、ソ連とは距離を置きました。指導者はティトーです。
東ヨーロッパはこのようにほとんどがソ連の操り国家となってしまいました。この状況をイギリスの元首相チャーチルは鉄のカーテンと表現します。バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステに至るラインにソ連は鉄のカーテンを下ろしていると表現したのです。
経済統合
これまでのヨーロッパの戦争を反省してある提案がなされます。フランスの外相シューマンは、地下資源豊富な地域を奪い合うのではなく、共有することを提案しました。
これによりヨーロッパは経済的な統合を進めていきます。フランス、西ドイツ、イタリア、ベネルクス3国が中心となり、ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)を発足しました。次いで、ヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)、ヨーロッパ経済共同体(EEC)を発足させました。
この3つの組織が1967年に合体して、ヨーロッパ共同体(EC)になりました。
しかし、これに対抗する動きもあります。それがヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)です。イギリスの提案で発足した工業製品の共同市場です。
ECはさらに加盟国を増やしていきました。拡大ECといいます。1970年代には、イギリス、アイルランド、デンマークが、1980年代には、ギリシア、スペイン、ポルトガルが加盟していきました。このように、独立を維持したまま、経済的に強力する組織が作り上げていきったのです。
1990年代、マーストリヒト条約がオランダで締結しました。これでEU(ヨーロッパ連合)が誕生したのです。欧州統合の推進を目的とし経済・通貨・政治の面での統合を進展する組織です。本部は、ベルギーのブリュッセルに置かれました。最寄の駅はシューマンステーションです。
EUはユーロ(統一通貨)を導入しました。イギリスはポンドを使っていますが、ほとんどの国でユーロを使っています。
西ドイツ
第二次世界大戦後、ドイツは、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連によって管理されました。中でも西側はアメリカ、イギリス、フランスで管理しています。この西ドイツで奇跡的だといわれた経済復興を果たしたのは、アデナウアーのときでした。キリスト教民主同盟という政党の1人です。
アメリカに次ぐ大国となり、主権を回復し、再軍備、NATO加盟を実現しました。しかし、東ドイツ政府が西ベルリンを遮断するため、ベルリンの壁が構築されました。
当時西ドイツは発展を遂げていたものの、東ドイツは依然として貧しいままでした。そのため、亡命する人が後を立たなかったのです。それを阻止するために、ベルリンの壁が出来ました。
アデナウアーの後は、ドイツ社会民主党のブラントが首相に就任します。彼は、社会主義諸国との和解を促進する東方外交を展開しました。
まず、ポーランドとの国交を正常化します。ポーランドは、第二次大戦の爪あとが残る場所です。ポーランド侵攻やアウシュヴィッツ強制収容所があります。そのため、この和解は偉業だったのです。
ブラントは、ポーランドに訪問し、戦争で多くなくなった地域の石碑に向かって、演説を行いました。これはポーランドの人々の感動を呼んだのです。
さらに、東西ドイツ基本条約を締結し、東西双方の主権を認めました。そして、ついに東西ドイツが国連に加盟することになったのです。
1982年からコールが首相になります。彼のときに、ベルリンの壁が開放され、ドイツが統一しました。そして、ドイツ連邦共和国になります。ベルリンが都になりました。
しかし、東西で経済格差がありました。西はアデナウアー政権のときに奇跡の復興を遂げますが、東は低迷したままです。そこで、外国から安い労働力を入れて復興しようとしました。
そこで、外国人労働者問題が発生します。トルコ人などの外国人労働者が多く流入し、国内のドイツ人失業者が増加してしまったのです。やがて、ネオ=ナチを生むことになったのです。
スペイン
1975年、独裁者であったフランコが死亡しました。すると、スペインでは王政(ブルボン朝)が復活したのです。そして、国民投票で新しい憲法が制定され、民主化が進んでいきました。
ポルトガル
ポルトガルでも独裁者が死亡し、民主化が進んでいきます。軍部による無血のクーデターにより、独裁政権が打倒されました。これをリスボンの春といいます。
ギリシア
第二次世界大戦後、王政が復活しました。しかし、その後、軍部のクーデターで王政は廃止され、軍部独裁政権が発足します。その後、1970年代に、民主制に代わりました。
ソ連の崩壊
当時のゴルバチョフのときに、アメリカ冷戦が終わりました。そのため、冷戦時代に作った組織、コメコン、ワルシャワ条約機構を解消します。
しかし、このゴルバチョフの改革に反発する人もいました。彼の休暇中に、保守派がクーデターを起こします。このクーデターは、エリツィンや民衆の抵抗もあって、鎮圧されました。その後、ソ連共産党は解散ます。また、バルト3国が独立を回復しました。
その後、ソ連は大きく形を変えます。独立国家共同体(CIS)が成立します。安全保障・経済・文化などの面で旧ソ連各国の協力体制を目指す組織です。これにより、ゴルバチョフは辞任し、ソ連は消滅しました。
ロシアはロシア連邦と名前が変わります。そして、大統領となったのは、エリツィンです。次に、プーチン、メドヴェージェフと続きます。その後は、またプーチンが大統領になりました。
エリウィン、プーチンのときには、ロシア連邦から独立を目指すチェチェン紛争がありました。しかし、チェチェンというイスラーム国家は鎮圧されてしまいます。
東欧諸国の消滅
ソ連は、ゴルバチョフのとき、周りの国に干渉しないと宣言しました。そのため、ヨーロッパの国々が自由を求めて一斉に立ち上がります。
ポーランドでは、ワレサが率いるポーランド自主管理労働「連帯」が東欧諸国初の自由選挙で政権を獲得しました。
東ドイツでは、ホネカーが退陣します。そして、ベルリンの壁が開放されるようになり、ドイツが統一を果たしました。
ユーゴスラヴィアでは内戦が起こります。ここは、6個の共和国で構成されていました。クロアティア、スロヴェニア、セルビア、モンテネグロ、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナです。さらに、5つの民族が住んでおり、4つの言語があり、3つの宗教があって、2つの文字があります。
ティトーが生きている間はまとまりを見せていましたが、彼が死に、冷戦が終結すると、民族の対立が表面化してきました。
まず、クロアティアとスロヴェニア両共和国が独立を宣言します。さらに、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナが独立を宣言しました。残ったセルビアとモンテネグロは新ユーゴスラヴィア連邦を成立させました。
しかし、ボスニアには、イスラーム教徒、クロアティア人、セルビア人が住んでいます。そのため、ボスニア・ヘルツェゴビナをめぐって、クロアティアとユーゴスラヴィアが武力干渉し、ボスニア内戦に発展しました。
さらに、コソヴォ問題もあります。当時セルビアにコソヴォ自治州がありました。しかし、そこに住んでいる人はセルビア人でした。そこで独立の声が高まっていきます。それをミロシェヴィッチ大統領は、そこに住むアルバニア系住民を弾圧したのです。これを民族浄化といいます。すると、NATO軍は、コソヴォの人を助けるために、セルビアを空爆しました。
現代文化
デューイ・・・プラグマティズム
マックス=ヴェーバー
シュペングラー・・・『西洋の没落』
トーマス=マン・・・『魔の山』
ジャズ・・・黒人音楽
自動車、ラジオ、映画、飛行機、人工衛星、クローン技術、生命工学(バイオテクノロジー)
環境問題・・・人口爆発、飢餓、オゾン層の破壊、地球温暖化、砂漠化
地球サミット・・・環境と開発に関する国連会議 / 「持続可能な開発」にむけての国際会議
京都会議・・・地球温暖化防止会議 / アメリカ、中国は批准を否定、2005年、ロシアは批准
略図
○アメリカ
↓
↓
↓
ジョンソン
↓
↓
フォード
↓
カーター
↓
↓
ブッシュ
↓
↓
ブッシュ
↓
○イギリス
アトリー
↓
↓
フレア
○西ドイツ
アデナウアー
↓
ブラント
↓
コール
○フランス
↓ ド=ゴール
↓ ミッテラン
○ソ連
↓
↓
ブレジネフ
↓
↓
↓