【教養のための世界史】 古代ギリシア

今日は古代ギリシア新しい範囲なので地図をチェック。シュリーマンは語学の話でいろんなところで話題になる人ですね。

世界史チャレンジ。大学受験や教養、旅行の前になど。毎日少しずつ知っていこう。

 

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青い文字をクリックすると関連した画像検索や記事に飛びます。絵や写真だったり、続きの話、前の話です。気になったらさっと見てみましょう。

 

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あらすじ

 古代ギリシアは、ギリシア人が侵入する前にエーゲ文明が栄えていました。その後、ギリシア人が侵入し、ポリスが形成されました。また、彼らは交易のためにさまざまなところに植民市を作っていきました。

 

 有名なポリスはアテネとスパルタです。アテネでは貴族政治から民主政治に変わっていきます。

 

 東からアケメネス朝ペルシアが攻めてきます。このペルシア戦争に勝利したギリシア人たちは、アテネを中心にデロス同盟を作りました。しかし、アテネを嫌っていたスパルタはペロポネソス同盟を作り対抗します。スパルタが勝ち、ギリシアの覇権を握りますが、すぐにテーベに負けてしまいました。

 

概観

  今日は赤で囲まれたところの歴史をやります。

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地図

 まずは地図を確認しましょう。今日やるギリシアは赤で囲まれた箇所の話です。 

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 それを拡大したのがこちらです。エーゲ海があるところなんです。

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エーゲ文明

 タイトルは古代ギリシアなのですが、エーゲ海ギリシア人が入ってくる前にエーゲ文明(前2000~前1400年頃)ができました。エーゲ文明は種類がたくさんあります。そのたくさんある中のうちのもっとも古く成立した文明をクレタ文明といいます。赤く囲まれた箇所がクレタ島です。

 

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 クレタ文明は明るく平和的、海洋的な文化といわれています。海に囲まれているので、海の動物を題材とした絵や壷が作成されました。

 

 中心地はクノッソスで宮殿の遺跡があり、イギリスのエヴァンズが発見しました。この宮殿には城壁がありません。攻め込まれる可能性がなかったからです。そのため、平和的といえるのです。また、使っていた文字は線文字Aと呼ばれ、未解読のままである。

 

 

 エーゲ文明の後半はミケーネ文明(前1600~前1200年頃)です。ミケーネ、ティリンスなどの小王国の集合体です。クレタ文明と違い、巨大な城壁を持っていました。つまり、敵の侵入を防ぐために壁があったと考えられます。よって、戦闘的な文明なんです。

 

 後に、クレタ文明を滅ぼしてしまいます。また、使っていた文字は線文字Bでイギリスのヴェントリスが解読に成功しています。

 

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 ミケーネ文明を発見したのは、ドイツのシュリーマンでした。トロイア遺跡などが有名です。これはホロメスの『イリアスがヒントになったといわれています。

 

 ミケーネ文明は、ドーリア人の南下、または海の民の侵入により滅亡されたというされているが実際にはまだ不明のままです。

 

ギリシア

 ここでギシリア人がやっと侵入します。ギリシア人はアカイア人アイオリス人イオニア人ドーリアなど種類が多くあります。ドーリア人は鉄を持っていたので、高い戦闘力があったとされています。

 

 彼らギリシア人が入ってきたことでミケーネ文明は崩壊してしまいます。ここから400年間は史料が乏しいため、暗黒時代と呼ばれます。のちにフェニキア文字が伝わり、史料が復活しました。(前←フェニキア文字)

 

 しかし、推測の1つとしてこのようなことがわかっています。この地域は山が多い地形で大河や大平野は少なく降水量が少ないため、農作物の栽培には向いていません。その代わりに果樹栽培が中心になりました。オリーヴやブドウなどです。ギリシア人は、これらを加工し、貿易をしました。しかし、穀物は取れないので輸入に依存してしまいます。

 

ポリス

 その後、前8世紀頃には、有力者、つまり貴族が中心となって、自身の身を守るため、要地に人々が移住していきます。これを集住(シノイキスモス)と呼び、ポリスと呼ばれる都市国家が形成していきました。街の中心のアクロポリス(丘)(画像)には神殿があり、非常時には城塞の役割もありました。また、ギリシア人は普段アゴラ(広場)で生活をしていました。ここでは、交易や集会、裁判などが行われています。そして後に、貴族政治へと繋がっていきます。

 

 ギリシア人は仲間意識がありました。自分たちのことをヘレネスと呼びます。一方、異民族へはバルバロイを呼びました。バルバロイは、「聞き苦しい言葉を話す人」という意味があります。

 

 さらに、重要な決定事項はデルフォイの神託を信奉していました。宣戦布告や和平締結などの重要な決定事項は、神様にその是非を問うようにしたのです。

 

 また、オリンピアの祭典に参加するなど、同一民族の意識が芽生えていました。戦争中であっても、一時休戦にして参加したそうです。ちなみに、当時のオリンピアは女人禁制でした。

 

   また、彼らは交易拠点の確保を目指し植民市があちこちに建設されていきます。ビザンティウム(イスタンブル)シラクサマッサリア(マルセイユ)ネアポリス(ナポリ)などがあります。

 

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 さらに、交易が進むと貨幣が流入するようになりますね。これは、リディアから入ってきました。(前←リディア

 

アテネ

 エーゲ文明の崩壊後、ギシリア人が侵入して、多数のポリスを形成していきました。約1000以上のポリスを建設したといわれています。その中で有名なポリスをみていきましょう。

 

 ギリシア人の生活は交易活動をメイン行われているので、常に知恵を出し合う必要がありました。そのため、彼らの社会は話し合いの社会となります。

 

 この特徴をもった典型的なポリスはアテネです。最初は貴族を中心に貴族政治(前8世紀)を行っていました。また、取れたオリーブやぶどうを加工して商業貿易を主として発展します。すると商工業が活発化し、富裕な市民が出てきます。

 

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 彼らは自分で必要最低限の装備を買い兵隊になります。それが重装歩兵(画像)です。しかし、1人で戦うのは、怖いですね。そこで、ファランクスという戦い方を考案しました。密集して陣を組んで戦うやり方です。このようにして、彼らは国を守ることに参加していきました。

 

民主政治の基礎

 ギリシア人は話し合う文化ですが、当時話し合いはほんの一部しか参加できませんでした。ですが、市民は国を守るわけですので、政治への参加を要求していきます。

 

 前621年にドラコンが本格的に改革を行います。その改革は従来の慣習法を成文化するものでした。慣習法とは簡単に言えば、暗黙のルールのようなものです。これらを文章にして、貴族による法の独占を破り、ポリス秩序の安定をはかりました。

 

 前594年にはソロンが改革します。財産に応じて4等級に分け、等級に応じて、参政権と兵役義務を定める財産政治を行いました。このようにして、持っている財産に応じて、市民にも政治参加を徐々に認めていきました。さらに、彼は負債の帳消しを行い、債務奴隷の解放と禁止も行いました。債務奴隷とは、借金が返せなくなって奴隷になった人のことです。しかし、改革は不調に終わります。

 

 すると、前561年頃、不満をもった平民の支持を得て、ペイシストラトス非合法的に政権を握りました。つまり、僭主政治です。僭主とは独裁者のことです。

 

 彼は、亡命貴族の土地、財産を貧民に分配、さらに、中小農民を保護、育成などを行います。独裁者ですが、市民のための独裁者という感じです。しかし、その子は暴君になってしまいました。

 

 前508年頃、クレイステネスが改革を行います。この時期に民主政治の基礎が完成したといわれています。まず、デーモスという区を設置します。つまり、住んでいる地域を政治の単位にしました。

 

 さらに、僭主(独裁者)の出現を防止するためにオストラコン(陶片)(→画像)を使用し、陶片追放(オストラキスモス)を実施します。このオストラコンに独裁者になりそうな人の名前を書いてもらい、票が多かった人が追放されるというシステムです。

 

 これは市民投票の始まりといわれています。このようにして、民主政治の基礎が出来ていったわけですね。

 

スパルタ

 新しいポリスの話をします。それがスパルタです。ギリシアでは例外的に穀物栽培が可能なので、他の街との交易を必要としません。そのため、閉鎖的、鎖国的な国家体制になっていきます。また、交易を行わないため、貨幣も必要ありませんでした。

 

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 スバルタはドーリア人の子孫です。鉄を持っているためとても強いのです。そのため周りの地域を服属していきました。

 

 スパルタの人口構成は、完全市民、ペリオイコイヘイロータイ(ヘロット)になります。ペリオイコイは農業、商工業に携わる半市民です。そして、ヘイロータイ(ヘロット)は、隷属農民です。

 

 市民1人あたり使える奴隷の数は20~30といわれます。とても多く、万が一、反発を受けたら大変であるため、スパルタにはリュクルゴス制という制度がありました。リュクルゴスは伝説的な立法者の名前です。彼は朝から晩まで軍事訓練してヘイロータイに負けないようにすればよいと考えたです。スパルタ教育とよく言いますね。

 

ペルシア戦争

 話が進みます。前500~前449年にペルシア戦争がありました。始まりは、前500年のミレトス中心のイオニア植民市の反乱です。アケメネス朝ペルシアが侵入してきたことに対しての反乱です。赤く囲まれたところがイオニア植民市で反乱が起こった箇所です。(前←アケメネス朝ペルシアの歴史) 

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 前490年にはマラトンの戦いがあります。ダレイオス1世のペルシアとアテネの戦いです。数ではペルシアが圧倒していたのですが、アテネの重装歩兵部隊の活躍によりアテネが勝利します。伝令員が勝利を伝えに走って戻ってきます。マラソンの由来ですね。

 

 前480年にはサラミスの海戦があります。ペルシアとテミストクレスが指導するアテネとの戦いです。アテネの無産市民が三段櫂船(画像)の漕ぎ手として活躍によりアテネが勝利します。

 

 前479年にはプラタイアの戦いがあります。ペルシアとアテネ、スパルタの連合軍の戦いです。ここで事実上ギリシア勢力の勝ちが決まりました。

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  ペルシアの再来に備えるために、前478年頃、アテネを中心にしてデロス同盟を結成します。

 

民主政治の完成

  アテネではすべての男性市民がペルシアを追い出すことに成功します。これをきっかけに男性市民は政治に参加できるようになります。そして、民主政治が完成していくわけです。

 

 前443~前429年のペリクレスの時代にアテネの最高議決機関である民会を中心に民主政治が完成していきます。民会は18歳以上の成年男性市民で構成されています。また、直接民主制陪審員奴隷制が特徴で現在の私たちの民主制とは異なります。

 

ペロポネソス戦争

 アテネを快く思っていない人達がペロポネソス同盟を作っていきます。率いているのはスパルタです。このペロポネソス同盟とデロス同盟の戦争がペロポネソス戦争です(前431~前404)。

 

 ペロポネソス戦争中に疫病(ペスト)が流行してしまいます。そこでペリクレスが病死しました。しかし、戦争はまだ終わりません。ギリシアは内乱状態になっていきます。

 

 ペリクレスの死後、デマゴーゴスが登場します。デマの語源ですね。これによって、アテネの民主政治は腐敗してしまいます。

 

 そして、スパルタに敗れてしまいました。なんとアケメネス朝が糸を引いていたのです。アケメネス朝が支援しスパルタが覇権を握ります。しかし、長くは続きません。テーベが覇権を掌握します。

 

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 その後、内乱に加え、ペルシア干渉をしていきます。そこでギリシアの統一とアケメネス朝ペルシアを倒そうという動きがでてきます。

 

略図

バルカン半島

クレタ文明

ミケーネ文明

暗黒時代

アテネ / スパルタ

↓ ドラコン → ソロン → ペイシストラトスクレイステネス

ペルシア戦争

デロス同盟

ペリクレス

ペロポネソス戦争

マケドニア

アンティゴノス朝

ローマ

 

今日はここまで。ではまた次回!

 

 

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